ep6.味方が必要
港を離れるために適当に走った後、車を路肩に停めて、深呼吸して目を閉じる。
あの倉庫の光──全部、夢じゃない。瞼の裏に焼き付いている。そして世界は、何事もなかったように巻き戻っている。
生まれて初めて、不思議な現象を目の当たりにした。考えてみれば"時間が戻る"という予想もしなかった現象に巻き込まれているので、今更の事なのだが、やはり目に映る不思議なものは、衝撃が違う。
ああいうのを何と言うのか⋯⋯俺にはそういった言葉の引き出しが少なく、うまく言葉には出来ないが、とにかく凄い光景だった。
しばらく呆然と、先程見ていた光景を思い出す。
「そう言えば、また撃たれたな」
脇腹に触れるが、傷跡など無い。
あれが何なのかは分からないが、とにかくあの現象が起きると、時間が巻き戻ると考えて良さそうだ。
さて────では、どうすればいい?
港で電話を取った瞬間から"運び屋の流れ"に引き込まれてしまうので、既にスマホの電源は切った。
最終的に少女を運ぶのは確定だ。そうでなくては接触すら出来ないのだから。だが運び屋としてだけでは、この事態に立ち向かう事が出来ないだろう。
配達すれば、必ず再配達になる。再配達クレーマーがいるからな。先ずは花生を止めなければならない。あいつがいる限り、俺はいつも同じ結末を迎える。
即ち──死だ。
花生の動きを制限する。あいつの監視の網から抜ける。それが今回の大前提だ。だが花生は恐ろしい男だ。戦闘勘も良い。俺一人だけでは難しいだろう。味方が必要だ。
SIMカードは無理矢理引き抜き、側溝へ流した。追跡の知識はないが、これで良いだろう。行動の自由度は上がった。
スマホ自体は持ったまま。投擲武器にもなったし、ライトの代わりにはなるだろう。
◇
夜須波留として登場する花生を避ける為、車は近くのコインパーキングに停めて、手近な塀を乗り越えて敷地内に侵入した。
事務所に着くと、入り口の前には誰もいなかった。初仕事だというのに、迎えも説明も無い。どうやら夜須波留への撹乱は成功しているようだ。鉄階段で二階に上がり、事務所の扉を開く。
カウンターの向こうで書類を整理していた藤森玲奈が、顔を上げた。
「え? もしかして……新人の運び屋の、確か──ミヤマジン君?」
「ジンです。初めまして」
「花生さんから来る時間の連絡は無かったんだけど⋯⋯」
「さあ? 俺は知りません」
玲奈は眉を顰めたが、それ以上何も言わなかった。なるほど、花生という名で事務所とやり取りしながら実際には夜須波留として現場で働いている訳か。そして本来なら――下で夜須波留と会っているはずだ。
だが今、あいつはいないし会ってもいない。花生は電話の向こうで、何処かに留まり、現実には姿を見せていないので、待つ義理も存在しない。
「社長に挨拶します」
「え⋯⋯あ、そうね。こっちよ」
玲奈の案内で社長の事務所へ。
見慣れた光景に、特に思うところは無い。そう言えば目の前の社長は、この件についてどういう立ち位置なのか、今になって気にはなるが、俺はさっさと出発する為に、やり取りを手短に終わらせた。
ナビを投げ渡され、玲奈だけを伴って銀のワゴンへ。夜須波留は現れていない。
後部座席を開けると、少女が座っていた。初めて、ちゃんと彼女を見た気がする。
淡いクリーム色のワンピースに、白いコート。布の端には銀糸の刺繍が施され、光を受けて微かに揺らめいている。艶やかな黒髪が肩にかかり、肌は透けるように白い。まるで汚れを知らない花のような姿だ。
彼女に"荷"という言葉は、似合わないな、と俺が考えていると、その視線がこちらを向いた。少女の瞳が、ジンを捉えた瞬間――微かに揺れた。
訝しげな目。けれど、ただの他人を見る目ではない。何かを知っているような、そんな色があった。少なくとも初対面の時の反応と違う。間違い無くジンを知人として認識している。
ジンは息を詰めた。考えてみれば、前の時間ではここに来なかった。信用されていないのかも知れない。
少女は目を伏せた。
彼女がこの仕事の、いや世界との重要な何かなのは間違い無い。それも、何か取り返しのつかない形で、この世界と結びついている。時間を戻すなんて聞いたことが無いからだ。
義務教育でやっているなら、俺が知らないだけかも知れないが、多分、違う。それに養父の倉治からも聞いたことが無い。
逆側の後部座席に座った玲奈が話し掛けてくる。
「もう一人来るから少し待ってほしいんだけど」
「分かりました」
ジンは頷き、直ぐに車を出発させた。
「──ちょっ! ジン君、聞いてるの!?」
玲奈が運転席の椅子を掴んで怒鳴ってくる。
俺は覚悟を決めて、玲奈に対し賭けに出た。
「聞いてますよ。藤森⋯⋯潜入捜査官」
玲奈の動きが止まる。
「貴女に協力します。貴女は彼女を運ぶ理由を知りたがっている。なら、車木夜須波留は居ない方が良い」
玲奈は目を見開いて、硬直していたが、直ぐに手を胸元に──。
「銃は悪手だ。俺を撃ったら皆死にますよ」
玲奈は、ジンの言葉を信じていない。彼女はそういう目をしている。
「……あんたは何を知ってるの?」
玲奈の声は、低い。俺を撃った日に聞いた時よりもずっと。
俺はバックミラー越しに後部座席の少女を見てから、少し間を置いて答える。
「最初の中継地点は、五階建てのビルの裏口から入る」
声は低く、できるだけ冷静に保とうとした。
「裏口から入って、奥の鉄扉の部屋。床は黒い染みで覆われている。部屋の中心に、焦げた金属のような塊が置いてある。あれが──」
言葉を切る。説明するだけで、胸の奥がざわつく。
玲奈がスマホの画面に指を置いたまま、俺を見て眉を寄せる。
「指示と、合うわね……部屋の様子は聞かされてないし、いつも手前で待機させられてるから知らないけど。でもそれ、貴方はどうして知ってるのかしら?」
玲奈が鋭い目で俺を見る。
「前に見た。と言っても、信じてもらえないかも知れないが、あの部屋の中はそんな感じだった。俺も彼女と共に中に入り、何をするのかを確かめたい。見張りは俺が対処する。藤森さんも中に入ればいい」
言い終わると、後部から微かな声が割り込んだ。少女だ。眠っているわけではない。静かにこちらを見て、ぽつりと呟いた。
「瘴気を宿して……運んでるの」
その言葉に、胸が苦しくなる。「瘴気」という言葉は知らない。だが、だが響きだけで分かる。汚れた空気、不快な匂い、あの薄汚れた黒は、触れると心を侵すものだ。直感が喉の奥から這い上がる。
「瘴気──そう呼ぶのか? あの黒い染みを⋯⋯」
と俺は問い返した。声が思った以上に枯れていた。
少女は答えるでもなく、肩をすくめるでもなく、ただ小さく俯いただけだった。その態度は冷たく、あの儀式を受け入れる者の諦観にも見える。
明確に壁がある。実際、俺と少女との間に信頼関係などは無い。今はこの辺りが限界だろう。
玲奈の瞳を見ると、感情の揺らぎが見える。俺を撃ち殺した女とは思えない。裏稼業の人間には厳しいが、この少女には何か同情しているのかも知れない。彼女はそれでも、プロの表情に戻り言葉を返した。
「瘴気、ねえ。また急にファンタジーな事を⋯⋯まあいいわ。ジン、あなたは"部屋"で行われる"何か"を確かめたいと。あなたが本当にその部屋にあるものを知っているなら、私の捜査に役立つかもしれない」
俺は頷いた。だが俺からも条件が一つあった。
「それと、裏口から出てきた時に五人の外国人が道を塞ぐ。前の時もそうだった。あれが藤森さんの手引きなら、引かせて欲しい。彼らも、怪我はしたくないだろうから」
玲奈はたっぷり十秒は完全に黙り込んだ。それから「⋯⋯倉治の弟子か」と呟いてから話し出す。
「本当に、どうやって知ったのよ。その五人は金で雇ったの。私の目的は"上"を炙り出すこと。それから、この子を保護すること⋯⋯だから──」
言葉と同時、彼女の声はプロの冷たさを含む。
「考えていた計画は──彼らに邪魔をさせて、その混乱の中で夜須波留と運び屋を誘い出す。現れたところを彼等に痛めつけさせる。彼らもその道の人間よ。下っ端だけどね。この子はそのまま保護する──と見せかけて"上"の連中を誘い出す。少なくとも、その時に誰が動くのか、くらいは突き止めたいの」
俺は短く息を吐いた。裏があるのは分かっている。玲奈が金で人を動かすのも、何かの真相を掴む為だ。恐らく玲奈は自分で掴んだ証拠以外は信用しない。そういう目をしている。
「藤森さん、それは俺の前では一度も成功してません。俺達には必要無い。むしろ、後から追ってくると思う夜須波留に、けし掛けて欲しい」
玲奈はわずかに口角を上げた。
「その、まるで既に経験したような──。ま、とにかく私の計画も既に狂ってきてるもの。だから⋯⋯信用してあげるわ。この子のために、動けるなら動いて。もし嘘なら、後で責任は取ってもらうけどね」
後部座席から少女の視線がまたジンに移動する。彼女の瞳は、周囲の誰よりも冷静だ。儀式と称して、あんな目に遭っているにも関わらず。
俺が居ない時のあいつらは、どうなったんだろうか。前回は玲奈が運転して、少女を最終地点に連れてきていた。夜須波留は俺の車を確認していた。もしや少女の服が汚れていたのは、あの外国人と揉めたからか?
今となっては確認のしようもないが。少なくともこの少女に訊く程の関係性は築けていない。
「藤森さん──」
「玲奈で良いわ。⋯⋯偽名だけどね」
「じゃあ、玲奈さん。俺もその子を出来れば助けたいと思っている。その方法を考えたい。そして、今のところ邪魔をしてくるのは夜須波留、つまり花生です」
玲奈は眉毛を寄せる。
「ああそう⋯⋯なるほど、仲介人を装ってたのね、夜須波留の奴。若作りしてるなって思ってたのよ」
「あいつは恐らく、裏社会の下っ端ですが、任務に忠実です。必ず邪魔をしてくるので、早く行動して中継地点を全て回りましょう」
俺はハンドルを握る手を引き締め、交差点を右に曲がった。
玲奈が指示を飛ばす。
「まずは裏口から三人で入る。本来なら見張りが居て、私は入れないんだけど⋯⋯そいつ頼んで良い?」
「任せて下さい」
「さすがは倉治の弟子ね」
「⋯⋯有名なんですか?」
「知らないの? 依頼遂行率、殆ど100%よ。何があっても必ず荷を届けるの。引退を惜しむ声もあるの」
「そうですか」
知らなかった。ただ運ぶだけの仕事に格闘術が何故必要なのかと思っていたが、荒事もあるようだ。
玲奈は、優しく少女に問い掛ける。
「出来れば、部屋の中で何が起こるのか教えてくれない? さっきから話を聞いてるから分かると思うけれど、私達は貴女の味方よ」
少女は、無感情に玲奈を見つめて言い放つ。
「⋯⋯何をするかは、見ていれば分かる」
声音は涼しげだが、重い。
銀のワゴンは近くのコインパーキングに停めた。
外へ出て、何度も来たビルを見上げて息を整える。
五階建てのビルが、やけに大きく見えた。
◇
ビルの裏口の鉄扉を開いて中へ。前と同じ鉄が焦げたような匂いがする。玲奈と少女が後に続く。足音が三つ、不揃いなリズムで前へと進む。
曲がり角で手を上げて、後ろの2人を停止させる。
「ここで待て」
俺の指示に玲奈が頷く。少女は玲奈の背後にいて見えない。
俺は曲がり角を出て、鉄扉の前にいる見張りの男に姿を見せる。警戒されないよう、ゆっくりと進む。見覚えのある灰色のスーツの男は、割と手前にいた。あの床の染みに触れたくないのだろう。
「あ〜、きみ、ここは行き止まりだ。迷い込んだのなら別の道へ⋯⋯オイ聞いてるか? そこで止まれ。オイ! 言葉が分からんのか!?」
右手に持ったスマホを、手首のスナップだけで投げ付ける。相手の目線と平行になるように投げる。視認が難しくなり、咄嗟の回避が出来ない角度だ。
「がっ!? おま──ぇがっ」
眉間に当てたスマホが、見張りの視界を閉ざす。滑るように踏み込んで顎を掌底でカチアゲる。倒れる時は頭を打たないよう、後頭部に手を添えてゆっくりと寝かせる。別に俺はこの人に恨みはないからな。
この人には前回も、不意打ちで顎に掌底を入れているので、少し申し訳ない気持ちになる。
曲がり角で待機している玲奈と少女を呼ぶ。
「期待通りというか、鮮やかな手口ね」
手口と言われると犯罪行為のようだ。⋯⋯確かに勝手に侵入してるので犯罪行為かもしれないが。
奥の鉄扉の前に来たとき、空気が変わった。ぬめるように重い──湿気とは違う何が、纏わりついてくるようだ。そして体が、ゆっくりと圧迫される感覚。
言葉で言い表せない、不快感だ。
俺は取っ手を握り、少しだけ扉を押し開けた。途端に鼻を突く、焦げ臭さが溢れ出した。そして相変わらず、電灯が点いているのに暗い部屋だ。床一面が黒い染みに覆われている。
何かが焼け焦げたような……いや、染み付いたという表現が正しいか。部屋の中心には、鈍く光る金属の破片のような物がある。触れる事が出来ないので、材質は分からないままだ。まるで溶けた何かが、固まってそのまま残ったような形をしている。
「あれだ……瘴気というやつを発しているんだろ?」
玲奈が背後で、ハンカチを鼻と口に押し当てたまま、息を呑んだ。
「本当に知ってたのね。やだ⋯⋯これが瘴気?」
少女に問い掛ける。
「そう」
そう言って、少女がジンの脇をすり抜けて一歩、前に出た。彼女の白い出で立ちが、異様にこの空間から浮いて見える。清楚で汚れのないその姿が、逆にこの場所の禍々しさを際立たせる。
そこからは迷いのない動きだった。白いスカートが床の染みを掠める。
「ちょっと!」
玲奈が止めようと手を伸ばしたが、少女は振り返りもせずに言った。
「大丈夫。これが私の、役目だから」
小さな声だったが、はっきりと届いた。
少女はそのまま金属片の前に膝をつくと、両手を胸の前で合わせて、祈るような格好をする。そして、掌をそっとその黒い塊に触れる。
次の瞬間、室内の空気が動いた。目に見えない埃が浮き上がるように。部屋の中の温度が一気に下がる。電灯の明かりが揺れ、影が明滅する。
「やめろ、危ない!」思わず声を上げた。
だが少女は動じず、ただ静かに手をかざしている。黒い光の群れが、彼女の腕を這い上がった。逆流するように、金属片から少女の身体に流れ込む。
光──と言っても黒い、それは"黒い輝き"。前回、最後の瞬間に見たモノと同じ⋯⋯。視界の奥に染み込み、脳の内側を焦がすような黒。その光景に、吐き気と寒気が同時に走る。
そして俺は見た。
少女の髪の先が、ふっと揺らいだ。空気の流れもないのに、黒が彼女を包み込む。まるで、彼女の中に"還っていく"ように。
「……嘘でしょ⋯⋯何よ、これ」
表情を失った玲奈が、呆然と呟く。超常のものを前に、その声は震えていた。
俺は一歩後ろに下がった。その瞬間、鼻の奥に焦げた匂いが刺さった。次に、胸の奥が――裂けるように痛んだ。
(……なん⋯⋯だ……またか!?)
頭の奥で、誰かの叫び声が響いた。
覚えていないのに、母の声かも知れない。
名前を呼ばれた気がした。
呼ばれたことなんてないはずなのに。
俺には、名前なんて最初から無いはずなのに。
「おい! ミャンマー人!」
あの時、公園で遊んでいた子どもが俺の顔を指さして、笑ってそう言った。今思い出しても悪意があって言ったのでは無いかも知れないと思う。俺は意味も分からず頷いた。それが、俺の名前になった。
ミヤマ・ジン。倉治が漢字をあててくれた──宮間人。しかし国も、産まれた記録も、何もない。けれどそれが、俺の"始まり"だった。
胸が痛い。だがもう、怒りは無い。前回で少しは慣れてしまったらしい。なら悲しみなのか──それも分からない。良かった、もう傷付かない。心にかさぶたが出来たみたいだ。
気付けば、黒い染みが足元から這い上がってくるように感じる。見えない何かが俺の中に入り込もうとしている。前回よりも、もっと深いところに⋯⋯。
「ジン!?」
玲奈の声で、我に返る。俺は室内の壁に手をついて息を整える。喉が焼けたように乾いていた。
少女は、ゆっくりと立ち上がった。その表情は、先ほどよりもどこか……安らいで見えた。
「これで、一つ目……」
小さくそう呟いて、扉の外を見た。
玲奈は腕時計を見て、短く言った。
「直ぐにここを離れましょう。⋯⋯ジン、立てる?」
「……ああ」
俺は息を吐いた。視界の隅で、金属片が光っていた。銀色に輝く⋯⋯まるで夜空に輝く星のように美しい輝き。
瘴気というものが無くなっているのだろう。少女に移動したからか。きっとそうだろう。
「体調は、悪くないか?」
俺もフラついているが、少女に問い掛ける。
「⋯⋯なんだか、軽い。前より軽いから、大丈夫」
少女は怪訝そうな顔で自分の掌を見つめている。
「前⋯⋯つまり今までにも経験があるんだな?」
俺の問いに、少女はジッと目を見つめてくる。
沈黙。
少し間があって、少女は口を開いた。
「ずっと、これが私の役目ですから」
どちらの意味だろうか。まだ確認するには至らないか。少女を見つめながら、言葉の意味を考える。
「今回の御役目と言う意味なら、あなたの想像通り」
俺は息を呑む。
「つまり君も記憶を、持ち越しているんだな?」
俺の問いに、少女は静かに頷いた。




