ep3.運び屋の正解
ハンドルを握る指先が、汗ばんでいるのを感じた。
考えてみれば、俺は他人に大声を出したのは初めてだ。
格闘術は養父に叩き込まれていたので何とかなるが、大声を出すほど他人と関わってこなかった。
義務教育というやつを受けていない俺は、大勢の人と関わる機会が無かった。
勉強も、数年前に通信制の高校に通うまで、養父の買ってきたドリルくらいしかやっていない。最初は苦労した。
余計な事を思い出していたら、心が少し落ち着いてくる気がした。
「ジン君、大きな声も出せたのね」
玲奈が感謝を伝えて来る。
「⋯⋯初めて大声を出しました」
「そうなの?」
「はい」
「まあでも⋯⋯助かったわ。ありがと」
「いえ」
玲奈との会話が終わる。
俺は他人との会話が長く続かない。
バイト先のスナックの、常連客にも言われる。
まともな客商売には向いていないらしい。
自分でもそう思う。だから運び屋がいい。
「良い事だ。争いなんざ碌なもんじゃねぇからな」
事情を聞いた夜須波瑠が会話に割り込んできた。
「そうですか」
「おう」
夜須波瑠との会話も終わる。
バックミラーに映る少女に視線を移す。
驚いた事に、少女は怪訝な顔で俺を見ていたが、直ぐに視線を逸らした。
そこからは赤信号で停まるたび、窓の外を見つめる少女に目をやった。
長い睫毛が、影を作っている。
前は気付かなかったが整った顔をしているように思う。
純日本人の顔立ちだが、鼻筋は通っている。
眉も整えている程度だが手入れされているようだ。
瞼が半分落ちていて分かりにくいが、二重瞼のようだ。
髪の長さは括っているので分からないが、胸元くらいまであるだろう。
肌質も、ミラー越しでは見えないが、荒れているようには見えない。
つまり、総じて荒んだ生活はしていないのだろう。
彼女はまた、一瞬だけ俺を見てから視線を逸らした。
やはり違和感を感じるが⋯⋯これは俺が二度目だから感じるものなのか、人との関わりが少ない俺には判断が出来無い。
今回の行動での変化は、恐らく到着時間が少し早まる程度だろう。
死なない為には、何か別の変化を起こさなくてはならない──かも知れない。
夜須波留が寝ているのを確認してから、後部座席の玲奈に質問を投げかける。
「この子は、なんの為にどこへ送るんですか」
「え? ええと⋯⋯知らないわ。ナビにあるんでしょ? 私達はルートを回るだけだから詳しくないわよ」
「ナビ以外は、誰も知らない?」
「さあ、多分だけど、上しか知らないんじゃないかしら?」
その曖昧な答えに、胸の奥がざらついた。
上、というのは――あの男だろうか。
黒いスーツの"社長"⋯⋯"先生"だったか?
あの日、俺を撃った男⋯⋯殺した男だ。
そこからビルを4つ経由する。
どの建物も、前回と同じルートを辿って回る。
玲奈は少女と降りて裏口に回る。
しかし今回は、ほんの少しだけ寄り道をしてみた。
ナビの指示を無視して、一本手前の通りを曲がる。
夜須波留が眉をひそめる。
「おい道、違くねえか?」
「前が⋯⋯詰まってました」
そう答え、元のルートに戻る。
ほんの少しの抵抗。
ミラー越しに少女が、またこちらを見た。
今度は数秒、目を逸らさなかった。
その瞳の意図がまた、俺には分からない。
◇
目的地に着いたのは、昼を過ぎた頃だった。
前回よりも、恐らく五分は早い。
ここは海の匂いが強い。埠頭の端、貨物エリア。
やはり前回と同じ、スーツ姿の男が待っている。
俺は車を降りずに、男を見つめた。
スーツの男が動く前に、少女がドアを開け、外に出る。
この流れは――前回と違う。
俺も外に出る。
荷の受け渡しに運び屋が出るのはおかしな事では無いだろう。
少女が、車を降りた俺を見る。大きな目だ。
初めて正面から見た。吸い込まれるような不思議な感覚がする。
よく見れば顔が青白い。
午前に出発した時に比べると、顔色が悪い。
もしかして、俺の運転で酔ったのか?
視線を切って少女が歩き出す。
合わせて俺も歩き出し、横に並ぶ。
玲奈と夜須波瑠は出てこない。
そういう、ルールなのかも知れない。
「⋯⋯ジン」──小さく、声がした。
今まで一度も呼ばれなかった、俺の名前を呼んだ。
俺は息を呑んで少女に視線を向ける。
だが、少女は既にこちらを見ていない。
言葉にしてみただけ、恐らくそれだけなのだろう。
少女はすぐにスーツの男に腕を取られ、歩き出す。
その背中を見送りながら、一つの仮説を立てた。
違和感を感じる時、必ず少女がいる。
もしや──彼女は俺のことを、覚えているのではないか?
全く論理的な理由や根拠も無い、俺の感覚でしかない。だが元々、俺がなぜこの日をもう一度やり直しているのかも分かってはいない。少女が前回の記憶を持っていないという保証もまた、無い。
一つだけ確かな事は──今度こそ、俺は生きて帰らなければならない。
この仕事を終えて。
少女を無事に送り届けて。
「運び屋は荷が何かを考えるな。それは運び屋の仕事じゃない。言われた時間に言われた荷を運ぶだけだ」
養父である真坂倉治の教えが頭を過ぎる。
だから──これでいい。
スーツを着た男と共に、倉庫の入り口に消えて行く少女を見送った。
仕事は完了した。
俺の生きるか死ぬかは、ここからだ。
◇
配達完了。
ナビの最後のマーカーが消え、とりあえず運び屋としての仕事は終わった。後は来た道を帰るだけだ。
ナビが無くとも道は覚えている。二度目なのもあるが、記憶力は良いと思うし、そういうのは得意だ。
俺は、倉治に教わっていた儀式を行う。
肺の中の空気を全て吐き出し、大きく吸ってゆっくりと吐き出す。淡々と終える。
反省点を頭に浮かべ、それを終えたら忘れる。感情を持ち込まない。それが、運び屋という仕事を続けるための掟らしい。
反省する為に道すがら、二度目の今日を思い出す。
少女が俺の名を口にした。呼んだわけでは無さそうだったが、あれは違和感だ。偶然とは思えなかった。
だがもう、それも終わった事だ。
車へ戻る前に一度足を止めて、もう一度深く息を吐き出し、冷静になった頭の中で整理する。
この現象――時間が戻っている。初めての体験だ。
よくある事なんだろうか。
時間は進むだけのものだと思っていた。
だが、一度目の今日という日を、肌が覚えている。あの海風を感じた時から。
車に戻ると、玲奈と夜須波瑠が声を掛けてきた。
「おつかれさま。急に降りていくから、びっくりしたわ」
「お前なりの運び屋のルールか何かか?」
ジンは短く返す。
「⋯⋯はい。では、最初の事務所に戻ります」
エンジンをかけ、再びアクセルを踏む。
港を離れ、車を走らせる。助手席には夜須波留。後部座席には玲奈。夜須波留が、軽口を叩く。
「なあ、ジン。あのガキ、気になってんだろ」
「……何の話ですか」
「お前、降ろす時もチラッと見ただろ。付き添ってたしよ。ああいうタイプが好みか?」
玲奈が鼻で笑う。
「やめときなよ。ジン君そういう顔してない」
「そういう顔って、ずっとこの顔だろ。じゃあ藤森はどう思った?」
「可愛い子だったわね。⋯⋯殆ど会話してないけど」
「冷てぇな。ちょっとは人間味を見せろよ」
バックミラー越しに、玲奈の視線が一瞬だけ俺に流れた。
その目は笑っていない、どこか探るような視線。
「ねえ、ジン君」
「はい」
「今日の依頼、どう思った?」
「どう、とは」
「女の子を"荷"って呼ぶ依頼、気にならない?」
今更だ。
「初仕事なので分かりません。⋯⋯俺は運ぶだけです」
玲奈はわずかに眉を動かしたが、それ以上は言わなかった。
夜須波留が代わりに笑う。
「真面目だな。けど、まあそれが一番安全だ」
会話が途切れ、車内にエンジン音だけが響く。
信号の切り替わるタイミング、街の音。
今も全てが、既に通ったはずの"同じ道"だ。
視界に入る全てが既視感で溢れ返っている。
信号が赤に変わり、車を止める。
その瞬間だけ、少女の顔が脳裏をよぎった。
静かに外を見つめていた。
そして俺を見つめる、何かを訴えるような、静かな瞳。
彼女ともっと会話すべきだったのだろうか。
いや彼女は"荷"なのだ。会話など要らない。
無事に届けたのなら、それが一番良いことだろう。
それよりも自分は⋯⋯死なない道を選べたのだろうか。
◇
倉庫街が近くなり、事務所も見えてくる。
それを見た瞬間、胸の奥で小さな、さざ波が生まれた。
既視感――デジャブと呼ばれるものだが、俺は本当に二度目だ。
前回と同じ場所に銀のワゴンを停める。
車の中は、やけに静かだった。
後部座席の玲奈が、スマホを眺めている。
夜須波留は背もたれを限界まで倒して寝ていた。
玲奈がスマホを仕舞って、声を掛けてくる。
「ねえ、ジン君。顔、ちょっと怖いわよ?」
「……眠いだけです」
嘘だった。
頭の奥に残る"死の痛み"が、まだ消えていない。
額を撃たれた感触が、こびり着いて離れない。
同じ光景を記憶が繰り返している。
確信に近い──予感。
"次"の選択を間違えれば、同じ結果になるだろう。
夜須波留に声を掛けて起こし、車を降りる。
三人で倉庫の2階にある事務所へ歩く。
鉄階段を登り、事務所に入る。
中は前回と同じく、やはり慌ただしかった。
書類をまとめる音、段ボールを閉めるガムテープの音。
すべてが既視感に満ちている。
「ねえ、なんなの? 社長は?」
「ガサ入れのタレコミだ、片付けてんだよ」
「お疲れさま。ジン君、とりあえず事務所行こっか」
玲奈が手を引く。
柔らかい感触とともに、冷たい恐怖が胸に戻る。
この先で――俺は撃たれた。
事務所の中の、さらに奥にある、玲奈の言う事務所。
恐らく社長専用の事務所という事なのだろう。
「社長、戻りました」
「ああ⋯おい通路に立つな。そこで待っていろ」
ドアを開けてすぐの窪みに入る。
壁に塗られたペンキの跡、焦げたような鉄の匂い。
息を潜める。社長と呼ばれる男が電話を掛けた。
すべてが一度経験した通りだった。
倉治への電話だろう。
社長が電話を掛け、話してからこちらにスマホを差し出す。
「これを取れ」
画面を見る。養父である倉治の番号では無い。
前回は気付けなかった。とりあえず番号は覚えた。
「……ジンか」
通話の相手は、やはり倉治の声。
だがよく聴けばノイズが入っているようにも──。
「初仕事、ご苦労だったな」
「終わりました。問題はありません」
「そうか。……ひとつだけ、確認しとこう」
来た。
前と同じ質問。
息を呑む。
「運んだ物が女だからといって、危険が増えるってことがあったか?」
前回、俺は曖昧に答えた。
“女の子だと危険がある”――銃口が火を噴いた。
唾を飲み込む。
今回は――
「いいえ。危険はありませんでした」
静かに、言い切る。
喉が乾いていた。
沈黙。
倉治の声が、少しだけ和らぐ。
「……そうか。荷は荷だ。忘れるな」
「はい」
通話が切れる。
通信のノイズも消える。
室内の空気が、変わらない。
銃口はこちらを向いていない。
背後で夜須波留が書類を束ねる音がする。
事務所の誰も銃を構えていない。
夜須波留が「お疲れさん」と声を掛けてくる。
胸の奥で、何かが解けたように思えた。
社長が仕事完了の言葉を掛けてくる。
「今日はもう帰って良いぞ。報酬の受取は倉治から聞け」
事務所の扉を開けて外に出ると、風が冷たい。
最後に見た時計は4時半頃だったか。
十月、既に空は赤らんでいる。
港に並ぶ工場の灯りが遠くで瞬いている。
無意識に息を吐いた。
倉治の言葉が、頭の中で反響する。
"荷は荷だ、忘れるな"
それが、倉治の生き方。そして、ジンが継ぐ掟だ。
自分の車に乗り、エンジンを掛け、車を出す。
点き始めた街灯の明かりがフロントガラスを流れる。
ようやく、仕事は終わった。また息を吐き出す。
そのとき、後部座席にわずかな気配を感じた。
バックミラーには闇しか映っていない。
だが――微かな香りがあった。
それは今日一日、ずっと共にあった香り。
火薬と香水が混じった、どこか甘くて焦げたような。
「……仕事は終わったはずですが?」
返事の代わりに、金属音がした。
冷たい銃口が、首筋に触れる。
「気付くのが早いわね。流石は倉治の弟子」
玲奈だった。
そう言えば事務所を出る時に彼女は居なかった。
声は落ち着いていたが、笑っていない。
「安心して。殺しはしない。……今はね」
「⋯⋯なぜ?」
「ジン君、あなたに仕事をしてもらうの」
依頼ではない。命令のようだ。
ミラー越しに目が合った玲奈の瞳が、わずかに揺れる。
その奥に、言葉にならない迷いを見た気がした。
ジンは黙ったまま、アクセルを踏み続けた。
住宅街を抜ける。
エンジン音と、タイヤがアスファルトを擦る音だけが車内に響いている。
事務所では死ななかった。撃たれなかった。
たが、今もまた銃口を突きつけられている。
「私ね、潜入捜査官なの。今、あの組織に潜ってるの」
「組織……?」
「今回のあなたの雇い主よ。"先生"の組織。名前は聞いてない?」
「夜須波瑠に、聞かない方がいいと言われました」
玲奈は皮肉げに口元を歪ませる。
「⋯⋯まあ正解ね。でももう遅い。あなたは今日、組織の"片鱗"を見たもの。これから倉治の代わりに仕事するんでしょ?」
「少女を運び続けるのが倉治の仕事でしたか?」
「仕事は色々よ。今日のあれは定期的に行われるけど、毎回じゃないわ」
銃口でわずかに首元を押され、息が浅くなる。
けれど、不思議と心は静かだった。
空気そのものが、既視感で満ちているからだ。
「協力して。あの子の情報を引き出す手伝いをして欲しいの」
「出来ません」
「条件は悪くない。仮の身分証を用意する」
「必要ありません」
「⋯⋯どうして?」
「俺は運び屋です。依頼を受けて運ぶだけです」
「真面目ね。でも無国籍のジン君は、本来この国に居ちゃいけないのよ。知ってた?」
「母の国にも居場所はありません」
玲奈は、感情が抜け落ちた様な表情で俺を見た。
「そう……じゃあ死んでも誰も悲しまないわね」
「そうかも知れません」
そうかもではなく、間違いなく、そうだろう。
書類の中では、自分はこの世に居ない人間だ。
父親が分かれば違うのかも知れないが、それを知る母はミャンマーという国にいる。
強制送還だったらしいので、もう殺されているかも知れないが。
軍が存在して内戦も多いと聞く。
日本とは違う。
「ねぇ、死ぬわよ? ジン君」
「貴女が殺すんですか?」
彼女の指が、静かに引き金に触れた。
その瞬間―― 既視感が、確信に変わる。
電柱が流れ、住宅街の影が車体を横切る。
逃げ場も、説得の余地もない。
「ジン君みたいに機転が利いて胆力のある人に、私の事を知られたまま放っておくとね、邪魔になるの」
「そうですか。俺は俺が機転が利くなんて思いませんが」
実際に一度目は無様に殺されている。
胆力か──しかし確かに俺はこの状況で、何故か心が落ち着いている。何となく確信があるからだが。
もしも違ったら⋯⋯という意識はあるが。
「状況判断も運び屋としてよ姿勢も、自信を持って良いわよ? 本当に残念だわ。⋯⋯ごめんね」
乾いた音。
頭の奥で衝撃がはじけ、世界が音を失った。
視界が暗転する直前、膝に落ちたヘッドセットだけが見えた。
◇
――潮の匂いが、また戻ってきた。
目を開けると、港。十月二日。九時半。
スマホの画面には「花生涼太郎」の文字。
俺は再び、生きている。
息を吸う。
冷たく濁った海風が、肺を満たす。
スマホを見つめたまま、俺は呟いた。
「⋯⋯どうすればいい」
俺は世界のバグ、そしてループを確信した。




