第九話 異常
空気が、明らかに変わっていた。
さっきまでの階層よりも、湿り気が少なく、岩肌が硬い。通路の幅は狭まり、壁面には削れたような痕が多い。踏みしめるたびに、靴底が乾いた音を立てる。
「このダンジョンは、全7階層構造ですが……ここは第5階層ですね」
リシアが淡々と告げる。
その言葉の重みを、正直に言えば、俺はまだ実感できていなかった。第5階層が何を意味するのか、低層と何が違うのか、知識がない。だから判断もできない。
ただ、二人の様子が違う。
リシアは明らかに警戒の密度を上げている。足取りは慎重で、視線の動きが増えている。グランも斧を持つ手に、余計な遊びがない。
「……群れが少ないですね」
進んでしばらくして、リシアが小さく言った。
俺にはわからない。何が少ないのかも、基準もない。ただ、その言葉に、グランが短く頷いた。
「本来なら、ここはうるさい」
それだけで十分だった。異常なのだと理解する。
「上に戻るより、下に降りた方が早い」
リシアが続ける。
「このまま引き返すと、さっきの位置まで戻る必要があります。……この状況では、リスクが高い」
理由のすべては語られない。だが、判断材料は揃っているらしい。
「俺も賛成だ」
グランが即答する。
二人の視線が、こちらに向く。
選択を求められているわけではない。ただ、同行者としての意思確認だ。
「……従います」
それしか言えなかった。俺には、逆の判断をするだけの知識も根拠もない。
進行方向が、下に定まる。
その後もしばらく、魔物との接触は少なかった。少なすぎる、と言うべきなのだろう。戦闘がないこと自体は助かるが、空白が続くほど、不安が積み重なる。
通路を進みながら、グランが低く口を開いた。
「……聖堂騎士が動くかもしれないな」
唐突な言葉だった。
「聖堂騎士、ですか……」
リシアが、わずかに含みを持たせた反応を返す。
俺には、何の話をしているのか分からなかった。名前だけが出てきて、意味が置いていかれる感覚だけが残る。
「伝えた方がいい案件だ」
グランが続ける。
「ええ。判断は、向こうに委ねるべきです」
それきり、話題は切れた。
俺は口を挟めなかった。理解できない話題に、無理に踏み込む理由もない。
――その頃、地上では。
ギルドの扉が勢いよく開いた。
「やばい!」
駆け込んできた冒険者が、息を切らしながら受付に向かう。
「どうしました?」
「第六層で……ボスみたいな影があった」
ギルドスタッフの表情が変わる。
「交戦は?」
「してない。おかしいと思って、すぐ戻ってきた」
「確認します。影、というのは?」
「はっきりとは見えてない。でも、あれは……」
言葉を探す冒険者に、別のスタッフが口を挟む。
「第六層のボスは、本来、部屋から出られないはずです」
「だろ? だから変なんだ」
一瞬の沈黙。
「……聖堂騎士に伝えた方がいいですね」
「頼む」
情報は即座に整理され、上へと送られていく。現場の異常は、確実に広がり始めていた。
――だが、その事実を、俺たちは知らない。
第5階層の奥へと、無言で歩を進める。
戻れない位置まで来ていることを、誰も口にはしない。ただ、空気の張り詰め方だけが、ここが本来立ち入るべき場所ではないと、静かに告げていた。
そしてダンジョンは、こちらの事情など意に介さず、さらに深部へ続く通路を開いたまま待っていた。




