第07話:初めて自分で決めた事。
――思い返せば、流されるままに生きてきた。
アルデヴァーン王国王都ではオットー殿下の戴冠式の準備を終えている頃だろうか。婚約破棄がなければ愛のない婚姻を果たした私が、オットー殿下の隣に立っていただろう。
こうしてエーデンブルート侯爵邸の庭にあるベンチに腰掛けてぼーっと考え事をしているなんて、一ケ月前の私であれば信じてくれなかったかもしれない。侯爵邸の庭では使用人の子供たちが遊んでいて、元気な声を上げながら走り回っていた。私は彼らの声を音楽代わりに聞きながら、ただ時間を無為に過ごすことに意味はあるのだろうかと晴れた空を見上げる。
数日前に近衛騎士の人たちが私を捕えにきた。侯爵閣下がしらを切ってくれて彼らは王都へと戻って行ったけれど、まだ私を捕えることを諦めていない可能性がある。
今度は十名規模の編成ではなく、侯爵領を落とせる規模でくるかもしれない。二年前に戦争が終わったばかりだというのに、オットー殿下は無駄に税を使ってなにをしたいのだろう。私のことなんて放っておいてくれれば良いのにと考えてしまうが、私が彼を殴ってしまったことで尾を引いている。
やはり侯爵邸に留まるのは迷惑が掛かってしまうし、なにも進むべき道が見えない私の将来を考えると、今いる場所は不適切かもしれない。
もちろん、侯爵邸の皆さまは私を丁重に扱ってくれている。以前にヒルデが私は客人だから贅沢をしても問題ないと言っていたが、いつまでもお客さんでいるわけにはいかないのだ。
そう考えて、侯爵閣下に邸で下働きをさせて欲しいと願い出たのだけれど、聖女にそんなことはさせられないと閣下だけではなく、フリードもアイロス殿下からも却下されている。
だからどこかアルデヴァーン王国と繋がりの薄い国へ向かおうと考えて、私は侯爵邸の図書室でいろいろと本を読み込んでいた。アルデヴァーン王国の北に位置する『ノクシア帝国』を見つけた。
元は小国の集合体であったが、ある時、一人の将軍が現れ周辺諸国を統一した。それからさらに勢力を広げて今に至る。八百年という長い歴史を持つ国であり、現在では基本的に平和を望んでいるが、侵略者には容赦しないと公表している。
軍事面もさることながら、農業、生活産業、工芸に交易と大国らしい繁栄をしているそうだ。魔法にも精通しており、他国とは一線を画しているそうだ。魔法に精通しているというのなら、私の治療術の向上が見込めそうだった。また大きな戦が起こって戦場に駆り出されるかもしれない。新たな術を学べば、以前救えなかった命が助かるかもしれない。
だから私のいるべき場所は侯爵邸ではなく、ノクシア帝国を目指してどうにか勉強できる環境を得ることが一番ではないだろうかと……少し前から考え始めている。
私が本当にやるべきことを見つけるためにも。
優しい侯爵邸の人たちに迷惑を掛けないためにも。
なんだか少し光明が差した気がすると空を見上げていた視線を庭へと戻した。すると私の目の前にはフリードがいつの間にか立っていて、苦笑いを浮かべている。
少し長い彼の黒髪が風に揺れれば目を細めていた。彼の紅い目が私を見つめ、なんとなく熱を帯びているような気がする。私がフリードと視線を合わせると、彼は小さく微笑んでゆっくりと歩を進め隣に腰を下ろした。
「サラ。なにを悩んでいるの?」
深くベンチに腰掛けたフリードは膝の上で両手を組み、身体を曲げて私の顔を覗き込む。彼は心配そうな表情を浮かべながら、伺うように問うてきた。そんなフリードに嘘を吐くわけにはいかないと、私は考えていたことを伝えようと決めた。
「あのね、フリード」
「うん?」
「ノクシア帝国に行ってみたいなって考えていたの」
「どうして? このままここに留まっていても問題ないのに」
私の言葉にフリードが丸く目を見開いた。どこかの国に逃げることも候補に入っていたから、フリードが驚くなんて思っていなかった。彼はもしかすると私が侯爵邸にずっと留まっていると考えていたのだろうか。
「今のままだと、また侯爵閣下にご迷惑を掛けてしまうから。それにね、やりたいことを見つけたから」
初めて自分の意思でやりたいことを見つけ、そして考えて決めたことだとフリードに伝える。
「サラは真面目だね。王宮での二年間が君を確りさせたみだいだ」
フリードが曲げていた身体を正して青い空を見上げる。そうして彼は私の方へと顔を向けた。凄く真面目な表情で。
「俺はサラのことが好き。戦場で治癒を施してくれてから、君のことが気になってしかたなかった。終戦でサラと離れることになって自分の気持ちに気付いたんだ。もっと早く気付けば良かったのにね」
フリードが陣地で私の下を頻繁に訪ねていたのは無意識の行動だったようだ。彼から花を貰ったり、他愛のない話をしていた時間は任務を忘れて楽しい一時を過ごしていた。
まさかフリードが私を好いてくれたなんて思いもよらなかった。私も正直な気持ちを打ち明けるべきかと迷って……他国へ渡ると決意した私が彼に気持ちを伝えるわけにはいかないと押し黙る。
私が黙っていると、フリードが目を細めながら右手の人差し指を私の口元へと添え、身体をぐっと近づけてくる。フリードの顔が私の目と鼻の先にあった。
「――状況が状況だから、今はサラの返事を聞くつもりはないんだ。ただ俺の気持ちを知って欲しくて。それと」
フリードの吐息が顔に掛かってくすぐったいというのに、彼が私の旅に一緒にくると耳元で囁いた。
「え?」
私が何故と驚けばフリードが笑みを深めて、こつんと額と額をくっつけた。
「女の子の一人旅は危ないから護衛は必要だ。野盗や暴漢に負けるつもりなんてないし、サラの援護があれば百人斬りでも千人斬りでも果たしてみせるよ。どうかな?」
フリードが凄く簡単に言ってのけているけれど、本当に大丈夫なのだろうか。
「でもフリードの仕事はどうするつもりなの?」
侯爵という高貴な家に生まれたなら、いろいろと役目があるはず。
「仕事といっても侯爵家の三男坊だし気楽なものだよ。領地運営に関しては兄上たちがいる。それに親父殿も現役だ。だからサラと一緒に旅に出るのも良いかなって」
フリードが顔を離して肩を竦める。一緒にきてくれるのは嬉しい。戦場と王宮と侯爵領しか知らない私が一人旅に出れば迷子になりそうだし、宿の手配や野宿の仕方も分からない。そりゃ、貧民街で暮らしていた時期があるから雨露に濡れることは厭わないけれど、屋根があった方がありがたい。
「本当に良いの? フリードに迷惑が掛かっていない?」
「大丈夫だよ。心配はいらない。それより、サラがノクシアの帝都に辿り着けるのか気が気じゃないからね」
屋敷で無事を願っているより、フリードは私と一緒に動いた方が安心できるそうである。私もフリードが一緒にいてくれるなら安心だ。彼が強いことは知っているし、頼りになるのも知っている。
「じゃあ……――」
よろしくお願いしますと私が告げようとしたと同時。
「僕も参加して良い?」
ひょっこりとアイロス殿下が私たちの背後から現れた。私とフリードが振り返れば、アイロス殿下がにっこりと楽し気な笑みを浮かべていた。
「アイロス殿下!?」
「アイロス!!」
私たちが声を上げると、ずっとベンチの後ろで私の護衛を担ってくれていたヒルデは申し訳なさそうな顔になっていた。
「帝都に向かうなら、僕の第二王子という身分が役に立つと思うよ。政治的取引ができそうだから、聖女殿がやりたいことを叶えられるかもしれないねえ」
確かに第二王子の身分を持つアイロス殿下であればノクシア帝国が価値ありと判断して、アルデヴァーン王国の問題に首を突っ込んでくるかもしれない。
近日に行われるオットー殿下の戴冠式に出席するか分からないけれど、王太子就任の儀から戴冠式へと変わったことに違和感を持てばアイロス殿下の価値が上がる可能性もある。しかし人身御供のようなことをしても良いのだろうかと迷っていれば、フリードがベンチから立ち上がっていた。
「アイロス、親父殿に匿って貰うと言っていたじゃないか!?」
「気が変わったんだよ。聖女殿が帝国に渡るなら、僕も一緒に向かえば面白いことになりそうだから」
驚くフリードと凄くご機嫌なアイロス殿下が対照的だ。アイロス殿下は意見を曲げるつもりはないようで、フリードの圧に屈しない。私はどうだろう。フリードとの二人旅も楽しいのかもしれないけれど、告白されたことを考えると間に入ってくれる人がいる方が良いかもしれない。やんや、やんやと言い合うフリードとアイロス殿下を尻目にヒルデが私の側に寄る。
「サラ、私も立候補しても良いでしょうか? 旅の供が男性だけではサラの身が不安です」
小さく手を挙げたヒルデは至って真面目な顔で言ってのけた。ヒルデも侯爵家の騎士として仕事があるだろう。それを放って旅に出ても良いのだろうか。フリードとアイロス殿下がヒルデの声を聞いて、言い合いがはたと止まった。
「ブリュンヒルデ、俺が……俺たちがサラに手を出すとでも!?」
「女性に手を出したりしないよ」
フリードとアイロス殿下に対してヒルデは本当でしょうかと言いたげな表情を浮かべながら口を開く。
「先程、ヴェルフリードさまはサラを口説いておられたでしょう」
ヒルデがつんとフリードから視線を逸らし、視線を合わせてくれない彼は肩を落とす。
「……言い返せない」
「だよねえ。まあ僕はフリードみたいに誰かの前で大胆な告白なんてできないなあ」
肩を落としたままのフリードにアイロス殿下が追い打ちをかける。するとフリードが顔を上げてアイロス殿下に厳しい表情を向けた。
「アイロス、面白がって揶揄うな!」
「一先ず、侯爵殿に相談してみようか。勝手に出て行くのは駄目だしねえ」
「俺の話を聞いて!?」
二人のやり取りはなんとも言えない面白さを醸し出していた。貴族と王族という身分差があるのに、本当にフリードとアイロス殿下の仲は良い。ヒルデは二人のやり取りをなにもなかったかのように澄ました顔で立っていた。そんな彼らが面白くて。
「ぷ。ふふ! あはは!」
私の口から勝手に笑いが零れていた。以前のように豪快に笑うことはなくなったけれど、こうして笑ったのはいつ振りだろう。王宮に入ってすぐの頃、歯を見せながら笑わないとか、大股で廊下を歩かないとか厳しい指導を受けた。
聖女とはと口酸っぱく説かれたこともあり、自然と笑わないようになっていた気がする。本当に心から笑ったのは久しぶりだと、目尻に浮かんだ涙を人差し指で拭う。するとフリードとアイロス殿下とヒルデが片眉を上げながら、なんとも言えない表情で私を見ていた。
「まあ、良いか。親父殿のところへ行こう。もしかすればなにか伝手があるかもしれない」
「だね。行こうか」
フリードとアイロス殿下の声に私とヒルデは頷く。まだ侯爵閣下の返事次第だけれど、四人で旅ができたら楽しいだろう。胸に期待を抱いて歩いていれば、一陣の風が私の頬を撫でていくのだった。