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「記憶…を……?」
思わずそう呟いてしまったけれど、驚いているのは私だけだったようだ。
免疫が薄いはずの紺咲さんも灰霧くんも、これに関してはすでに知っていたように冷静な反応をしていた。
「そうだよ。その人は、相手の記憶を消去することができたんだ。でも……紅守さんは信じられないって顔してるね」
「え……?」
「じゃあ、ちょっとだけきみに試してみてもいいかい?」
「え……」
「大丈夫、ほんのちょっとだけだから。怖くない。約束する。ほら、きみからも言ってよ」
紫間さんが律ちゃんに矛先を向けると、律ちゃんは私の肩に手を乗せて顔を近寄せてきた。
「ユキ、無理はしないでいい。でも、信じられないのなら、一度経験してみるのもいいとは思う。ここにいる他の5人はすでに何らかの魔法を体験済みで、そのときに、この記憶を消去する魔法も目の当たりにしているはずだから。」
私は無意識のうちに律ちゃんから5人に視線を流した。
すると、青街さんが私の方をじっと見つめてきたのだ。
でも見つめるだけで、相変わらず何も言わない。
妙な間が生じかけるも、緑堂さんの高らかな「あら、よろしいのではなくって?」が、それを制してくれたのだった。
「あなた、今日はじめて魔法の存在をお知りになったのでしょう?先ほどは気を失われるほどに驚いていらしたもの。それでしたら、また同じように気を失われないように、徐々に魔法に慣れていかれた方がよろしいかと存じますわ。紫間様と黒凪様もそうお考えになったのでは?」
緑堂さんが紫間さんと律ちゃんの意志を問うと、紫間さんは「まあそうだね」とそれを認めた。
けれど律ちゃんは「無理はしないでいい。何も今でなくても後で経験することはできるから」と、あくまでも私の気持ち次第だと言ってくれる。
だからこそ、私は不安を取り除き、前向きに紫間さんに答えることができた。
「……わかりました。でも、消去する記憶って、私が選んでもいいですか?あと、消去する記憶以外の、他の私の記憶とか心の中とかは、覗かないでもらえますか?」
「もちろんだよ。それ以外は決して覗かないと誓うよ。それじゃ、何の記憶を消してみせようか?」
「そうですね………」
私は考えながらなんとなく視線を泳がせた。
そこで、さっき紫間さんが魔法で壁に描いた白い文字が目に入ったのだ。
「………それじゃ、あの壁の文字の色を、私の記憶から消してください」
壁の文字を指差しながら伝えると、紫間さんは「いいよ。はい」と人差し指を立ててわずかに揺らした。
その瞬間、赤茶色のレンガ壁からは文字がパッと消えた。
まず文字を消してから、いよいよこれから私に魔法が施される…………そう思い、ドクドクと心臓がうるさくなっていく。
同時に、鳩尾にまた傷みが走ったけれど、紫間さんが立てた指を戻しながら私に尋ねてきたのだ。
「どうだい?さっきまで壁にあった文字の色、思い出せるかい?」
…………え?色…………?
私は赤茶色のレンガ壁をくるりと見まわした。
「文字、ですか………?」
「壁にさっきまで文字があったのは、憶えているかい?」
「それは………はい、憶えてます。でも、色は…………」
憶えている。
紫間さんがさっき魔法で壁に 『Happy Birthday MMM !!』 と書いたはずだ。
私はそれを見て魔法を強く感じて…………じゃあ、色は?何色の文字だった?
………………わからない。さっぱりわからない。
文字である以上、絶対に色はついていたはずなのに、それがわからないのだ。
思い出そうとしても、まるで立入禁止の門の前に立ち尽くしているように、深く追求することができない。
そしてその門を通りたいという思いが、まったく湧いてこないのだ。
私は全身に動揺が走った。
でもこれは単純な驚きで、決して不安とか恐怖とか不快感ではなかった。
文字の色を思い出せないことに、不思議なほど焦りや執着が持てなかったのだ。
不安はないものの、どうしたらいいのか、たまらず私は律ちゃんを見上げていた。
律ちゃんは私の背中を優しく撫でながら「大丈夫。何ともないだろう?」と言った。
「………うん」
素直に頷いたとき、紫間さんが「じゃあ、戻すよ?」と再び人差し指を曲げた。
けれど、何も起こらない。
壁の文字は復元されないし、私の記憶も……………いや、あれ…………?
「……………白?」
頭の中の門が開かれたのだった。
「どうだい?これが記憶消去の魔法だよ。痛くも痒くもないだろう?記憶を消されても戻されても、当人の体には何の変化もない。もし魔法や魔法使いを利用して悪事を働く輩がいても、こうやってそいつから魔法に関する記憶を消去すれば、一件落着だ。消された記憶は消した魔法使いにしか戻せないしね。まあ、一部の力の強い魔法使いに限っては、他者が消去した記憶も復活させることができるんだけど、今のところごくごく少数で、彼らがそれを悪用するとは考えられない。そういうわけで、この記憶を操作できる魔法がある限り、我々が以前のように権力者や非魔法使いによって迫害されたり、魔法を搾取されたりすることはなくなったんだ。これも全部、創設者のその人のおかげだよ」
紫間さんはとても誇らしげに、そして感慨深げに告げた。
「ただ、この記憶を消去する魔法は他の魔法と違っていてね。MMMコンサルティングの元となる組織に参加した者達は、毎日大勢の仲間達と一緒にいるようになったことで、他の魔法も身に付けていったんだけど、この記憶消去の魔法を使えるようにはならなかったんだよ。ごく一部、力が強い者のみが、身に付けることができたんだ。そういう特徴もあって、創設者のその人は、それまで記憶消去の魔法について誰にも打ち明けていなかった。この魔法は、魔法使い、非魔法使い問わず、不安を与えてしまうと考えたんだ。だけど、多くの仲間が戦争で利用され、命さえも危険に晒されて、どうにかしたいと強く思ったことで、自分の力を自分で利用することを決断したんだよ。でもその結果どういうことになったと思う?魔法のことを知る人間は、悪事を企まない、いわゆる ”良い人” ばかりになっていったんだよ。魔法使い、非魔法使い問わずにね」
得意気に腕を組んで胸を張る紫間さん。
その仕草はやっぱり、どこかのテーマパークで観客に芝居がかったアナウンスをするスタッフのようだった。
「実は、残念ながら、組織に参加している仲間の中にも、魔法を悪用したり、自分の利益のために仲間を裏切ろうとする者もいたんだよね。でもそういった連中が出てきても、魔法に関する記憶を消去してしまえば、そいつらはもう二度と魔法を使えなくなるわけだ。自分が魔法使いだったことも忘れて、非魔法使いとして生きて、そして老いて寿命を迎えることになる。もちろん、記憶を操作する側には相当なモラルが課せられるし、逆に言えば、記憶を操作できる者が悪事を働いても気付かれにくいということでもある。それは事実だから、欠陥のあるシステムだという指摘は甘んじて受け入れざるを得ないよね。でもね、その欠陥を差し引いても、魔法使いが安心して暮らせる世界が誕生したことは、我々魔法使いにとっても、そして非魔法使いの人々にとっても、多大な恩恵をもたらしたんだよ。魔法使いは非魔法使いからの依頼を請け負う代わりに権利が保障され、非魔法使いは魔法使いの権利を認め人権を尊重する代わりに魔法使いに多方面において協力を要請できる。つまり、共存社会がここに誕生したわけだ」
紫間さんがそう告げた瞬間、レンガの壁の中に何発もの花火が打ちあがった。




