表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/13

ep4.寄る辺なき者

 午前の港は、前と同じ匂いがしていた。

 濁った海風が窓から入り込み、車内を撫でていく。


 錆びたフェンスの向こうを、トラックが低い唸りを上げて通り過ぎて行った。


 ハンドルに肘をつき、無音のスマホを見つめていた。ディスプレイには、三度目の朝の光が反射する。


 ──また、同じ日が始まった。


 腕時計の針は九時二十八分。

 秒針が、きっちりと同じテンポで動いている。


 何度目の呼吸かも分からないため息を吐き、ジンは小さく呟く。

「……三回目か、初仕事」


 最早、これを初仕事と呼んでいいのだろうか。


 最初は何も知らず、理由も分からず殺された。

 二度目は、違う選択をしても結末は同じだった。

 なら三度目は、もっと別の方法を取るしかない。


 簡単だ。この仕事を、降りればいい。降りられるのなら、だが。


 港を見渡す。

 濁った水面の向こうには、遠く出航する貨物船が見える。

 あれに乗って逃げられたら──そんな甘い幻想が頭を掠めた。


 首を振り、ヘッドセットに触れる。


 着信音が鳴る。

 スマホよ画面には、また同じ名前──花生涼太郎。


 一、二、三、四。

 前と同じように数を数え──そして、五で取った。


「ようジン、着いたか? 車は裏口に停めろ。表は客が来てたら嫌がられるからな」


 声も、抑揚も、笑い方も、まったく同じ。

 この二日間で、もう背筋が冷たくなるほど聞いた声だ。


 俺は意を決して口を開いた。

「花生さん」

「ん?」

「……俺、今日の仕事、降りたいです」


 一瞬、風の音だけが流れた。


「降りたい?」

「はい。どうしても……やりたくないです」

「そうか」

 花生の声は、静かで、どこか遠かった。

「まあ……お前がそう言うなら仕方ねえな」


 ジンは息を飲む。

 あまりにあっさりと、許された。

 だが──そのあとの声に、微かに違和感を覚えた。


「ジン。お前、逃げるのか?」

「……生きたいだけです」

「意味が分からんが、そっか」


 短い沈黙。

 そして、花生が、穏やかに言った。


「じゃあ、さよならだな」


「……え?」


 次の瞬間、耳の奥を貫くほどの閃光と、鼓膜を破る轟音。


 視界が白く弾け、全身を押し潰すような熱と衝撃が、ジンを飲み込んだ。


 車の鉄骨がねじれ、フロントガラスが破片となって宙に舞う。潮風の匂いが、焼け焦げた油に変わった。


 最後に聞こえたのは、ヘッドセット越しの──花生の、かすかな声。


「残念だよ」


 全てが、崩れ落ちた。


 ◇


 ──港。

 午前の風。

 トラックの唸り。


 エンジンを切ったままの車内で、四度目を迎えていた。


「⋯⋯社長、玲奈、そして花生さん」

 この依頼で俺を殺した人物を呼んでみる。


「⋯⋯くそっ!」

 柄にもなく汚く吐き捨ててしまう。


 どうやら逃げる事は出来ないらしい。

 "荷"を運んでも殺される。仕事を降りても殺される。


 2二度目と同じ筋道をトレースして玲奈を制圧したところで、話の流れから潜入捜査官である事実を知ってしまう俺を、生かしておくことはしないだろう。


 そして、ヘッドセットから着信音が鳴り響く。


 画面に浮かぶ「花生涼太郎」の文字。

 俺は通話を──取る気にはなれなかった。


 着信音のコール数を、心の中で数を数える。

 一、二、三、四──。

 七回目で止んだ。二度目と同じだ。


 同じ日なのだから当たり前だ。


 もう一度、電話が鳴る。

 今度はワンコールで取った。


「……はい」

「ようジン、着いたか? 車は裏口に停めろ。表は客が来てたら嫌がられるからな」

「……はい」

「お前、緊張してるだろ。安心しろ、やることは単純だ。渡された荷を運ぶだけなんだからな」


 少し間があって、花生が激励する。

「倉治さんの弟子だろ? なら大丈夫だ。自信持っていけよ」

 通話が切れた。


 音がなるほど、歯を食いしばる。

 他人に生殺与奪の権を支配されている、そのどうしょうもない苛立ちが湧き上がる。


 だが⋯⋯やるしか無い。

 仕事を受けなければ、殺される。もちろん受けても選択を誤れば殺されるが、まだ猶予はある。


 居場所も味方も無い自分に、逃げ場はない。


 養父の倉治も、恐らく一度目は、事務所で受けた電話の後に殺されているような気がする。

 倉治の番号では無かったのは、倉治の傍で誰かが社長の電話を取ったからだ。

 あの通話の時に耳に入ったノイズも、自分には分からないが、何か仕掛けがあったのだろう。

 回答を間違え、即座に通話が切れたのが、その証拠だ。


 短く息を吐き、爆死した前回は出来なかった、三度目のエンジンキーを押す。


 俺は少し乱暴にギアを入れた。


 ◇


 裏口の鉄扉の前に立った瞬間、既視感が皮膚の下で疼いた。

 鉄錆の匂い、左上の蜘蛛の巣、曇った監視カメラの角度まで──全部が同じだ。


 来る度に、意味も無い事務所の情報に詳しくなる。


 インターホンを押すと、すぐに錠が外れる。

 黒いパーカーの夜須波留が顔を出す。

 細身で猫背気味、口の端に古い傷。


 前と同じ顔。前と同じ声。


「おお、新入りか?」

「ええ、ジンです」


 無表情のまま頷く。

 胸の奥の感覚が冷えているのを感じた。


 前回と同じ台詞を、冷静に受け止める。

 もう、驚きはない。じっくりと観察する番だ。


 階段の上から玲奈の声が響く。

「あなたがジン君? 来て。社長が待ってる」

 同じ声、同じ言葉に同じ笑顔。


 だが、もうその笑みに騙されない。

 この女の目は仕事の匂いをしているからだ。


「分かりました」

 言葉は丁寧だが、声の奥は鋼のように固かった。

 それ以上の言葉をかけさせないよう振る舞う。


 今度は──俺が主導権を握ってやる。


 ◇


 事務所の扉を開ける。

 中に立つ依頼人、"社長"と呼ばれる黒いスーツの男は、前回と同じ位置で煙草を弄んでいた。


 机の上の灰皿も、溶けかけた氷も、全て配置は変わらない。


 静かに立ち、必要最低限の返答だけを返す。

 順序を覚えているからこそ、余計な言葉は挟まない。


 バグの流れを変えるためのポイントは、恐らくここでは無い。


「女のガキだ」

 その言葉が出た瞬間、胸の奥に冷たいものが流れ込んだ。


 運び屋の仕事が──始まった。


 ナビを受け取った俺を、玲奈が促す。

「行こうか」

「はい」


 声は震えていない。

 むしろ、前よりもずっも、落ち着いている。


 ◇


 港の倉庫街の隅に、銀色のワゴン。

 車の後部座席には、あの少女がいるだろうが、わざわざ確認はしない。もう足回りも見ない。


 運転席に座ると、視線を感じた。バックミラー越しに目を合わせる。少女は眉根を寄せていた。


「⋯⋯送ります」

 それだけ言って、エンジンを掛ける。


 慌てて監視役の2人が乗り込んで来る。

 助手席には夜須波留、後部には玲奈。


 ナビに従い、車は港を離れて市街地へと進む。


 そして──また、あの路地裏に入る時間が来た。


 ◇


 ワゴンを路肩に停める。

 歩道を挟んで目的のビルが見える。少女と玲奈が出て行く。そして夜須波留もコンビニへ行った。


 5階建ての『コージンビル』。


 間を空けて動きを把握してからビルの裏、路地へ向かう。前回と同じ、五人の外国人の男たちが待っていた。派手な赤いシャツの男、他にも剃り上げた頭の男がいる。よくよく見てみれば、袖から入れ墨が見える者も居た。


「……うんざりだ」


 足音を立てずに男たちに向かって歩く。


 赤シャツが一番目として、自分に近い者から、一、二、三、四、五人目として数える。


 赤シャツの男がこちらに気付き、顎を上げた。

「おい、日本人。こっちは──」


 言葉の途中で、ジンの掌底が男の顎を打ち抜いた。

 首が回り、目の焦点が合わないまま、糸の切れたマリオネットのように崩れ落ちる。そのまま赤シャツの胸を押し、最後尾の2人に押し付ける。


 素早く右へ移動、二人目の男の顎に肘を入れて意識を刈り取る。


 倒れ込む二人目の男の身体に隠れて、三人目の視界の外から、貫手を喉に突き込む。


 赤シャツを支える四人目を無視して、五人目の腹に前蹴りを入れて吹き飛ばし、壁に叩き付ける。


 喉を押さえた三人目の頭を抱え込んで、顎に膝蹴りを入れて意識を刈り取る。


 赤シャツを床に横たえ、四人目が向かって来た。

 殴り掛かる腕を、外から内へ巻き込むようにして関節を極め、アスファルトに叩き付ける。

 そのまま顎を膝で蹴り抜いて気絶させた。


 5人目は壁に叩き付けただけなので意識はあるだろうが、暫くは立てないだろう。


 たった十秒。

 五人が路地裏に転がっていた。


 息を吐き出す。身体は震えていない。しかし高揚する自分を認識する。だがこれは、暴力そのものによる高揚では無い。


 これは──全能感とも呼べる、何か。

 養父の倉治に見られたら、根性を叩き直されそうだ。


 路地の奥で、玲奈が目を見開いて立っていた。

「──なっ!? これ……何してるのよ」

 前回までと口調が違っている。

「邪魔だったので道を開けておきました」

 ジンは口の端を持ち上げて少しだけ笑みを作る。


「⋯⋯やり過ぎでしょ」

 玲奈の声に、俺は振り返らない。

 少女の腕を軽く引き、歩道まで導く。


 意識のある男は、呻きながら起き上がれない。

 痛ましそうに玲奈が見つめていた。


 ◇


 再び車に乗り込む。

 玲奈は黙り込んでスマホを見ている。


 夜須波留が乾いた笑いを漏らした。


「おいおい……お前、前職何なんだよ」

「荷の安全を確保しただけです」

「安全確保ねぇ……」


 何も答えず、エンジンを掛けた。

 現場に居なかった夜須波留が、なぜ知っているのかは聞かない。玲奈か夜須波留の手引きであると言うのが、俺の予想だ。 


 少女の視線が、後部座席からじっと刺さる。

 そこにあったのは怯えではなく──混乱だった。


 バックミラー越しに目が合うと、その瞬間、少女がほんの少し泳いだ。


 俺は少女の反応を無視して、ギアを入れた。


 黙って街中を走り出す。夜須波留は寝ているように見える。玲奈はスマホを触っている。少女は──窓から外の景色を見つめていた。


 死のループの中で、初めて"自分の選択が道を作る"という感覚に嵌まる自分に気付いた。


 これこそが俺が求めていた展開ではないだろうか。このまま運び屋として、依頼を終わらせて事務所に戻る。玲奈を牽制して、協力も仰がせなければ良い。


 そうすれば──ようやく初仕事の終わりだ。


 何度も少女を運ぶ、このループが切れる。


 ◇


 昼を少し過ぎていたが、前回よりも早い到着。

 最後の中継地点。潮の匂いが強い埠頭の端。

 今回は、スーツの男が待っていなかった。


 どうやら早く着きすぎたようだ。


 車の窓を少し下げて、外の様子を伺う。


 今までと違うのは、後部座席の玲奈がドアに手を掛けていることだった。


「ジン君、私も一緒に行くわよ」

 彼女は軽く顎を上げた。

「監督役よ。夜須波留、悪いけどここで待ってて」


 夜須波留は不満げに舌打ちをした。

「お好きにどうぞ」


 今まで車で待機していたのに、玲奈が外に出た理由はなんだろうか。違いと言えば、スーツの男が居ない事くらいか。


 俺も玲奈と少女を伴って車を降りた。

 足元のコンクリに散らばる砂利が、音を立てる。


 倉庫まで30m程の距離を三人で並んで歩く。

 倉庫の鉄扉から、スーツの男が姿を現した。

 その場で玲奈が立ち止まる。


 俺と少女だけが歩き続けて行き、スーツの男の目の前に立つ。無表情に、無機質な瞳、覚え難い顔をしている。


 少女が俺の袖を掴む。目を向ければ、こちらを見ていた。よく見れば黒目ではない、冷たい海のような色の瞳。


 そこに、ほんの一瞬だけ、笑みが浮かぶ。

 しかし彼女は俺の名を呼ばなかった。


 彼女は"知っている"が、距離を取っている。そういう選択をしていると、分かった。だがその選択の理由は分からないし、興味を持ってはならない。


 俺にとって彼女は"荷"でしかないのだから。


「引き渡しだ、確認を」

 俺のそれらしお言葉に男は頷き、少女を連れて行く。


 スーツの男と共に、細い肩が遠ざかる。


 風が一度止んだ。


 三度目の配達──二度目の再配達か。

 本職の配達員なら苦情を出しているかも知れない。


 下らない事を考えている自分に笑みが溢れた。

 少女は、これで届け終わった。そう思った瞬間、胸の奥から不快感がわずかに湧き出す。


 余計な詮索だ。

 少女が何者なのかなど、知る必要は無いのだから。


 ◇


 依頼人の待つ工場への帰り道。

 玲奈は後部座席で黙ったまま、スマホを弄っていた。

 夜須波留は助手席で寝ている。


 沈黙が長く続く。


「⋯⋯悪くはなかったわね」

 玲奈が呟くように言った。

「あなた、随分と落ち着いてたわ。乱暴だったけど」

「慣れました」

「初仕事で"慣れた"なんて、あなたくらいよ」


 彼女は窓の外に目をやる。

 その横顔には、かすかな苛立ちと、疲れがあった。


 今回、玲奈は俺をジン"君"とは呼ばない。距離を置かれているようだが、それで良い。彼女は俺を撃ち殺した人物だ。


 とりあえず今回は、協力を仰がれる事は無さそうだ。


 ジンは運転に集中していたが、額と後頭部には、前回の痛みの記憶が、まるで幻肢のように残っている。


 だが今は、それが行動の支えになっている気がした。


 ◇


 中古車ディーラーの工場に戻ると、やはり喧噪。

 扉の向こうから、指示を飛ばす声が聴こえる。


 事務所に入る前に一度だけ、深呼吸しておく。


 玲奈が先頭に立って扉を開ける。

「ねえ、なんなの? 社長は?」

 玲奈がツナギの従業員に声を掛ける。

「ガサ入れのタレコミだ、片付けてんだよ」

「お疲れさま。ジン君、とりあえず事務所行こっか」

 玲奈がジンの手を引いて事務所へ向かう。


「社長、戻りました」

「ああ⋯おい通路に立つな。そこで待っていろ」


 見慣れた流れを見る。


 最初に死んだ、大きめの凹みで待機する。

 スマホを手渡される。

 画面には、初見だが見覚えのある番号が並ぶ。


「……ジンか」

「はい。無事に完了しました」

「そうか。──ひとつ聞く」


 声の調子、間の取り方、すべて記憶通り。

 俺の回答もまた、同じ。


 沈黙の後、倉治の声が少しだけ和らぐ。

「……そうか。荷は荷だ。忘れるな」

「はい」


 通話が切れる。そして誰も銃は構えない。

 玲奈が軽く息を吐き「終わりね」と呟いた。

 夜須波留が「お疲れさん」と声を掛けてくる。


「今日はもう帰って良いぞ。報酬の受取は倉治から聞け」

「分かりました。では、これで失礼します」


 事務所を出て、少し赤みがかった水平線を眺める。

 二度目だが、良い景色だ。

 海から流れてきた風が、頬を撫でる。


 ──やっと、終わった。


 倉治から譲られた自分の車に戻り、後部座席に玲奈が居ないことを確認した。どうやら暴力的な解決を図る者は協力者としては不適格なようだ。


 知らず、口角が上がってしまう。

 そこで、ふと、前回の死因を思い出して、運転席の下を探ると、ダクトテープで貼り付けられた、硬い何かに手が触れる。


 死ぬ寸前、爆炎が足元から噴き上がった事を覚えていた。


 どうするか⋯⋯。少し考えてから、依頼を終えた今、取り外す必要はないだろうと判断して、放置する事にした。


 遠隔操作で爆発させられるものだ。

 依頼が無事に完了した今、触れる事で死の危険に晒される可能性があるのなら、放置するのが良いだろう。


 ◇


 自宅近くに借りているガレージに車を置いて、帰宅する。時刻は夕方の6時前。自宅は二階建てのアパートメントの角部屋。玄関を閉め、靴を脱ぎ、上着を壁に掛ける。


 養父の倉治は出掛けているようだ。ほんの一時間程前に通話していたが、ここでは無かったのかも知れない。どちらにせよ、家で待つより他に無い。


 ソファに腰掛けると、ようやく息が出来た気がした。


 風呂を沸かす。

 湯気が立ち上る。


 ソファに寝転がり、部屋を見渡す。日常を取り戻す時間を堪能する。


 風呂に入り湯船に沈み、目を閉じる。


 少女の瞳が瞼の裏に焼き付いて離れない。今頃彼女は何をしているのだろう。


 運ばれた理由は?


 "荷は荷だ"──倉治の声が思考を遮る。


 アレは、荷物が"何であろうと"依頼人に運搬の難度を悟らせてはならないという、問答だった。


 一度目は、答えを間違えて処分された。倉治の教えを徹底して守る者かどうかの確認。恐らくは、技量よりも仕事への姿勢を試された。


 湯上がりに、外で静かな足音が聴こえた。

 予想通り、玄関のチャイムが鳴る。


 窓を見る。気が付けば夜だ。

 こんな時間にアパートを訪ねてくる人間など、思い当たらないが⋯⋯。


「どちら様ですか」

 ドア越しに誰何する。


「俺だ、花生だよ。初仕事の祝いに来た」

 聞き覚えのある声だった。


 電話口で何度も聞いた、好奇心に満ちた男の声。倉治に紹介されてからこれまで、花生と会ったことは一度も無い。


 ドアを挟んで立っているはずの男は、躊躇無く自分を爆殺した男だ。最大限に警戒する。


 車に仕掛けられた爆弾を解除しに来たのだろうか。

 タオルで髪を拭きながら、ドアを開ける。


 そこに立っていたのは、黒いパーカーの男。

 昼間、助手席に座っていた夜須波留だった。


「よぉ。さっき振りだな、ジン」


 血の気が引く──頭の中で音が止まった。


「……花生、さん?」

「ああ。驚いたか? ま、電話越しじゃ分からんよなぁ」


 軽く笑いながら、車木夜須波留──いや、花生涼太郎は部屋に上がった。

 その笑い方、声の調子、全部が、あの日の電話のままだ。


 ──自分を爆殺した男は、ずっと隣にいた。


 背筋が冷たくなる。湯気の残る部屋で、空気が凍る。


「ま、今日は挨拶だけだ。これからよろしくな」


 その言葉を最後に、世界がゆっくりと滲み始めた。


「えっ? 今なんて?」

「あ? だからこりゅぇかぁ─らぁ⋯⋯──」


 花生の声が遠くなる。

 頭の奥で、何かが反転するような感覚。


 視界が──暗転する。


 ◇


 再び、港の朝の光が差し込んだ。

 運転席に座り、ハンドルを握っている。

 風呂上がりのはずの髪は濡れていない。


 車内に海風が流れ、頬を撫でる。


 スマホが震え、ヘッドセットから着信音が鳴る。

 心臓が大きく跳ね、全身から汗が噴き出す。


 首が固まって動かない。

 喉を鳴らすが、渇き切っていて何も飲み込めない。


 視線だけを動かして助手席を見る。


 古いスマホの画面には「花生涼太郎」の文字。


 この瞬間──直感的に理解した。


 ループのトリガーは、自分の死ではない──。


 この現象の、"バグ"の原因は⋯⋯。


 頭の中、少女の海のような瞳がこちらを見ていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ