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ep1.初仕事

 午前の港は、早朝の残り香を引き摺っていない。

 既に波は穏やかだ。


 濁った海風が車内を抜け、ジンの頬を撫でる。


 潮風に錆びたフェンスの向こうを、大型トラックが低い唸りを上げながら通り過ぎた。


 エンジンを切ったまま窓を開け、生ぬるい潮風を感じながら、静かに外を見つめていた。


 初仕事の日だ。


 助手席に置いたままだった、古いスマホが震えた。


 画面には「花生涼太郎」の文字。

 ジンはワンコールの後、ヘッドセットの通話ボタンを押した。


「ようジン、着いたか? 車は裏口に停めろ。表は客が来てたら嫌がられるからな」


 耳元で聴こえた花生の声は、少し気怠げで、どこか、からかうようにも聞こえる。


 ジンは通話したまま、静かにエンジンキーを押した。


「はい」

「お前、緊張してるだろ。安心しろ、やることは単純だ。渡された荷を運ぶだけなんだからな」


 少し間があって、花生が激励する。

「倉治さんの弟子だろ? なら大丈夫だ。自信持っていけよ」


 通話が切れた。

 短く息を吐き、ギアを入れた。


 ◇


 依頼人が待つ、輸入車も取り扱うという、中古車ディーラーの工場は、海沿いの倉庫群の中にあった。


 金網越しに見える輸入車の列。


 その塗装はどれも異様に光沢を帯びていて、まるで展示用の模型のようだ。


 裏口の鉄扉には「関係者以外立入禁止」とだけ貼られている。

 インターホンを押すと、無言のまま錠が外れた。


「おお、新入りか?」

 出迎えたのは黒いパーカーの男だった。

 細身で猫背気味、口の端に古い傷。


 ジンは新入りではなく雇われの運び屋、謂わば外注のようなものだが、わざわざ訂正したりはしない。


車木夜須波留(くるまぎやすはる)だ、よろしくな。⋯⋯お前、ほんとに日本人か? 濃い顔してんなぁ」


 その背後から明るい声がした。

「私は藤森玲奈。今回だけのお目付け役よ。よろしくね?」

 ライトグレーのスーツに、明るい髪で緩いウェーブのかかったポニーテール。

 ジンよりは歳上だと思うが、笑うと八重歯が覗いた。

 だが、その瞳の奥には油断のない光があるように見える。


「ジン君、だよね? 倉治さんのとこの」

「はい」

「おお~アッチ系の血が入ったミステリアスな顔だ! 確か、21歳だっけ?」

「はい」

 ジンは抑揚無くはっきりと返事をする。


 玲奈が小首を傾げる。

「あ~⋯⋯無口なんだね」

「そう、言われます」

 よく言われるが、どうすれば良いのか分からない。


 玲奈は小さく笑った。

「まあいいか。上の人が会いたがってるから、まずは挨拶してきて」


 ◇


 二階へ続く鉄階段を上がると扉があり、ノックしてから入ると、薄暗い事務所があった。

 壁際に古びたスチール棚、机の上には灰皿と溶けかけたグラスの中の氷。

 窓際の椅子に、ひとりの男が座っていた。


 細身で、眼鏡をかけている。

 黒いスーツの襟元は乱れていないが、整い過ぎていて逆に不自然だった。

 顎の線が細く、血管が浮き上がった手で火の点いていない煙草を弄んでいる。

 顔そのものは穏やかに見えるのに、目だけが冷たい。

 人間よりも、獲物を観察する動物のような光を宿していた。


「来たか。倉治の⋯⋯弟子で合ってるか?」

 声は驚くほど柔らかかった。


「⋯⋯真坂倉治の養子です」

 ジンは緊張しながらも頷いて答えた。


「名前は」

「ジン──ミヤマジンです」

「ミヤマ、ジン⋯⋯倉治が名付け親とは思えんがな」

「小さい頃、誰かに呼ばれて、そうだと思い込んでました。ミャンマー人と」


 男の口角が、かすかに歪む。

「皮肉な名前だな。──ハーフか?」

 煙草に火をつけると、紫煙がゆっくり漂う。

「母親が多分、ミャンマー人です。あっちに返されたらしいです」


 男は興味も無さそうに煙草を吸ってから話し出す。


「そうか。まあいい、あいつの名前を出すなら信用はしてやる。荷は軽いが、扱いは丁寧にな」


「荷⋯⋯ですか」


「女のガキだ」

 冷たく、突き放すように男は言った。


「送迎だ。黙っていれば問題ない。車は用意した。送り先はコレを見ろ、途中で寄る場所も入っている。持って行け。戻ったら報告に来い。それで初仕事は終わりだ」


 男がポータブルナビを投げ渡し、顎で出口を指示する。

 男が視線を外した瞬間、ドアの外にいた玲奈が笑い掛ける。


「じゃ、行こうか」

「⋯⋯はい」


 階段を降りながら玲奈が話し掛けてくる。

「怖がらなくていいよ。うちの社長、顔が怖いだけで意外と優しいから」

「⋯⋯そうですか」

「でも、あれでも"先生"って呼ばれてたりするの。昔は大学の教授だったとか?」


 階段の下で待機していた夜須波留が口の端で笑う。

「嘘だぞ、それ。どう見ても堅気じゃねえだろ社長は」



 指定された倉庫の隅に、銀色のワゴンが停まっていた。

 後部ドアを開くと、少女が座っている。

 歳の頃は十五、六か。日本人だ。

 目は開いており、静かにこちらを見つめている。

 黒い髪は肩まで、肌は透けるように白い。

 怯えた様子はない。ただ沈黙が漂っていた。


「送ります」

 ジンの声に、少女は無言で頷いた。


 ジンは倉治の教えの通り、全ての座席の下を確認、その後にバックドアを開いて確認、車の足回りと正面を確認してから運転席に座った。


 荷の少女は、運転席に座る彼をちらりと見てから、窓の外に視線を戻す。


 エンジンを掛ける段になって、夜須波留が助手席に乗り込んで来た。

 後部座席には玲奈が乗り込む。

 少女の隣、ジンの後ろだ。


 出発前に玲奈が軽く肩を叩いた。

「目的地で降ろすだけ。誰かに何か聞かれても答えなくていいから」

 ジンは頷く。

「無口ねぇ⋯⋯」と玲奈。

 ジンは会話が良好な関係を築くとは限らない、そう教えられている。


 夜須波留はシートを倒してあくびをしながら「静かで良いじゃねぇか」と呟いた。


 ワゴンは倉庫を出て、港の道を走る。

 灰色の空と、波止場の錆びた柵が流れていく。

 少女は一言も喋らない。

 玲奈と夜須波留にも会話は無い。

 同僚のはずだが、仕事中は会話をしないのだろうか。


 ただ、少女は信号が赤に変わるたび、小さく息をついていた。


 1時間程運転して街中にある中継地点に着いた。

 銀のワゴンを路肩に停める。


 5階建てのビルだ。看板のような物が打ち付けられているが距離があり、読めない。


 玲奈は車を降りて少女を降ろし、ビルの裏に回る。

 何をしに行くのかは知らないが、これも彼女の仕事なのだろう。


 夜須波留が話し掛けてくる。

「詮索はするなよ?」

 頷きで返す。

「寡黙だねぇお前、俺達もションベン行こうぜ」

 近くのコンビニを指さして、夜須波留がジンを"連れション"に誘うが、ジンは断った。

「仕事中は行かない。そう教えられている」

「そうか。じゃ、留守番は頼んだぜ」

 夜須波留は車を降りて、1人でトイレに向かった。


 夜須波留の乗っていた助手席の窓が開いている。

 平日の昼間だ。スーツを来た人が歩いている。

 街中に来たのは初めてだ。

 ジンはスナックのボーイのバイトと、家の往復しかしていない。

 深夜に運転の練習はしていたが、日中に街中を走ったのは今日が初めてだった。


 ジンが歩行者を眺めていると、微かに玲奈の声が聴こえてきた。

「──なに⋯⋯達!? 夜須波留! ジン君!」

 車から降りて、歩行者を避けながらビルの裏手に走る。


 ジンが顔を出すと、玲奈と少女がの前に5人の若い男が道を塞いでいた。こちらに背を向けている。


「ジン君! この人達、退いてくれないのよ!」


 男達が振り返る。自分と少し似ている者もいる。

 全員が日本人ではないようだ。

 歩いて近付くと、1人が早足にジンに向かって来た。

 ジンの胸の辺りを左手で押してきたので、右手で小指を掴んで、内側に捻り上げる。

 前のめりにつんのめった相手の顎に膝を入れて転がす。


 まさに一瞬の出来事。

 相手の男は白目を剥いて床に転がっている。

 少女を見れば、驚いた顔をしていた。

 初めて感情らしいものを見た気がする。


 ジンは残りの4人を見る。

 少女に手を出す素振りは無い。

 何がしたいのだろうか。


「そこをどいて欲しい」

 ジンは左肩を壁に当てて、丁寧な口調で接する。


 2人が殴り掛かってきた。ジンは壁から離れないように、右手で相手の拳の軌道を変えて、壁を殴らせた。骨折ぐらいはしていそうだ。


 もう1人の男が右斜め前から、前蹴りを出してきたので、バックステップで躱し、左腕で壁を押して加速──右の横蹴りを相手の内腿に抉り込む。


 男は耐え難い痛みに崩れ落ちる。


 そこで他の男が話し出す。

「充分だ。行くぞ」


 ジンは彼らを冷静に見つめる。


「さっさと行くぞ」

 恐らくリーダー格なのだろう。赤い派手なシャツを着ている。このビル街では浮いているが、社会に出たことの無いジンには分からない。


 ジンに伸された仲間に肩を貸して歩き出す。

 そのまま裏口から出て行った。


「⋯⋯なんなのよ。あいつら」 

「知り合いじゃないんですか?」

 ジンの言葉にムッとする玲奈。

「知らないわよ!」


「そうですか。そろそろ出発しましょう」

 少女を見ると、固く口を結んで頷いた。

 ジンの傍が安全だと思ったのか、袖に触れる。


「それよりジン君、やっぱり倉治さんのお弟子さんなのねぇ! すっごく強いじゃない!」


「どうも。行きましょう」

 ジンは少女を伴って歩き出す。

「⋯⋯ドライなとこもそっくりよ」

 呆れたような顔をして、玲奈も歩き出した。


 車に戻ると夜須波留が助手席に座ってスマホを弄っていた。

「ジンも便所か? 車置いてってのは感心しねぇな」

「すみません。気を付けます」

 ジンは言い訳することもなく頭を下げる。

 玲奈は、何か言おうとしたが、口を閉じた。


 ◇


 その後も4つのビルを中継し、最後の地点に到着。


 指定された場所は、出発した港とは違う都市の埠頭の端、人気のない貨物エリアだった。

 立っていたスーツ姿の男に止めろと指示され、車を降りる。


 スーツ姿の男が後部座席のドアを開けて、無言で少女の腕を取り、連れていった。

 彼女は一度だけ振り返り、ジンを見た。


 だが、ジンにはその視線の意味は分からなかった。


 ◇


 工場に戻ると、事務所は慌ただしかった。

 何かの"片付け"をしているようで、誰もが落ち着かない。

 机の上には開けかけの段ボール。書類をまとめる音が響く。


「ねえ、なんなの? 社長は?」

 玲奈がツナギの従業員に声を掛ける。

「ガサ入れのタレコミだ、片付けてんだよ」

「お疲れさま。ジン君、とりあえず事務所行こっか」

 玲奈がジンの手を引いて事務所へ向かう。


「社長、戻りました」

「ああ⋯おい通路に立つな。そこで待っていろ」


 事務所に入って直ぐの所にある窪みに入る。

 人が5人くらい入れそうなスペースだ。

 壁を見ると新しくペンキが塗られた跡が見える。


 社長と呼ばれた依頼人の男が、何処かへ電話を掛ける。

 歩いてジンに近付き、スマホを差し出してきた。

 男が差し出したスマホを取る。

 回線の向こうで、聞き慣れた声がした。


「ジンか」──倉治だ。


 部屋の空気が一瞬、変わった気がした。


「初仕事、ご苦労だったな」

「終わりました。問題はありません」

「そうか。……ひとつだけ、確認しとこう」

 倉治の声が低くなる。


「運んだ物が女だからといって、危険が増えるってことがあったか?」


 質問の意図が分からず、ジンは答えを躊躇う。


「──それは、確かに…女の子だと危険は――」

「荷は荷だ。性別も国籍も関係ねぇ。ジン――」


 言葉の途中で、通話が途切れ、無音になる。


 視界の端に鋭い目つきの男が凝視している。


 ジンは何かの危機を感じ、通話が続いている振りをする事にした。


「⋯⋯はい、はい。じゃあ後で──」


 その瞬間、背後で弾けるような金属音がした。

 振り向くと、玲奈が銃を構えていた。

 真っ直ぐに見つめ返す玲奈の目は、笑っていなかった。


「残念だよ」依頼人の男が低く呟く。

 前を見れば男も銃を構えていた。


「残念──」誰かの声が聴こえた気がした。


 銃口が火を噴く。

 閃光──殴られたような衝撃。

 熱──耳鳴り──火薬の臭い。

 宙に浮いたヘッドセットが視界に映る。


 ――視界が、闇に飲まれる。


 ◇


 大型トラックが低い唸りを上げながら通り過ぎる。


 ジンは──呆然とそれを見ている。


 手の平に感じるハンドルの冷たい感触。

 エンジンを切ったままの車。

 濁った海風が車内を抜け、ジンの頬を撫でる。


 目の前の風景は、数秒前のものでは無い。


 見覚えのある景色──。

 しかし違和感がある。


 否──違和感しかない。


 心臓が早鐘を打っている。

 空気の味、匂い、恐らくは湿度も、同じだった。


 そう、火薬の臭いなんてしない。


 ジンは右手を見下ろす。ハンドルを握っている。

 今しがた依頼人に手渡されたスマホは持っていない。


 だが額には、確かに"熱"が残っている気がする。


 ジンの思考が、静かに回転し始めた。


 ──夢じゃない。


 港に響き渡る金属音。荷降ろしの重機だろう。

 遠くの船の汽笛までもが、恐らくは同じ精度で再現されている。


 ジンは短く呟いた。


「……同じだ」


 もしこれが夢なら、花生からの電話が鳴るタイミングまで正確に再現されるのだろうか──。



 助手席のスマホが震えた。

オモシロソヤナとオモッタカタハ評価イタダケマストウレシーデス

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