プロローグ 落下
風の音だけがあった。
それは耳を裂くようなものではなく、ただ、空気が移動しているという事実を淡々と伝えてくる音だった。
高い場所に立っているときに聞こえる風とは違う。
身体の周囲を、上下の区別なく流れていく音。
落ちている。
そう理解したとき、恐怖はなかった。
驚きも、混乱も、ほとんどなかった。
視界には夜景があった。
光の粒が規則正しく並び、遠ざかっていく。
街の灯りはきれいだったが、意味はなかった。
ここに至るまでの経緯を、頭は正確に再生しなかった。
学校のことも、家のことも、誰かの顔も、輪郭を持たないまま霧散している。
理由を考える必要は、もうなかった。
選択は終わっている。
足場を離れた瞬間、戻るという選択肢は消えた。
それだけは、はっきりしていた。
落下速度が増していく。
体が宙に放り出され、重力だけが正直に働く。
耳鳴りのような感覚が広がり、思考が薄くなっていく。
怖くないわけではない。
ただ、それ以上に「やっと終わる」という感覚があった。
終われるはずだった。
地面が近づく。
衝撃の予測だけが、ぼんやりと浮かぶ。
痛み、骨の破壊、意識の断絶。
だが、そのどれもが実感として結びつく前に、視界が暗転した。
光が消える。
音が消える。
身体の輪郭が溶ける。
——そして。




