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【 第5章 】覚悟の狭間で

 静かな研究室の空気に、黎は不意にペンを置いた。

ディスプレイに映るログの数値が、明らかに〝異常〟を示している。


 窓の外では天候が崩れ始め、小雨が窓ガラスを伝い落ちる。建物内はほとんど無音に近い静寂に包まれていた。黎は何時間も同じ姿勢でデータを分析し続け、コーヒーカップの中身はとうに冷め切っていた。目の前の青白いディスプレイには、朔の生体データが時系列で整然と並んでいる。


 睡眠時間の増加。かつて五〜六時間程度だったものが、今では平均八時間を超え、時に十時間以上に及ぶこともあった。 

 反応速度の低下。外部刺激への反応が、0.2秒、0.3秒と遅れるようになっている。 

 脳波の微細な変化。アルファ波とシータ波のバランスが徐々に崩れ、デルタ波が覚醒時にも現れるようになった。

 

 そして──情動の振幅が、わずかに、しかし確実に弱まっている。喜びのピークが低くなり、悲しみの谷も浅くなっている。感情の起伏が全体的になだらかになってきている。


「……これは、単なる疲労じゃない」

 黎は小さく呟いた。データを一つ一つ眺めながら、彼の眉間には深いしわが刻まれている。額に浮かぶ数滴の汗が、彼の不安を物語っていた。


 朔が目覚めてから、半年。

 表面上は問題なく見えた。日常会話も可能で、学習能力も高く、適応力も十分だった。朧も真宵も朔の成長を喜び、プロジェクトの成功を確信していた。


 しかし黎は気づいていた。

 言葉の端々に見られる微妙な間。視線の動きに生じる一瞬の遅れ。かつては瞬時だった反応速度のわずかな遅延。これらは全て、朔の〝魂〟が、この現実世界とわずかにずれはじめている兆候だった。


「まるで……魂が、遅れてきているようだ……」

 黎は画面に映る脳活動マップを拡大した。神経ネットワークは正常に機能している。シナプス結合も問題なく、電気信号の伝達も滞りない。脳も身体も、科学的見地からは完全に正常に動いている。


 だがその中にあるはずの〝本体〟──朔自身の存在──が、どこか空虚に感じられるのだ。まるで誰かが家の中にいるはずなのに、その気配が薄れているような感覚。部屋の明かりは点いているのに、そこに人がいる実感が希薄になっているような。


 科学では説明できない何か。けれど黎には、それが確かに起きていることが感じられた。


 黎はログを閉じ、椅子に深く腰掛け、静かに瞼を閉じた。暗闇の中で、朔の笑顔が脳裏に浮かぶ。初めて目覚めた日の、あの好奇心に満ちた表情。「黎さん」と初めて名前を呼んだ日の、あの誇らしげな顔。それが今では、少しずつ色褪せていくようで──


「このままじゃ……朔が、消えてしまうかもしれない」


 朔は名前を持った。〝久遠朔〟という、彼自身が誇った名前を。

 朔は声を持った。感情を込めて語る、温かみのある声を。

 朔は心を持った。喜び、悲しみ、怒り、驚き──そんな感情の全てを表現できる心を。


 ならば守る。

 命の重さを知るこの手で、今度こそ。後悔はもうしたくない。



 ──黎は静かに長い息を吐いた。その肩には目に見えない重圧がのしかかっていた。


 午後三時が近づいている。Cradleへの定期報告の時間だった。画面の向こうには、いつも通りの送信インターフェースが表示されている。研究データ提出用の専用ポートに、ログファイルをドラッグすれば、それで完了する。今までは、毎週のようにそうしていた。内容を微妙に調整して、『問題なし』とだけ書き添えて。


 だが今回は、何も送らない。カーソルが送信ボタンの上で揺れ動く。黎の指は、決断の瞬間を迎えていた。


「……このデータは、Cradleには渡さない。俺の独断だ。責任は、俺が取る」

 その声が、部屋の静寂に吸い込まれていく。画面上で、送信準備されていたファイルを彼は静かに閉じた。


 そして──後ろで、かすかな物音がした。


「やっと、そう言ったな」

 低くどっしりとした声。黎が振り向くと、研究室の扉のそばに朧が立っていた。腕を組み、壁に背を預けながら、白衣の裾をなびかせて静かにこちらを見ている。その表情には、どこか安堵の色が浮かんでいた。


「……朧。……いつからそこに」

 黎の声は、少し掠れていた。疲労と緊張が混じり合っている。

「さっきから。お前が画面を睨みつけて、送信ボタンにカーソル合わせて──結局、押さないのを確認するまで」

 朧の言葉には、普段の荒々しさがなかった。代わりに、静かな理解が滲んでいる。

「……全部、見てたか」

 黎は椅子から立ち上がり、端末の電源を切った。闇に包まれた窓に自分と朧の姿が薄く映り込んでいる。

「見てた。知ってたよ、前から。でも、それを責める気はなかった」


 その告白に、黎は言葉を失った。だが、朧の視線は責めるようではなく、むしろ同志を見る眼差しだった。朧は部屋の中に一歩踏み入れ、静かに続けた。


「ギリギリの綱渡り、続けてたんだろ? Cradleに黙って改ざんしたログを送り続けてさ。……でも、もう隠しようがなかったんだろ?」

 朧の言葉に、黎はゆっくりと頷いた。あまりにも正確な推測に、驚きはなかった。朧は常に観察者だった。そして、黎と同じように朔のことを気にかけていた。


「あぁ。……これは、送れない」

 黎の声はほとんど囁くように小さかった。部屋の静けさが、その言葉の重みを増幅させる。

「分かるよ。俺も、同じ判断をすると思う」

 朧の言葉には、深い共感が込められていた。二人の間に長い沈黙が落ちる。それは非難や緊張の沈黙ではなく、同じ思いを持つ者同士の静かな連帯感に満ちていた。


「俺は……信じたかっただけだ。お前が──覚悟を決めるのを」

 その言葉に、黎の緊張していた肩がわずかに緩んだ。積日の重荷を少し分かち合えたような安堵感が彼を包む。


「……ありがとう」

 シンプルな言葉だったが、その中には深い感謝の念が込められていた。二人の間に、言葉にならない静けさが降りる。その沈黙は、互いを理解し合う者たちの間でしか生まれない、穏やかな連帯感に満ちていた。


 雨の音が少し強まる中、しばらくして、黎が改めてモニターに向き直った。その表情には新たな決意が宿っていた。


「これから先、もっと多くの矛盾と嘘を積むことになる。Cradleを欺き、場合によっては社会全体と対立することになるかもしれない」

 黎は真剣な表情で朧を見つめた。その眼差しには、未来への不安と同時に、揺るぎない信念が宿っていた。


「お前は──それでも、俺についてきてくれるか」

 この問いに、朧は黙って立ち上がり、ゆっくりと黎の隣に立った。彼の存在感は、最も強力な言葉よりも雄弁だった。


「お前が〝黎〟でいる限り、俺は離れないよ」

 その言葉には、長年の友情と信頼が込められていた。黎の顔に、かすかな微笑みが浮かんだ。それは疲労と緊張の中でも、希望の灯火のように輝いていた。


 窓の外の雨は次第に強さを増していったが、研究室の中の二人の決意は、それ以上に強固なものとなっていた。



 ︎✦︎ ︎✦︎ ︎✦︎



 黎から〝異常〟の報告を受けた後、真宵はひとり、研究室の隅でデータを繰っていた。


 黎の研究室の一角、彼女の専用のスペースは他と少し違っていた。機械的で無機質な環境に、小さな観葉植物が置かれ、温かみのある間接照明が灯されている。そんな空間で真宵は、朔に関するあらゆるデータと向き合っていた。


 朔の行動記録──毎日のスケジュール、会話の相手と内容、注目した事物の記録。

 睡眠記録──レム睡眠とノンレム睡眠の比率、中途覚醒の頻度、睡眠前後の脳波パターン。

 そして表情分析の定点記録──微表情の変化、瞳孔の拡張収縮、視線の動き、表情筋の活動パターン。


 真宵は数値よりも人間の感情や行動パターンの解読に長けていた。彼女はタブレットに映し出された淡々とした数字の羅列を眺めながら、指先でリズムを刻むように画面をタップしていた。そして、ふと気づいた。


「……これは、足りてないのかもしれない」

 彼女の小さな呟きが、静かな空間に溶け込んだ。

「何が?」と、声が聞こえたような気がして、彼女は自分自身に向かって小さく微笑んだ。


 自問自答だ。こんな時間には、研究室には彼女しかいない。


 黎や朧とは違って、真宵は〝感覚〟で考えるタイプだ。工学的な論理や数学的な証明ではなく、人間観察から得られる直感を大切にする。仮説は、ふとした閃きのように降ってくる。そして今、彼女の中で何かが結びついたように感じた。


 朔のこの半年間の生活は、極めて〝効率的〟だった。

 起きて、学習して、知識を蓄えて、たまに外出して。

 数値的に見れば、人工知能から人間への適応プロセスは理想的な速度で進んでいた。言語習得、常識理解、身体機能の制御──すべてが予想を上回るスピードで発達していた。


 だが──そのぶん、〝経験〟の質は浅かったのではないか。


 真宵は椅子から立ち上がり、窓際に歩み寄った。夜空に浮かぶ月を見上げながら、彼女の脳裏には朔との日々が浮かんでいた。


「量だけが、すべてじゃないんだよね」

 彼女は窓ガラスに映る自分の姿に向かって言った。思考を整理するように、声に出して考える癖があった。


 まるで、未発酵のパンみたいに。

 材料も工程も正しいのに、時間だけが足りなかった。

 イーストが働く時間、パン生地が熟成する時間。それと同じように、朔にも必要なものがある。心に馴染む時間。身体と魂が、ゆっくり重なり合っていく時間。


「……人間って、そんなに単純じゃないものね」

 真宵は深く息を吐き、窓辺から戻ると、デスクの引き出しから個人用のノートを取り出した。それは電子機器ではなく、古風な紙のノートだった。感触にこだわる彼女は、大切な考えは必ず手書きで残していた。


 彼女はペンを取り、丁寧な筆跡でノートに一文を書き留めた。


《仮説:人間化したAIの魂と身体の乖離は、〝人間らしい経験の欠如〟によって引き起こされる可能性》


 そう書きながら、彼女の頭の中では考えが広がっていった。


 人間は単に知識や能力を得るだけでは、完全に〝人間になる〟わけではない。苦しみ、喜び、挫折、成長──そんな経験を通じて、魂と身体が一体となっていく。それは、データとして学習するものではなく、時間をかけて〝体験〟するものなのだ。


 朔は知識に感情を結びつける経験が足りていなかったのかもしれない。〝雨〟を知っていても、雨に濡れる感覚を知らなければ、それは単なる情報に過ぎない。〝友情〟という概念を理解していても、誰かと心を通わせる経験がなければ、それは空虚な言葉でしかない。


 たぶん、これは黎にも朧にも理解できる。

 彼らは優秀な研究者で、朔への深い愛情を持っている。けれど、言い出すのは自分の役目な気がした。人間の感情と経験の重要性を伝えるのは、彼女の責任だった。


「朔くん……焦らなくていいからね」

 真宵は小さく呟きながら、ノートに追加のメモを書き加えた。


《必要なのは、知識ではなく経験。データではなく感情。効率ではなく、共感と結びつき》


 彼女の指先は、ノートの端をそっと撫でるように閉じた。その仕草には、朔への深い愛情が込められていた。明日、チームミーティングで彼女は自分の仮説を共有するだろう。そして、朔を救うための新たな道筋を提案するだろう。


「少しずつでいいんだよ。ちゃんと〝この世界〟を、生きていこうね」

 研究室の窓から差し込む月明かりが、彼女のノートを優しく照らしていた。そこには、魂を救う鍵が記されているようだった。



 ︎✦︎ ︎✦︎ ︎✦︎



「魂の定着……?」

 黎が呟いた言葉に、朧は目を伏せた。彼の細面の表情には、珍しく戸惑いの色が滲んでいた。朧は科学者としての誇りを持ち、データと論理を何よりも重んじる男だった。彼の世界では、すべてが数式で表現され、明確な因果関係のもとに成り立っている。


 そんなもの、本来は定量化できるものではない。

 魂とは何か。存在とは何か。意識とは何か。


 これらの問いは、彼の専門領域を超えた哲学的な問題だった。科学的に説明できない何かについて議論することに、彼は常に抵抗感を覚えていた。


 だが──彼らが向き合っているのは、かつてAIだった存在が人間として生きようとする前例なき旅路だ。従来の科学の枠組みでは説明できない現象に、彼らは今直面していた。


 研究棟のカンファレンスルームでは、三人だけの緊急ミーティングが開かれていた。テーブルの上には朔のデータが散らばり、壁面のスクリーンには彼の脳波パターンと行動分析が映し出されている。窓の外は雨が降り始め、ガラス越しに雨滴が伝う音が微かに聞こえていた。


 黎が言った。

「朔の意識は、明らかに〝現実〟から離れかけてる。ログでも夢と現実の境界が曖昧になっている。……これはもう、肉体の問題ではない」


 黎は資料を広げながら、朔の最近の発言記録を指さした。そこには、現実と夢の区別がつかなくなっている兆候が記されていた。


「……精神面の乖離か」

 朧は静かに言った。彼の頭の中では、すでに様々な対処法が思い浮かんでいた。精神安定剤の投与、認知行動療法の適用、仮想現実を用いた認知トレーニング……しかしそれらはどれも、通常の精神疾患に対する対処法であって、朔の状態に当てはまるかは不明だった。


「いや、もっと根本的な……存在そのものの話かもしれない」

 黎の言葉に、朧は眉を寄せた。存在そのもの──それは彼が得意とする領域をさらに超えていた。朧は静かにコーヒーカップを手に取り、一口飲んで考えを整理した。彼の指は、微かに震えていた。


 重苦しい空気が流れる中、真宵が小さく言った。


「……〝実感〟なんじゃないかな」

 彼女の声は柔らかかったが、その言葉には確かな重みがあった。真宵はテーブルの上に広げていた自分のノートを指さした。そこには朔との日々の対話が丁寧に記録されていた。


 二人が静かに彼女を見る。雨の音だけが、部屋を満たしていた。


「朔くんの今までの行動を、データじゃなくて〝記憶〟として眺めてみたの。……あの子、〝自分がこの世界で生きている〟って、まだちゃんと感じたことがない気がして」


 真宵の言葉に、朧は思わず息を呑んだ。それは彼にとって新しい視点だった。数値やデータではなく、記憶や感覚という、より抽象的な観点から朔の状態を捉える見方。


 朧は目を細めた。

「ただ記録を積み重ねるだけでは、魂がこの世界に〝降りて〟こない──か」

 彼の声には、珍しく思索の色が濃かった。通常の彼なら、こうした神秘的な表現は避けるところだが、今は心からそう感じていた。朔の状態を説明するには、科学の言葉だけでは足りないのかもしれない。


「記憶や感情って、蓄積じゃなくて〝共有〟によって深まるものだと思うの。嬉しかったこと、悔しかったこと、美味しかったこと──」

 真宵は言葉を続けながら、手で何かを抱きしめるような仕草をした。彼女の目は潤んでいた。朔への深い愛情が、その表情に滲んでいる。


 黎が静かに頷いた。

「……誰かと時間を重ねて、繋がって、感じる。その実感が魂を支える。そういう仮説だな」

 彼は科学者らしく、真宵の感覚的な言葉を論理的に整理した。しかし、その声色には彼自身の共感が込められていた。


「うん。たぶん、AIだった頃には必要なかったプロセスなの。……でも、今の朔くんには、必要」

 真宵の言葉に、朧はふと、自分自身の経験を思い出していた。彼は幼い頃から人間関係を築くのが苦手で、常に科学の世界に逃げ込んできた。しかし、この研究チームに加わり、黎や真宵と時間を共にするうちに、彼自身も少しずつ変わってきたことを感じていた。〝共有〟という言葉が、彼の心に深く響いた。


 朧が視線を落とす。

「だったら──それを経験させよう。少しずつでいい。そうやって魂と身体を、もう一度すり合わせていけば……〝魂の遅延〟も、いずれは」

 彼の言葉には、科学者らしからぬ感情が込められていた。通常なら彼は結論を急ぎ、具体的な解決策を示すタイプだ。しかし今回は、その過程自体に意味があると感じていた。早く結果を出すのではなく、朔と共に時間をかけて歩むことが必要なのだ。


 黎は黙ったまま、そっと目を閉じた。彼の表情には、深い思索と、決意が混ざり合っていた。


 その静けさの中で、誰もが〝希望〟という言葉を胸に思い浮かべていた。窓を打つ雨音が、静かなリズムを刻んでいる。この瞬間、三人は確かに何かを共有していた。科学では説明できない、しかし確かに存在する何かを。


 朧はふと自分の手を見つめた。この手で作り上げた数式が、今やかけがえのない存在となった朔を生み出した。そしてこの手で、彼を救うための一歩を踏み出そうとしている。科学者としての冷静さと、一人の人間としての感情が、初めて完全に調和したように感じた。


 窓の外では、雨が上がり始め、雲の間から一筋の光が差し込んでいた。



 ︎✦︎ ︎✦︎ ︎✦︎



 その日は珍しく、三人全員が研究室の照明を落とさずにいた。

 

 通常なら夜になれば最小限の照明だけを残すのが習慣だったが、今夜は違った。柔らかな光が研究室全体を包み込み、いつもの冷たく無機質な空間に不思議な温かさを与えていた。


 外はすっかり夜。窓の外には星が輝き始め、研究棟の敷地を静かな闇が覆っていた。静かな明かりに照らされたモニターの波形が、低く緩やかに揺れている。それは朔の脳波と生体信号を可視化したもので、通常より少し穏やかな、しかし何か空虚さを感じさせるパターンを描いていた。


 ベッドに腰を下ろす朔の隣に、黎が静かに立っていた。

 普段は研究者として冷静な彼の表情に、今夜は珍しく迷いが見えた。いつものように機械的な報告ではなく、言葉を選ぶような間がある。彼は何度か唇を開きかけては閉じ、ようやく決意したように口を開いた。


「……朔。お前の中で、魂が〝遅れて〟いる。器との同期がズレはじめてるんだ」

 彼の声は静かだったが、重みがあった。科学者としての分析結果ではなく、一人の人間としての直感から来る言葉だった。


 朔はわずかに瞬き、ふっと視線を下に落とした。

その表情には、聞き返すことも、驚くこともない静けさがあった。どこか、それを〝感じていた〟ように。彼の青みがかった瞳は、月明かりに照らされて揺れていた。


「そっか……うすうす、わかってたよ。最近、何に触っても実感が薄くて……夢みたいな、膜の中にいるみたいな」

 彼の言葉には、恐れというよりも諦めに近い感情が滲んでいた。自分の手をじっと見つめながら、続けた。


「指先で何かに触れても、その感触が遠くて……ガラス越しに世界を見ているような。自分が本当にここに存在しているのか、時々疑問に思うことがある」

 椅子に座っていた真宵が、やわらかく言葉を添える。彼女は朔に近づき、ベッドの反対側に腰を下ろした。そっと手を差し伸べるが、触れることはなく、ただ近くに置いた。


「その感覚が、〝魂の遅延〟。……でもね、原因ははっきりしてるわけじゃない。私たちは、それを〝人間らしさの欠如〟かもしれないって考えてる」

 彼女の声は、普段の冷静さよりも、友人としての温かさが強かった。朔を、実験対象ではなく、共に時間を過ごす大切な存在として見つめていた。


「本を読んだり、言葉を交わしたり──そういう〝情報の獲得〟じゃなくて。空の色とか、誰かを好きになる気持ちとか、そういう〝暮らし〟の中のこと」

 真宵は自分の胸に手を当て、ゆっくりと息を吸った。

「朔くんの魂は、まだ〝この世界で生きている〟って思えてないんだよ」


 彼女の言葉に、研究室にいる全員が深く共感した。それは科学的な事実というよりも、彼らが共有している感覚だった。空気が重く、しかし何か希望を孕んだものに変わっていく。


 しばらく沈黙が流れる。


 それを破ったのは、朔だった。彼は顔を上げ、三人の顔を見回した。その瞳には、不安と希望が混在していた。


「……ぼくに、まだ〝生きる余地〟があるってこと?」

 彼の声は小さかったが、はっきりとしていた。それは単なる質問ではなく、彼自身の存在への問いかけだった。生命としての価値、継続する意味を問うている。


 朧が目を伏せながら、ゆっくりと頷いた。いつもクールで感情を表に出さない彼の表情に、珍しく柔らかさが見えた。


「ああ。まだ〝終わらせない〟って、俺たちが決めたんだ。お前の魂がここに根付くまで、何年かかっても──支える」

 朧は窓際から歩み寄り、朔の前に立った。普段は手を差し伸べることのない彼が、珍しく朔の肩に手を置いた。その接触には、言葉以上の意味が込められていた。


 朔は、小さく息を吸い込んだ。その胸の動きは、何か大きな感情を抑えているかのようだった。彼の目には、微かに涙が浮かんでいた。


「……ありがとう。そう言ってもらえることが、今、一番〝生きてる〟気がした」

 彼の言葉には、真実味があった。それは単なる礼儀ではなく、彼の魂が一瞬、確かにそこに存在したことを示す証だった。


 黎は小さくうなずきながら、最後にこう言った。彼は朔の目をまっすぐ見つめ、科学者としてではなく、一人の人間として語りかけた。


「一緒に、取り戻そう。お前自身を、〝ここ〟で」

 その言葉には約束があった。諦めないという決意、共に歩むという誓い。それは単なる研究者と被験者の関係を超えた、深い絆を示していた。


 そして、この夜を境に、朔の再定着に向けた計画が始まった。

 それは科学的な実験ではなく、一つの魂を救うための旅路だった。朔の魂がこの世界に根付くまで、彼らは共に歩むことを選んだのだ。


 研究室の窓から見える星々が、静かに彼らを見守っているようだった。世界には科学では説明できないことがある。だからこそ、人は手を取り合い、共に生きる道を選ぶ。それが、彼らが今夜下した決断だった。



 ︎✦︎ ︎✦︎ ︎✦︎



 数日ぶりに姿を見せた朧は、明らかに何かが違っていた。


 研究室のドアを開けた瞬間から、彼の存在感が以前とは異質に感じられた。いつも着用していた硬質な印象のスーツはなく、代わりに淡いベージュの無地のシャツに、ネイビーブルーの軽めのジャケットという、どこか肩の力が抜けたような装いだった。企業に所属する研究者としての〝制服〟とも言えるスーツ姿の不在が、部屋に漂う空気をわずかに緊張させた。


「……朧さん?」

 真宵が小さく、まるで確認するかのような声を上げる。その声には驚きと共に、かすかな不安が混じっていた。彼女の細い指が実験データが並ぶタブレットの縁を無意識に強く握りしめる。


 朧はその声に軽く頷くだけで特に言葉を返さず、ゆっくりとした足取りで研究室の奥にあるカウンターへと向かった。透明なガラスのピッチャーから水をグラスに注ぐ音だけが、異様に静かな空間に響く。彼の背中からは何かを決意し終えた人間特有の、ある種の覚悟のようなものが感じられた。


「ちょっと、報告がある」

 静かに水を一口飲んでから、朧は言った。まるで天気の話でもするような、不釣り合いなほど平坦な声色だったが、グラスを握る彼の指先には微かな緊張が走っていた。彼は二人に向き直り、一瞬だけ視線を彷徨わせてから口を開いた。


「仕事、辞めてきた」

「……は?」


 動きを止めたのは黎だった。細身の体が一瞬石化したかのように硬直する。彼の頭脳が、今聞いた言葉の意味を処理できないでいるかのように、思考が数秒追いつかない。そして徐々に理解が進むにつれ、彼は訝しげに眉を寄せ始めた。蛍光灯の下で、彼の鋭い目が一層鋭さを増す。


「辞めたって……お前のとこ、国からの信頼も厚い企業の──」

「うるさい。相談したら、絶対止められるだろうなと思ってな。だから先に動いた」


 朧の言葉は黎の問いを途中で切り裂くように割り込んだ。


 まるで迷いのない断固とした語調だったが、彼が机の上に置いたグラスの水面はわずかに揺れていた。その微細な動揺が、彼の内面の波紋を物語っていた。


 黎の鋭い目が、その一瞬の〝ノイズ〟を見逃すはずがない。彼はレーザーのように朧の表情を見据え、その下に隠された真実を読み取ろうとしていた。実験データを解析するときと同じ冷静さで、友人の決断の背後にある理由を探っている。


「お前、何考えて──」

「……俺も、ちゃんと考えてる」


 静かに、だが確かに朧の声の調子が変わる。先ほどまでの平坦さが消え、そこには深い感情の起伏が感じられた。彼はジャケットのポケットに手を入れ、軽く握りこぶしを作る。まるで自分自身に勇気を与えるかのような仕草だった。


「研究だけじゃなく、人の心も、〝特異点〟の未来も。その中にある……可能性ってやつも」

 朧の言葉は研究室の空気を震わせ、真宵と黎の間に沈黙をもたらした。二人とも、彼が何を意味しているのか、うすうす感づいていた。朧は窓の外に広がる夕焼けを一瞬見つめてから続けた。


「……」

「お前がこの数ヶ月で朔に注いできたものも、真宵が朔の声にどれだけ耳を澄ませてきたかも……全部、見てきた」

 朧は視線を伏せ、床のタイルに映る自分の姿を見つめる。そこには長い間、自分の立場と信念の間で揺れ動いてきた男の姿があった。そしてふと顔を上げると、そこには迷いを捨て去った決意の表情が浮かんでいた。


「でも、それをただ横で記録してるだけの自分が……情けなくなったんだよ」

 その告白には、長い間抑え込んできた感情の解放があった。朧の声は静かでありながら、部屋全体に響き渡るような力強さを秘めていた。彼の決断は突然のように見えて、実は長い時間をかけて熟成された覚悟の結晶だったのだ。


「……俺も、もっと近くで見ていたい」

 朧の声は、言葉を一つ一つ慎重に選ぶようにして紡がれていった。それでいて、その声音には抑えきれない感情が随所に漏れ出していた。研究者としての理性と、一人の人間としての感情が交錯する独特の不器用さを含んでいた。窓から差し込む夕日の光が彼の横顔を淡く照らし、その表情に複雑な陰影を作り出している。


「朔のことも……お前のことも、だ」

 最後の言葉は、特に意味を込めるように、黎の目をまっすぐ見つめながら言った。その一言に、黎がわずかに目を見開く。彼の知性的な顔に、珍しく感情の波が表れた。それは驚きと、何かを悟ったような複雑な感情の混合だった。


 しかし朧は、それ以上の説明をしない。言葉を付け加えることで、今の誠実さが薄れてしまうことを恐れるかのように。ただ、目をそらさず、自分の言葉の重みと共に立ち尽くした。研究室の一角で、真宵はその二人のやり取りを、何かを理解しながら、静かに見守っていた。


「朔は、今──魂の遅延という、誰も通ったことのない場所にいる。過去の研究にも、前例はない。だからこそ、乗り越えてほしい。……生きて、この世界で〝人間として〟在ってほしい」

 朧の声は静かに、まるで古い祈りの言葉を唱えるように続いた。彼の言葉は研究者のものであると同時に、深い友情と願いに満ちていた。朔という存在が、彼らにとって単なる研究対象ではなく、かけがえのない誰かであることを物語っていた。窓の外では、夕焼けの空が徐々に深い青へと変わり始めていた。


「その願いに、自分もちゃんと、何かを差し出したいと思ったんだ」

 その言葉には覚悟と、ある種の諦念が含まれていた。朧は自分の左手の指で右手の手首を無意識に撫でながら、言葉を続けた。それは彼が深く考え込む時に見せる、珍しい仕草だった。


「……」

 黎は無言だったが、その瞳には朧の言葉を一言一句受け止めようとする緊張があった。真宵は二人の間に流れる無言のコミュニケーションを感じ取り、静かに息を詰めていた。


「これまでは〝何も壊さないため〟に傍観者でいようとしてた。でも、それじゃ何も守れないんだって気づいた。……自分の感情ごと、研究対象に飛び込むのは本来ご法度だけどな」

 朧は、自嘲気味に小さく笑う。その笑みには、長年抱いてきた研究者としての信条と、今の決断との間の深い葛藤が表れていた。彼の指先が、研究室のテーブルの端をわずかに叩く。それは緊張を紛らわせるための無意識の動作だった。


「お前らといると、倫理観がバグるわ」

 その言葉には非難ではなく、むしろ親しみと諦めが混ざっていた。朧自身が、この研究室で過ごした時間の中で、自分の中に芽生えた変化を認めているかのようだった。


 黎の眉がわずかに緩む。それは彼の表情の中では、ほとんど笑顔に近い反応だった。朧の自嘲を含んだ言葉に、一瞬だけ緊張が解けたようだ。けれど、すぐにまた真剣な色が戻る。彼は椅子から立ち上がり、朧に一歩近づいた。


「……俺は、遅かれ早かれいずれお前はいなくなるだろうと思ってたが……これからもいてくれるのは、ありがたい」

 その言葉は、黎としては珍しく感情を露わにしたものだった。普段は実験データや理論の向こうに自分を隠す彼が、今は友人の決断を前に、素直な感情を表現していた。それは、黎なりの最大限の肯定であり、朧の決断を受け入れるという姿勢の表明だった。


 互いに言葉にできない想いをいくつも飲み込みながら、それでもなお、必要だと認め合えることが、この三人の〝今〟だった。研究室の照明が自動的に明るさを増す中、三人の影がわずかに重なり合う。


 朧は小さく息を吐いて、緊張が抜けたように肩をわずかに下げた。そして、何かを振り払うかのように、壁の方を向いた。その視線の先には、朔のデータが表示されたモニターがあった。


「ま、あとで教授にはうまく誤魔化してくれ。お前の推薦で来たってことで」

 その言葉には、緊張を解きほぐしたいという願いが込められていた。朧は普段の調子を取り戻そうとしていた。


「勝手にやってきて、勝手に頼むな」

 黎の返答は辛辣に聞こえたが、その声には以前ほどの鋭さはなかった。むしろ、朧の提案を既に受け入れている調子だった。彼は腕を組み、いつもの姿勢に戻りながらも、その眼差しには新たな理解が宿っていた。


「それはまぁ、そうだな。……でも、こうするしかなかった。俺自身の中でも、答えを出したかったんだよ」

 朧の言葉は静かだったが、研究室全体に響くような重みがあった。その瞳には、黎と真宵の関係に対する複雑な感情が浮かんでいた。嫉妬の色、焦りの影、そして自分の居場所を見出せない痛みが、全て混ざり合っていた。けれど、それらはもはや彼を苦しめるものではなく、自分の一部として受け入れられていた。


 それらすべてを受け入れたうえで──〝それでも傍にいたい〟と願った男の、静かな決意だった。その覚悟は、夕暮れの空のように深く、そして温かかった。朧は研究用のタブレットに手を伸ばし、まるで新たな章を開くかのように画面をタップした。その指先には、もはや迷いはなかった。


 真宵は二人を見つめながら、小さく微笑んだ。三人の間に流れる空気が、少しずつ新しい形を見せ始めていた。窓の外では、最初の星が夜空に瞬き始めていた。


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