第十四話 ボス部屋
ゴブリンロードが倒れたあとも、しばらく誰も動かなかった。
巨体が崩れ落ち、床に叩きつけられた音は確かに聞いたはずなのに、空間から緊張が抜けない。魔力の濃度は下がらず、むしろ均されるように静まり返っている。
俺は短剣を下ろせずにいた。
身体がまだ、終わりを認めていない。
リシアが、ゆっくりと周囲を見回す。
グランも斧を持ったまま、息を整えながら立ち位置を変えた。
「……終わった、よな?」
グランの声には、確認が混じっていた。
「はい。ゴブリンロードは完全に沈黙しています」
リシアはそう答えたあと、視線を奥へと向ける。
「ですが、最奥を確認します。ここまで来て、引き返す理由はありません」
反論は出なかった。
誰もが同じ感覚を抱いていた。
まだ、終わっていない。
三人で奥へ進むと、階層の最深部に下へ続く通路が現れた。
短い階段を降りた先は、すぐに開けた空間だった。
「……着いたか」
グランが低く呟く。
最下層。
降りてすぐ、ボス部屋だった。
本来であれば、閉ざされているはずの扉が、開いている。
「……おい。ここ、普段は閉まってるはずだろ」
グランの視線が、扉の奥を警戒する。
内部は暗く、奥まで見通せない。
リシアが扉を見つめ、静かに言った。
「おそらく、ボスが外に出ていたからでしょう」
さっきまで戦っていたゴブリンロード。
本来、この部屋にいるはずの存在。
「だから、扉が開いたままになっている」
納得はできた。
ダンジョンの構造として、不自然ではない。
グランが斧を肩に担ぎ直す。
「だったら、中に入ってコアに触れて戻ろう。無駄に留まる必要はない」
その判断に、異論は出なかった。
三人で、ボス部屋へ足を踏み入れる。
――その瞬間だった。
空気が、変わった。
敵意ではない。
殺気でもない。
ただ、存在感だけが、奥から滲み出してくる。
音もなく、気配だけがそこにある。
さっきまでの戦闘とは、質がまるで違う。
グランが一歩前に出かけて、止まった。
「……何かいる」
ボス部屋の奥、空間そのものが歪む。
そこから現れたのは、人の形をしていた。
頭部から、明確に二本の角が伸びている。
瞳は赤く、人間でいう白目の部分が、黒い。
――角の生えた、人。
俺の最初の認識は、それだった。
「……人、か?」
小さく漏れた呟きに、リシアが即座に反応した。
「違います」
短く、はっきりと。
「魔族です」
リシアは盾を構えなかった。
グランも、斧を振り上げない。
二人とも、攻撃の姿勢を取らないまま、相手を見据えている。
魔族は、こちらを一瞥しただけで、ゆっくりと視線を巡らせた。
「……なるほど。ここまで降りてきたか」
低い声だった。
感情は読み取れない。
だが、敵意もない。
沈黙が落ちる。
こちらが動かなければ、向こうも動かない。
その均衡が、はっきりと感じ取れた。
グランが、わずかに息を吐く。
「……あんたが、原因か?」
魔族は、ゆっくりと視線をこちらへ戻す。
「溢れそうになっていただけだ」
それだけを告げる。
意味は、分からなかった。
三人とも、その言葉を理解できない。
「……それだけ?」
グランの問いに、魔族は答えない。
代わりに、その背後へと視線を向ける。
そこには、淡く光る結晶――ダンジョンコアがあった。
魔族は、それを遮る位置に立っている。
「俺たちは地上に戻ろうとしただけだ」
グランが、低く言った。
魔族は、その言葉を否定もしない。
リシアが、僅かに目を細める。
「ゴブリンロードが第六層にいた理由は……」
「調整の結果だ」
それ以上の説明はない。
魔族は、こちらをもう一度だけ見渡した。
俺のところで、視線が一瞬だけ止まる。
評価でも、興味でもない。
ただ、存在を確認しただけの目。
「目的は達した」
そう告げて、魔族は踵を返す。
「待て!」
グランが思わず声を上げるが、魔族は振り返らない。
「安心しろ。これ以上、関わるつもりはない」
次の瞬間、最下層の空間が静かに歪み、魔族の姿はボス部屋の奥へと溶けるように消えた。
道が、開いた。
魔族がいた場所の向こうで、ダンジョンコアが淡く輝いている。
何も残らない。
魔力の余波すら、最初から存在しなかったかのようだった。
しばらく、誰も言葉を発せなかった。
「……攻撃、してこなかったな」
グランが、ぽつりと呟く。
「ええ。攻撃されていたら、無事ではすまなかったでしょう」
リシアの答えは淡々としていた。
「さっきのボスより、遥かに上です。消耗した状態で向き合う相手ではありません」
反論の余地はなかった。
「何はともあれ……一件落着、か」
グランがそう言って、肩の力を抜いた。
完全に安全になったわけじゃない。
だが、これ以上ここに留まる理由もない。
リシアが、ダンジョンコアを見据える。
「触れれば、地上に戻れます」
リシアがコアに手を伸ばした瞬間、視界が白く染まった。
浮遊感とともに、足元の感覚が消える。
次に目を開けたとき、そこは地上だった。
冷たい空気が肺に入る。
――帰ってきた。
それだけが、確かな事実だった。




