第01話:婚約破棄。
――お互いに折り合いを付けていたはずなのに。
アルデヴァーン王国王都の王宮。その謁見の間で私はただ立ち尽くしていた。壇上の玉座は空で、主を欠いている光景が妙に寂しげだった。玉座の傍らに立つ第一王子、オットー殿下は不敵な笑みを浮かべて私を見下ろしている。
周囲を埋めるのは廷臣や貴族たち。誰もが殿下と私の間で視線を彷徨わせ、これからなにが起こるのかと不安と好奇に揺れている。オットー殿下は背に触れていた玉座から手を放し、一歩、二歩と前に出た。いつも厳しい表情をしているはずなのに、今日は妙に上機嫌な様子である。
「聖女サラフィナ!」
オットー殿下が高らかに私の名を呼び、右腕を前へと突き出す。
「本日、私は貴様との婚約破棄を宣言する!」
にやりと殿下は笑みを深めた。彼の言葉に呼応するように、場内から拍手が沸き起こる。めでたい、当然だと祝福する声すら混じっていた。
オットー殿下はなにを言っているのだろう。婚約破棄となれば一方的に契約を破った彼の方が有責になる。違約金を支払うのは殿下のはずだ。それに潔く分かれるならまだしも、わざわざ人前で宣言するなんて。護衛を遠ざけられたうえ、衆人環視の場に呼び出されてこれでは抗弁すら難しい。オットー殿下は賛同する拍手と、困惑している私を見比べてますます愉快そうに口角を上げた。
玉座が空でなければ。
いや。陛下の不在を嘆いても……場にいない方のことを思っても前には進まないだろう。私は唇を結んで、一歩前へと踏み出した。
「オットー殿下。婚約破棄の理由を詳しくお聞かせいただけますか」
私の問いに、オットー殿下が右腕を振り払うような仕草をして鼻を鳴らす。
「理由など分かり切っている! 俺は貴様のことが気に食わぬのだ。平民のくせに王宮を闊歩していること! 聖女などという胡散臭い存在がいること! 知恵を付け、良き衣を纏っていること! そしてなにより――平民風情が俺の婚約者であることが癪に障る!」
最後には『貴様の全てが気に入らない!』と忌々しい顔で吐き捨てた。
「殿下が私に好意を向けておられないのは理解しておりましたが……そこまでとは」
私がオットー殿下に好かれていないことは承知していた。けれど、オットー殿下との婚約は国王陛下の命により下されたものである。私は陛下のためであればとオットー殿下との婚約を結び、彼もまた私と肉体関係を持たないこと、愛人を作ること、側室を持つことを条件に婚約を飲んだはずなのに。
お互いに落としどころを見出していた――そう思っていたのに。婚約を結んだのは約二年前。私が十六歳、彼が十八歳。もう子供ではなかったはずだ。
「白々しい。父上の命だから従っただけだ。だが、父上亡き今、必要はない。どうせ貴様も私を愛しておらぬのだろう。互いに好都合ではないか?」
「……ですが陛下は先の戦により失われた命を繋ぎ直すためと、殿下と私の婚姻を望まれました。殿下は陛下のお心を踏みにじられるのですか!」
私がオットー殿下に強い視線を送れば、彼は肩を竦めてみせる。
「なにが貴族と平民の融和だ! 平民は勝手に子を成して増える! 戦は二年前に終わり、税収も増えていると各領から報告がある。融和など不要!」
隣国との戦争で男性の数を減らしていたアルデヴァーン王国であったが、税収は二年前の終戦から転じて増加していると聞いていた。オットー殿下の言に嘘はないけれど……開戦前と比較すれば税収入は増えていないらしい。
喜べない状況だと分かっているはずなのに、オットー殿下は私との婚約を破棄したいばかりに話を持ち出したようである。
「命に価値があるのは連綿と高貴な血を紡いできた歴史ある王族と貴族だ!」
オットー殿下は生粋の貴族主義者だ。貴族が国や領地を治め民を従えるという考えを持ち、貴族と平民では住む世界が違うと豪語している。オットー殿下が掲げる思想を血統派と呼び、多くのアルデヴァーン王国の貴族がその考えを持つ。
それ故に近親で婚姻を結んでいる血統派貴族の幼子たちの生存率が平民に比べて低いと調査結果が出ているそうだ。
そんなことから血統派の思想は危ういと、平民も優秀であれば国政に参加すべきという考えや、貴族同士の血の重なりを危惧している革新派が存在していた。革新派の筆頭が陛下であったのだが半年前に御隠れになっている。
陛下を失った影響なのだろう。数を増やしていた革新派の人たちは息を潜めていた。その証拠に謁見場に集まった人たちは殿下と私の婚約破棄に沸き立っているのだから。
今この場で私がどんなに咆えようとも状況は変わらないと、謁見場の床を見てぎゅっと拳を握り込んだ。
十年前、王都の貧民街で暮らしていた幼い私を偶然に国王陛下が見つけてくれた。保護された私は教会の孤児院で魔法の才がある――特に治療術――と神父さまとシスターと王宮の魔術師たちから教えを受けた。読み書きもできるようにと仕込んでくれた。
その二年後、十歳の頃に治療士として軍に所属し後方戦域で終戦までの六年間を過ごした。六年の間には目を塞ぎたくなるような光景を見たり、酷い罵声を浴びたこともあったけれど、陛下が慰問にきた際に声掛けをして頂き『すまない』と誰にも気づかれないように謝ってくれた。
何故、陛下が私に謝るのかその時は理解できなかったけれど……終戦から二年という時間を過ごしてきた王宮で理解した。陛下は血統派と革新派の諍いに頭を悩ませていたのだと。私が謝罪を受けた時には既に、陛下は殿下と私の婚約を決めていたのかもしれないと。
隣国との情勢悪化と国内の状況を見据えての陛下の行動だったと今では考えることができるけれど、私を貧民街から救い上げて貰ったことに感謝しているのだ。
考え込んでいた私を見たオットー殿下は諦めたと勘違いしたようで更に口角を上げていた。
「一ケ月後に予定していた王太子就任の儀を取り止め、私は教皇猊下から王冠と王錫を賜ることになった! そして皆、喜んでくれ! この度、私の新たな妃としてシュヴァインフルフ公爵家のマルレーネ嬢との婚約を結ぶ!」
オットー殿下が嬉しそうな笑みを携えると、また謁見場は割れんばかりの拍手に満ちる。確かシュヴァインフルフ公爵家は陛下の弟君が王族籍を離脱した際に賜ったもの。シュヴァインフルフ家の一人娘であるマルレーネさまは私と同じ十八歳であり、社交界では美人で名を馳せている。そして平民嫌いで有名な人でもあった。
人だかりの中からオットー殿下の下にドレスの裾を両手で摘まみながら走りだし駆け寄って行く人がいる。凄く手入れされている金糸の長い髪を靡かせながらオットー殿下に飛びつけば、勢いでオットー殿下が一歩、二歩と後ろにたたらを踏んだ。殿下はシュヴァインフルフ家のご令嬢の額に口づけを落とし、良い顔で周りの人たちに関係の良さをアピールした。
しかし……十八歳という年齢の公爵家のお姫さまに婚約者がいないのは不思議だ。でも、お二人は幼い頃から心を通じ合っていたから、婚約を果たしていなかったとも受け取ることができる。それなら殿下が嬉しそうに婚約破棄を告げる理由になり得ると私はふうと息を吐いた。
今の私にできることはなにもない。平民出身で治療術の才があり、戦でその力を認められ陛下に『聖女』の称号を賜ったけれど、陛下がお隠れになってから私に対する王宮内の風当たりは強かった。苦労を掛けてしまうが期待していると私の肩に置かれた陛下の大きな手の温もりを今でも覚えている。
貧民街から救い上げてもらったこと以外にも、戦場における治療士の環境改善や負傷兵の扱いを改めて欲しいと、慰問に訪れていた陛下に恐れ多くも進言して聞き入れて貰ったことがある。
平民だからと蔑む貴族に苦言を呈して貰ったこともあったし、私が読んでみたいと願った本を購入してくれたこともあった。陛下から受けた恩を返すことができないことを後悔しながら、私が謁見場から退室しようとした時だった。
「平民の命など軽いものだ。それを貴様は安易に助けろと言う。放っておけば勝手に増える平民に何故、税を投入せねばならんのだ!」
オットー殿下は床に視線を向けたままの私に気を良くしたのか、追い打ちをかけるように言葉を放った。耳に届いた彼の声に私は目を細めながら歯噛みする。
ご飯に有りつけるからと軍に志願した人がいた。
戦場へと無理矢理駆り出された人がいた。
戦いたくないと叫びながら前線に放り込まれた人がいた。
助けて欲しいと願いながら。
また子に会いたいと願いながら。
家族に会いたいと願いながら……命を失った人がいる。
失われた命が軽いだなんて!
なにかがプチンと切れて陛下の眉尻を下げた顔が思い浮かぶものの、誰かの命を粗末にする殿下の言動に沸き立つ怒りを止められない。目を見開いた私は床に向けていた視線を壇上のオットー殿下とシュヴァインフルフ公爵家のご令嬢へと移して、彼らの姿をしっかりと捉える。
「――Korperstarkung・Beshchleunigung」
私は戦場で教えて貰った魔法を静かに発動させ大理石の床を踏み込んだ。パシッと床が割れる音が聞こえて、高価な物を壊してしまったと一瞬気が取られたが今はそれどころではない。些末なことなど一切無視だ。
踏み込んだ床から跳ねた私は一気にオットー殿下へと距離を詰め、右拳を握り込み後ろに引いてもう一度身体強化の魔法を発動させた。
「――誰かの命を蔑む糞野郎がっ!!」
同時に、後ろに引いていた右拳をオットー殿下の顔面めがけて放った。
「ごぁっ!」
暴言が私の口から勝手に漏れると同時に右拳に堅い感触が走る。私の右拳はオットー殿下の左顎に綺麗に入って、彼は玉座より更に後ろへと空を描いた。床に落ちたオットー殿下は何度か跳ねて動かない。
シュヴァインフルフ公爵家のご令嬢も殴られた勢いで、オットー殿下の腕の中から放り出される形となっていた。私が聖女と呼ばれるようになって二年が経つが、幼い頃の言葉使いはまだ直っていなかったようである。玉座の横に着地した私はふうと長い息を吐いた。すると集まっていた人たちから、驚きの声が漏れ始める。
「で、殿下!?」
「オットー殿下が吹っ飛んだぞ!」
「こ、拳が顔にめり込んで……!?」
「人を殴る聖女がいるなんて!!」
彼らの声に気付いた私は壇上の下を見渡す。顔を青くした人たちと近衛騎士たちが呆然としている。
――あ。
やってしまった。怒りに任せた行動はよくないと陛下や教師陣に苦言を呈されていし、戦場の仲間たちにも怒るのは構わないが後先を考えないのは止めろと忠告を受けていた。王宮入りして二年の間に感情の制御を学んだけれど、長年染みついたものは簡単に抜けないようだ。不味いことをしてしまったと私の背に一筋の汗が流れ落ちる。
「オットー殿下になにをする、無礼者! 近衛騎士、聖女サラフィナを、いや! 国家反逆者のサラフィナを捕えよ!!」
どこからともなく野太い声が聞こえた。誰が叫んだのか分からない。その声にはっとした人たちが私を捕えようとしている。近衛騎士は剣を抜いて私を囲み、廷臣や貴族もじりじりと距離を詰めている。
本当に後先考えずに怒るのは良くないと私が反省していれば、人混みを掻き分けて出てくる方がいる。
軍靴の音を鳴らしながら儀礼用の騎士衣装を纏うその人の、燃えるように紅い瞳がこちらを見ていた。そして目が合った瞬間、私の心の臓がドキリと跳ねた。
だって、そうでしょう。
謁見場にいないはずの人がいるのだから。二年振りの再会に驚いていると、軍靴を床にぶつけてカツンと音を鳴らしたその人は私の隣に立つ。そうして彼は殴られて床に尻餅をついたままのオットー殿下とシュヴァインフルフ家のご令嬢を見据えるのだった。
一日5話投稿。2025.10.20に最終話を予約投稿しています!






