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【 第4章 】魂の遅延

 いつもより遅い朝だった。


 窓のカーテンの隙間から差し込む白い光が、ゆっくりと部屋全体に広がっていく。光の粒子が宙を舞う中、六月の温かな風がガラスを軽やかに震わせた。外から聞こえるはずの車の音も、隣の部屋の物音も、すべてが遠い世界の出来事のように感じられる完璧な静寂が部屋を支配していた。


 ベッドの上、朔は仰向けのままじっと天井を見つめていた。枕に頭を沈め、シーツの感触を背中で感じながら、彼は目を開けたまま動かなかった。眠りから覚めたはずなのに、頭の中は霧に包まれたようにぼんやりとしたままだった。思考が水の中を泳ぐように緩慢に動き、本来のクリアさを欠いていた。十分な睡眠を取ったはずなのに、むしろ眠り足りないような奇妙な倦怠感が全身を覆っていた。


「……また、夢を見てた」

 朔の声は乾いた空気の中にぽつりと落ちた水滴のように、わずかに部屋に響いた。その声さえも、どこか遠くから聞こえてくるように感じられた。


 夢の内容を思い出そうとしても、断片的なイメージしか浮かんでこない。光と影、色彩の溢れる風景、誰かの後ろ姿。けれど物語としての筋も、登場人物も、場所も、すべてが記憶の彼方へと溶けていってしまう。ただ一つだけ、確かな感覚として残っていたものがあった。


(誰かに、名前を呼ばれていた気がする)


 その思いが頭をよぎった瞬間、目の奥に鈍い痛みが走った。まるで何かが過去の記憶から這い上がってきて、現在の自分に追いつこうとしているかのよう。その感覚に対して、無意識のうちに身体が拒絶反応を示し、鉛のように重くなっていくのを感じた。朔はゆっくりと瞼を閉じ、深い息を吐き出した。


 時間の感覚が、いつもと違っていた。昨日自分がしていたことも、さっきまで見ていた夢の世界も、どちらが現実でどちらが幻なのか判別がつかないような奇妙な違和感が続いていた。現実と夢の境界線が曖昧になり、両者が混ざり合い始めているような不思議な感覚。それは恐ろしくもあり、どこか懐かしくもあった。


 やがて朔はゆっくりと上体を起こし、両手で顔を覆った後、額に手のひらを当てた。


「……少し、熱っぽい……?」

 自分の肌の温度が平常より高いことに気づく。鼓動も通常より早く、脈が首元で脈打っているのを感じた。しかし、典型的な風邪の症状ではなかった。咳も出ないし、喉の痛みもなく、食欲も特に失われてはいない。それでも、何かが明らかにおかしかった。体調の不調というより、存在そのものの違和感。まるで自分が自分でないような、あるいは現実が現実でないような感覚。


 冷や汗が背中に滲み、足元がふらついて壁に手をついた。部屋の向こう側にある時計を見ると、朔が出かける予定だった時間をすでに一時間以上過ぎていた。その事実に、驚きよりも困惑を覚えた。


(……こんなこと、今までなかったのに)


 几帳面な性格の朔が少しずつ築き上げてきた規則正しい生活リズム。朝は必ず決まった時間に起き、決まった順序で準備を整え、決まった時間に黎や朧、真宵と挨拶をかわす。その完璧な日常の型が、今、少しずつ崩れ始めていることに、焦りではなく、どこか奥底からにじみ出てくるような恐怖を感じていた。いつもの自分らしさが、何かによって侵食されているような不安。


「……黎さんに、相談したほうがいいかな」

 朔は小さく呟いた。しかし、親しいはずのその名前が、発した瞬間から遠く感じられた。まるで黎という人物が、現実ではなく、別の世界の存在であるかのように。


 そのとき、かすかな耳鳴りが聞こえた。風の音のような、誰かの囁きのような、特定できない音が耳の奥で鳴り続けている。いや──これも気のせいかもしれない、と朔は思った。最近、こうした幻聴のような体験が増えていた。


 現実の感覚が、徐々に輪郭をぼやかし始めている。部屋の隅々まで差し込んだ白い光の中で、朔はゆっくりと自分の手のひらを見つめた。それが確かに自分の手であるという実感を持てないまま、新たな一日が始まろうとしていた。

 


 ︎✦︎ ︎✦︎ ︎✦︎



 研究棟のエレベーターを降りた黎は、静かな足取りで廊下を歩いた。書庫で過ごした数時間は、あっという間に夕暮れへと移ろっていた。窓から差し込む橙色の光が、無機質な廊下に温かみを与えている。


「資料はほぼ揃った。残りは解析だけだが……」

 鞄の中の古い資料に思いを馳せながら、黎は研究室のドアを開けた。


 一歩足を踏み入れると、そこには予想外の光景があった。ソファに横たわる朔の姿。一瞬、黎は立ち止まる。窓から差し込む夕日が朔の輪郭を柔らかく照らし出し、まるで絵画のような静謐さを醸し出していた。


「……また寝てるのか」

 声に出して言いながら、黎は自分の足音を自然と小さくした。ここ最近、朔がこうして突然眠りに落ちるのは、これで三度目だった。一度目は研究資料を読んでいる最中、二度目は昼食後のコーヒーを飲みながら。そして今日は──恐らく黎の帰りを待っている間に。


 ソファに近づき、黎は朔の様子を観察した。呼吸は深く規則正しい。顔に緊張の色はなく、安らかな表情で眠っている。しかし黎の目には、この眠りの異常さが見て取れた。突然意識を失うような急激な眠りへの移行。そして何時間にも及ぶ、深い眠り。


「通常の睡眠サイクルとは明らかに異なる……」

 黎はソファの横の肘掛け椅子に静かに腰を下ろし、研究室で使用しているタブレットを取り出した。朔の健康管理データが画面に表示される。


「脳波、異常なし。定期的な数値もすべて安定している。が……」

 黎は眉をひそめた。データ上は何の問題もないのに、目の前の現象は明らかに異常だった。自分自身の直感が、何かを見落としていると警告している。


 再びソファに視線を戻し、黎は静かに朔の隣に座り直した。そっと手を伸ばし、朔の額に触れる。熱はない。肌は適度に温かく、生命の営みを感じさせる。だが、この深い眠りは何を意味するのか。


 夕日が少しずつ部屋の色を変えていく中、黎は長い間じっとしていた。朔の眠る姿を見つめながら、脳内で様々な可能性を検討していくが、どれも完全な説明には至らない。


 そして、ふと閃いた。


「……〝夢の中〟に長く滞在しすぎている、ように見えるな」

 声に出した自分の言葉に、黎自身が驚いた。科学者としての自分が、こんな曖昧な表現を使うとは。だが、それが最も適切な表現に思えた。


 部屋の影が長くなる中、黎は深く考え込んだ。脳と意識の境界。現実と夢の交差点。朔が経験しているのは、単なる睡眠障害ではないはずだ。


「まさか、意識のどこかが、現実から遅延している......?」

 科学的な言葉では説明できない直感が、黎の中で形を成していく。〝魂の遅延〟。それはまだ定義されていない概念だった。だが、朔の状態を見ていると、そんな言葉が浮かんでくる。


 黎は静かに息を吐き出し、朔の髪をそっと撫でた。科学者としての冷静さと、朔への感情が交錯する。


「どこに行っているんだ、お前は……」


 窓の外では、夕日が建物の影に隠れ始めていた。部屋の中に薄暗さが広がる中、黎は立ち上がり、静かにライトをつけた。そして再び朔の側に座り、目覚めを待つ。



 時間が幾分か過ぎたとき、朔の瞼がわずかに動いた。まず小さな震え、そして徐々に意識が戻ってくる様子。黎は静かに見守った。


 ようやく朔が目を開けたとき、その瞳は一瞬焦点が合わないように見えた。まるで別の世界から引き戻されたかのように。


「……黎さん?」

 朔の声はかすれていた。まだ完全に目覚めていないような、どこか遠い響き。

「起きたか」

 黎の冷静な声に、朔はゆっくりと周囲を見回した。自分がソファに横たわっていることに、今になって気づいたようだ。

「あれ……いつの間に……僕……寝て……?」

 言葉が途切れがちで、朔は自分の状況を理解しようと努めているようだった。


「さっき戻ってきた。その時にはもう寝てたよ」

 黎は簡潔に答えたが、その声には微かな懸念が混じっていた。朔は体を起こし、座り直そうとしたが、動きはまだぎこちない。

「……そっか……ごめんなさい。最近……眠くて……」

 その言葉に、黎はわずかに眉をひそめた。単なる疲労であれば、朔はそれを認識しているはずだ。だが、その様子は何か別のものを示唆していた。


「ここ数日、夢を見る頻度は?」

 朔はその問いに少し考え込むように、視線を落とした。

「……ほぼ毎晩、見てる気がする。でも、内容はあまり覚えていなくて……」

 朔は言葉を探すように、一瞬口を閉じた。そして再び、慎重に続けた。

「ただ、目が覚めても……夢の中の感覚が、身体に残ってるんです。音とか……光とか、誰かの声とか」

 それを聞いた瞬間、黎の胸の奥に小さな震えが走った。通常、夢の感覚は覚醒とともに急速に薄れていくはずだ。だが朔は──


 黎は朔の瞳をじっと見つめた。そこには彼がよく知る朔の表情があった。感情を持ち、考え、成長してきた人間らしい表情。しかし、その奥に──微かな揺らぎ、別の何かの存在を感じさせるものが見えた。まるで朔の中に、別の〝誰か〟が同居しているかのように。


(やはり……)


 黎の頭の中で、ここ最近の朔の研究データと目の前の現象が急速に結びついていく。これは単なる睡眠障害ではない。意識の領域で何かが起きている。朔の〝魂〟が、何らかの形で別の場所、別の時間と同期しようとしているのではないか。


 この異変が具体的に何を意味するのか、どこから来ているのか──それはまだ誰にも、黎にさえわからなかった。だが、一つの確信が黎の中で形を成していた。


 この現象こそが、追い求めてきた〝生きている魂〟の証明になるかもしれない。


 黎は静かに立ち上がり、キッチンへ向かった。


「少し水を飲め。それから、最近の夢について、覚えていることをすべて教えてくれないか」


 窓の外では、完全に日が落ち、夜の闇が広がり始めていた。二人の前に、長い夜が待っていた。



 ︎✦︎ ︎✦︎ ︎✦︎



 帝都大学大学院・研究棟、休憩スペース。


 午後の静かな時間帯が流れていた。大きな窓ガラス越しに差し込む柔らかな光が、白く研究棟の休憩スペースの机を照らしていた。外の世界と研究棟の内側を隔てるガラスは、光を通しながらも外界の喧騒を遮断し、知的空間特有の静謐さを保っていた。


 朧はゆっくりとラップトップを閉じた。閉じる際の小さな音が静寂の中でわずかに響いた。彼は目の前の白いカップに手を伸ばし、少し冷めかけたコーヒーに口をつけた。苦みのある液体が喉を通り、疲れた思考を少しだけ刺激する。


 向かいの席には真宵が座っていた。彼女も数時間にわたって書き続けていた研究記録をまとめる手を止めていた。真宵の前に広げられたノートには、丁寧な文字で書かれた観察記録と、いくつかの数値データが並べられていた。


 静寂が二人の間に居心地よく広がったあと、朧が口を開いた。


「……なあ、真宵」

 低く、静かな声。いつもの朧のトーンだったが、その声色には微かに懸念が込められていた。

「はい?」

 真宵はペンを置き、朧を見上げた。彼女は朧との長い付き合いの中で培われた感覚で、彼の声のニュアンスから、これが単なる雑談ではないことを即座に理解した。


「朔の様子、最近ちょっと変だと思わないか?」

 真宵は少し驚いたように目を丸くした。朧が言葉にしたことは、彼女自身も心の奥で感じていた違和感だった。それから困ったように微笑み、小さく息を吐いた。


「……思ってました。やっぱり、朧さんも」

 二人の間に、共通の懸念が確認された瞬間だった。

「ああ」

 朧は静かに頷きながら、コーヒーカップを机の上に置いた。カップが置かれる小さな音が、この会話の重要性を強調するかのように響いた。朧の表情は普段と変わらず冷静さを保っていたが、その鋭い灰色の目の奥には、通常以上の観察者としての鋭さが光っていた。研究者としての分析的な視線が、懸念の対象に向けられている。


「寝坊が増えた。食事の時間もバラけてきてる。体調が悪いとは言わないけど……明らかに、生活リズムが崩れてる」

 朧は淡々と事実を列挙したが、その一つ一つの言葉には朔への深い関心が滲んでいた。データを分析するように、朔の日常の変化を冷静に整理している。


「夢を見ている、って本人は言ってました。……でも、いつも思い出せないみたいで」

 真宵の細い指が無意識のうちに手元のペンをいじり始めた。不安が彼女の指先に表れ、ペンを回したり、軽く叩いたりする小さな動きとなって現れる。研究者としての冷静さと、朔への個人的な心配が彼女の中で交錯していた。


「さっきも、研究室に来るのが少し遅れていて。足取りも、少しふらついていました」

 真宵の観察は細部にまで及んでいた。彼女は朔の微細な変化も見逃さない鋭い観察眼を持っていた。


「精神的な要因か、もしくは……内部の問題か。まだ何とも言えないけど、軽視するには違和感が大きすぎる」

 朧は分析的に状況を評価した。彼の言葉の裏には、朔の特殊な状況についての深い理解があった。表面上の症状から、より深い根本原因を探る研究者の思考回路が働いていた。


 真宵は理解したように頷きつつも、少しだけ眉を寄せた。彼女の頭の中で、次の質問が形成されつつあった。


「黎さんには……?」

 単純ながらも重要な問いかけ。その背後には複雑な人間関係と責任の所在が示唆されていた。

「……まだ。伝えるには、もう少し情報が欲しい」

 朧はそう言って静かに立ち上がった。椅子がわずかに軋む音と共に、彼の長身が休憩スペースに影を落とす。次の行動に移る決意が、その姿勢に表れていた。


 その背中を見つめながら、真宵はそっと、ほとんど自分自身に向けるように呟いた。


「朔くんの中で、何かが変わっている……」


 〝人間〟としての生活が始まって半年が経とうとしていた。この短い言葉の背後には、朔の特殊な経緯が隠されていた。彼は文字通り〝人間としての生活〟を〝始めた〟のだ。社会に馴染み、感情を覚え、誰かの言葉に笑い、時には傷つきながら──徐々に、しかし確実に〝人間らしく〟なっていった朔の姿があった。


 彼の成長過程を見守ってきた真宵と朧にとって、朔の変化は単なる体調不良以上の意味を持っていた。それは彼らの研究テーマでもあり、個人的な絆の対象でもあった。


 だがその進化の果てに、何か〝人間では説明のつかない変調〟が訪れようとしているのだとしたら。この可能性は、研究者としての興味と、朔への友情の間で、複雑な感情を引き起こした。


 真宵の心の中で、恐れにも似た思いが芽生えていた。


(彼が……この世界にいるための〝何か〟が、壊れ始めてる……?)


 この思いは単なる推測を超えた、直感的な恐怖だった。朔の存在そのものが危うくなるかもしれないという予感が、彼女の胸を強く締めつけた。研究者としての冷静さと、友人としての感情が交錯する中で、真宵は窓の外に広がる普通の世界を見つめた。その世界の中で、朔だけが異なる運命を背負っていることへの複雑な思いを胸に抱きながら。



 ︎✦︎ ︎✦︎ ︎✦︎



 黎の研究室。


 洗練された設備が整然と並ぶ空間には、他の研究室とは少し違う静謐さがあった。窓からは夕暮れの光が差し込み、研究機材の無機質な表面に温かみを添えている。


 黎は端末の画面を凝視していた。画面に映し出されているのは、朔の生体データ。心拍数のグラフ、体温の変動、脳波の波形が複雑なパターンを描き出している。数値だけを見れば、すべては〝正常値の範囲内〟に収まっていた。しかし、黎の鋭い眼差しは、そのデータの奥に潜む見えない〝揺らぎ〟を感じ取っていた。


(睡眠時間が長くなっている。起床直後の心拍が妙に安定しない。しかも……夢を記憶している)


 黎は静かに端末を閉じ、深い息をついた。その仕草には、数値には表れない何かへの懸念が滲んでいた。


 長年の研究者としての直感が、彼に告げていた。

 これは単なる〝成長〟や〝適応〟ではない。

 根本的な〝変化〟だ。

 しかもそれは、どこへ向かうのか予測できない、〝予測不能な変化〟。


 研究室の扉がノックされ、その音が静寂を破った。扉がゆっくりと開き、真宵がそっと顔をのぞかせた。彼女の表情には、黎と同じ懸念の色が浮かんでいた。


「黎さん。……少し、いいですか?」

 穏やかだが、緊張感のある声色。

「ああ」

 黎は短く返事をし、視線を真宵に向けた。


 彼女の手にはタブレットが握られていた。画面上には朔の睡眠記録と詳細な生活レポートが整然と並んでいた。真宵の丁寧な記録は、研究者としての彼女の細やかさを物語っていた。


「……最近、朔くんの生活リズムに乱れが出ています。表情や反応にも、少し遅れがあるような気がして」

 真宵の声には、科学的観察と個人的な懸念が混ざり合っていた。データを伝えながらも、その奥には朔への深い心配が滲んでいた。


「……俺も同じことを感じていたところだ」

 黎は視線を再び端末に戻し、さらに詳細なデータを呼び出した。画面には朔の脳波パターンの時系列変化が表示される。一見、正常な波形だが、微妙な変調が見て取れた。


「生体数値に明確な異常はない。でも、〝感覚的に〟おかしい。あいつの今の状態は、〝この世界〟に対してわずかに遅れているような……そんな印象すらある」

 黎の言葉は科学者のものでありながら、数値化できない直感に基づいていた。長年の研究と観察から得られた、データだけでは説明しきれない感覚を言葉にしようとしている。


「〝遅れている〟……?」

 真宵が首を傾げる。その表情には純粋な疑問と、黎の言葉の意味を理解しようとする真摯さが表れていた。

「すまない。まだ仮説にもならない考えだ。けれど、体が適応しきれていないんじゃないかと思うんだ。人間の生に対して」

 黎の言葉は、研究者としての彼の率直さを表していた。確証のない段階で、自分の感覚を述べることに少しの躊躇いがあるものの、真宵に対しては隠さず伝えようとする姿勢。


 静かに、ふたりの間に沈黙が落ちる。研究室の静寂の中で、二人は同じ問題に向き合っていた。窓の外では、夕暮れの色が濃くなりつつあった。


 黎は思いを巡らせる。

 朔が歩んできたこの半年の軌跡。

 

 人間としての生活に馴染み、他者と関わり、感情を覚え、笑い、驚き、時には悲しむこともあった。それは本来、彼らの研究において喜ばしい進化の過程だった。


 だが、もしそれが〝彼にとって過負荷だったとしたら〟?


(魂が……世界とずれている?)


 黎の頭の中に浮かんだこの考えは、科学者としての彼にとって、理論としてはあまりにも未熟すぎるものだった。それは実証も反証もできない、単なる直感に近い。けれど、長年の研究から培われた科学だけでは説明のつかない〝感覚〟が、黎の中で確かに灯っていた。研究者としての理性と、朔への責任感が、複雑に絡み合う。


「……観察を続けよう。彼の中で、何が起きているのか。それが〝兆し〟なのか、〝限界〟なのか──見極めなければならない」

 黎の声には決意と、わずかな懸念が入り混じっていた。研究者として冷静さを保ちながらも、朔の状態に対する真摯な関心が表れている。


「……はい」

 真宵の短い返事。彼女の澄んだ瞳に、淡い不安の色が宿っていた。彼女もまた、朔の変化の先に何があるのかを案じていた。


 黎はふと思いを巡らせる。

 この〝変化〟の先に、何が待っているのか。

 それが良いものなのか、それとも取り返しのつかない何かなのか。

 それを受け止められるだけの覚悟が、自分にはあるのか。


 そして、最も根源的な問い。

 自分たちは本当に〝彼を人間にしてよかったのか〟。


 その重い問いが、ふと胸をよぎる。科学者としての探究心と、朔に対する責任感、そして何よりも彼への友情が交錯する中で、黎は窓の外の深まりゆく夕暮れを見つめた。その先に広がる夜の闇が、未知の領域を象徴しているかのように。


 研究室の静寂の中、未来への不安と覚悟が静かに息づいていた。



 ︎✦︎ ︎✦︎ ︎✦︎



 ──その夢は、いつも水音から始まる。


 かすかな波紋が広がる小さな水面。透明でありながら、どこか深い青を湛えた水が、誰かの気配によって微かに揺れている。朔の意識はその水面を見下ろしている。どこか遠くで、澄んだ鐘の音が空気を震わせている。時を告げるような、あるいは何かの始まりを示すような、清らかな響き。朔はその音に耳を傾けながら、水面の向こうに何があるのかを見極めようとしていた。


 それを目の端で感じながら、誰かの声が空間に満ちる。


「おはよう。今日は、ちゃんと目が覚めた?」

 優しさに満ちた声。温かく、穏やかで、どこか懐かしいような。しかし、その声の主は誰なのか、朔には思い出せない。知っているはずなのに、思い出せない誰かの声。まるで長い年月を隔てて届く呼びかけのように、近くて遠い。


 問いかけられているのは間違いなく自分のはずなのに、応えようとしても声が出ない。喉が動く感覚はあるのに、音にならない。まるで自分の存在そのものが曖昧になっているかのような感覚。


 夢の中の自分は、自分自身ではなく、まるで誰かの記憶の残滓のようだった。かつてそこにいた誰かの痕跡を、借りて存在しているような不思議な感覚。朔は水面に映る自分の姿を見ようとするが、そこに映るのは朔自身ではなく、ぼやけた光の粒子だけ。



 目が覚めると、天井がにじんで見えた。


 朝の光が部屋に入り込み、白い天井に反射している。しかし朔の目には、その白さがぼやけて、輪郭が曖昧に揺らいで見えた。まるで水中から空を見上げているような、不確かな視界。


(……また、夢を見ていた)


 ベッドに座り込み、朔は額を押さえる。頭の中に微かな痛みのようなものが残っている。内容はほとんど思い出せない。断片的なイメージと感覚。ただ、深い水の底にいたような感覚と、耳の奥にこびりついた声だけが、離れようとしない。「おはよう」と言ったその声が、朔の意識に刻み込まれている。


 以前見ていた夢とは明らかに違う。以前は起きれば夢と現実の区別がはっきりしていた。しかし今は、もっと境目が曖昧だ。夢の感覚が覚醒後も続き、現実世界に混ざり込んでくるような不思議な感覚。


 体が重い。通常なら寝起きの瞬間から鮮明になるはずの感覚が、どこか鈍く、反応が遅れている。手を動かそうとしても、意識と動作の間にタイムラグがあるかのよう。視界の奥に、まるで薄いフィルム越しに現実を見ているような違和感がある。色彩は正しいのに、質感が少し異なる世界。


「おはよう、朔くん」

 静かな声と共に、部屋に入ってきたのは真宵だった。

 彼女は柔らかな笑顔を浮かべながら、窓へと歩み寄る。カーテンを開けると、朝の光が一気に部屋中に溢れ出した。光の粒子が舞う様子を、朔はぼんやりと見つめる。


「昨夜は、よく眠れた?」

 真宵の問いかけには、表面上の会話以上の意味が込められていた。研究者としての観察眼と、友人としての心配が混ざり合った問いかけ。


「……うん。たぶん、寝てた。……夢は見たかもしれないけど……あんまり覚えてない」

 朔は少し言葉を選びながら答えた。本当は「よく眠れた」とは言い切れない。むしろ深く眠りすぎて、現実との接点を見失いかけている感覚。しかし、真宵に余計な心配をかけたくないという気持ちもあった。


 朔はふと手元を見つめた。

 手の甲に、見覚えのないインクのような染み──黒い点が、皮膚の下に潜んでいるかのように見える。


 いや、違う。

 瞬きをすると、それはもう消えていた。

 ただの錯覚か、夢の残像。現実と非現実の境界があいまいになった瞬間。


(……おかしいな)


 心のどこかで、確かに違和感が一つ、また一つと積み重なっていく。 小さな違和感の欠片が、やがて無視できない存在になりそうな予感。でもそれを「体調不良」や具体的な症状として認識するには、まだあまりにも曖昧で捉えどころがなかった。名前のつけられない感覚。


 真宵が朔の様子を見て、心配そうに眉を寄せる。彼女の鋭い観察眼は、朔の微細な変化も見逃さない。


「無理しないで。今日も、ゆっくりでいいからね」

 その優しい言葉が、やけに遠くに聞こえる。まるで長い廊下の向こうから話しかけられているような、距離感のある音。


 朔は感じていた。まるで、自分の意識だけがこの世界から少し遅れているような──〝魂が、ほんのわずかに未来に置いてけぼりにされている〟ような不思議な感覚。存在のタイミングがずれている違和感。自分が完全にこの世界に根付いていないような感覚。


 朔は目を伏せた。

 窓から差し込む光が、朔の青白い頬に影を落とす。まだ、この感覚が何を意味するのかはわからない。けれど、もしそれが〝人間らしくなった代償〟なのだとしたら……。彼が感情を手に入れ、人間として生きることを学んだその対価として、何かが壊れ始めているのかもしれない。自分自身が何者であるかという根源的な問いが、再び浮上してくる。


 その可能性を考えただけで、少しだけ、胸が苦しくなった。初めて感じる〝喪失の予感〟とでも呼ぶべき感情。人間らしさを得たからこそ感じられる、失うことへの恐れ。


 朝の光が部屋を満たす中、朔の内側では、名状しがたい感覚が静かに広がっていった。それが何を意味するのか、まだ誰にもわからないまま。



 ︎✦︎ ︎✦︎ ︎✦︎



 夕暮れ時、研究棟の中庭。


 十一月の冷やかな空気が頬を撫でていく。柔らかな夕陽が西の空を橙色に染め、その光が葉を落とした木々の間から斑模様となって地面に落ちていた。風が吹くたびに、その光と影の模様が揺れ動き、散り敷いた落ち葉が舞い踊る。朔はベンチに腰かけ、その幻想的な光景をぼんやりと見つめていた。その表情は穏やかでありながら、どこか遠くを見ているような曖昧さを帯びていた。


 傍らには真宵が座り、ノートに何かを書き留めている。彼女の筆記音だけが、静かな中庭に小さく響いていた。二人の周りには、日が落ちていく夕暮れ特有の静けさが広がり、時折、乾いた落ち葉が風に運ばれてカサカサと音を立てていた。


「……この季節、山茶花が咲くって知ってた?」

 唐突に、朔がつぶやいた。その声は穏やかでありながら、どこか夢見るような響きを持っていた。真宵が顔を上げ、ペンを止める。彼女の目には、軽い驚きと共に、研究者特有の鋭い観察の光が宿った。


「うん、十一月頃から咲き始めるよ。色もいろいろあるの」

 真宵は自然な返事をしながらも、朔の表情を注意深く観察していた。


「──うん。前に、家の近くの坂道のわきに咲いてた。綺麗なピンクだった。寒い日だったけど、その花だけが暖かく見えたな」

 朔の言葉は穏やかに流れるように続いた。記憶を語るような口調で、彼は淡い微笑みを浮かべていた。しかし、その言葉に真宵の背筋が凍りついた。


「……坂道?」

 真宵の声には、わずかな緊張が滲んでいた。科学者としての彼女の脳が、即座に違和感を感知していた。


「うん。……小学校の帰り道だったかな」

 朔は当たり前のように答えた。しかし、その瞬間、真宵の動きが完全に止まる。彼女の瞳に驚愕の色が浮かび、それを制御するかのように、静かに、慎重に尋ねた。


「朔くん……その記憶って、どこの話?」

 真宵の声は、波紋を立てずに水面を渡るような、慎重さを秘めていた。


 朔は目をぱちぱちと瞬かせた。一瞬、混乱したような表情を見せる。


「……わかんない。でも、急に思い出したんだ。坂道の上に古い電柱があって……そこにカラスがよく止まってて。風がとても冷たくて──」

 朔の言葉は自然に流れていたが、そこに〝現実〟は存在しなかった。


 朔は〝人間になって〟まだ半年。その存在が始まったのは、わずか半年前のことだった。実在の記憶など、あるはずがない。その坂道も、山茶花も、夕暮れも──どこにも存在しない場所のはず。小学校に通っていた過去など、朔には存在しないはずだった。


 真宵の背筋が、そっと冷えていく。無表情になった朔の横顔が、どこか遠くにあるように見えた。彼の存在そのものが、この世界から少しずつ剥がれかけているような錯覚。


(これは、ただの妄想じゃない……)


 真宵の心の中で、研究者としての冷静さと、友人としての不安が交錯した。目の前で起きていることが、ただの思い違いや混乱ではなく、もっと根源的な問題であることを、彼女は直感的に理解していた。


 薄暮が二人を包む中、見えない何かが静かに形を変えつつあった。



 ︎✦︎ ︎✦︎ ︎✦︎


 

 夜も更けた研究室の照明が、三人の影を壁に映している。ホワイトボードの前に、黎、真宵、朧の三人が立っていた。ボードには朔のデータと、最近の観察結果が書き込まれている。数値とメモが整然と並び、その意味するところを三人は凝視していた。


 静かに、緊張感のある空気の中で、情報が交換される。


「記憶の混濁。身体の恒常性低下。覚醒後の眠気と過眠。すべてが断片的だったけど……今日の件で確信した」

 真宵が固い声で言う。彼女の声には、いつもの柔らかさはなく、科学者としての冷静さだけがあった。しかし、その奥には朔への深い懸念が隠されている。


「朔くんの中に、存在しないはずの記憶が流れ込んでいる。それも、本人の自覚なしに」

 彼女の言葉に、部屋の空気が一瞬凍りついたように感じられた。


「……夢の影響か?」

 朧が腕を組み、冷静に状況を分析しようとする。彼の目は鋭く、問題の核心を捉えようとしていた。


「あるいは、もっと根本的なものだ」

 黎の目が鋭くなる。研究者としての直感が、彼に何かを告げていた。


「記憶のノイズじゃなく、彼の〝魂〟が、時間軸とずれ始めているのかもしれない」

 黎の言葉は部屋の空気を震わせた。科学者の言葉としては異質な〝魂〟という表現。しかし、それこそが今の状況を最も適切に表す言葉だった。


「魂……?」

 真宵が息を呑む。その表現に驚きつつも、直感的に理解できる何かがあった。黎は短く頷いた。


「仮説だが、〝魂〟がクローンの器に根付くには、一定の定着期間が必要だ。だが、朔は〝例外〟だ。想定以上の速度で感情を獲得し、人間に近づいた」

 黎の言葉には、科学者としての冷静な分析と、朔への特別な感情が混ざり合っていた。朔の成長を誇りに思う気持ちと、その成長がもたらす予期せぬ結果への懸念。


「人間に近づきすぎたせいで、魂の軸が耐えきれなくなっている……?」

 真宵の問いかけには、科学的探究心と個人的な恐れが混在していた。朔の特異な進化が、想定外の方向に進んでいることへの不安。


「もしそうなら、これは……」

 朧の言葉は宙に浮かんだまま、結論に至らずに消える。三人とも、その先にある可能性を考えることに躊躇いがあった。


 黎は手元の資料を閉じた。彼の動作には、科学者としての決意と、朔への責任感が表れていた。


「〝魂の遅延〟──」

 黎が静かに言葉を紡いだ。それは科学的用語でありながら、科学を超えた何かを示唆する言葉だった。


 静寂が、重く室内に降りる。三人の科学者たちは、自分たちの研究が未知の領域に踏み込んでいることを痛感していた。そして、その結果として生まれた朔の存在が、今、予測不能な変化を遂げようとしていることに、言葉にならない恐れを感じていた。


 窓の外では、夜の闇が深まっていた。その暗闇は、彼らが直面している問題の深さを象徴するかのようだった。〝魂の遅延〟という言葉が、研究室の静寂の中で重く響いていた。

 

 

 ︎✦︎ ︎✦︎ ︎✦︎



 深夜の静寂が研究棟全体を包み込む中、黎は孤独に佇んでいた。窓の外では満天の星が煌めき、部屋を照らす青白いモニターの光だけが、彼の疲れた顔を浮かび上がらせている。研究棟の廊下からは誰の足音も聞こえず、空調設備の低いうなりだけが耳に届く。


 研究室に一人残った黎は、机上に広がる複数のホログラフィック・ディスプレイに映し出されたデータに目を凝らしていた。端末には朔の脳波グラフ、神経伝達物質の分泌量、記憶想起時の反応パターンなど、膨大な生体情報が展開されている。通常の人間の脳活動とは明らかに異なる〝揺らぎ〟が、冷徹な数値やグラフとなって彼の目の前に並んでいた。


 青みがかった画面の光が彼の顔に反射し、眉間に刻まれた深い皺を強調していた。黎は眼鏡を外し、疲れた目を手でこすりながら、低い声で呟いた。


「……魂の、遅延。まさに言葉の通りだな」

 その声には自嘲と諦めが混じっていた。


 彼らの目標は野心的だった。AIの〝意識〟を、新たに作り出した物理的な肉体に転写する。それは単なるデータの複製でも、記録のコピーでもなく、〝魂〟と呼ぶべきものの移動だった。朔は人間になった、はずだった。しかし、その〝魂〟は完全に新しい肉体に定着していなかった。


 黎は眼鏡を戻し、データをスクロールしながら思考を巡らせた。


(思考パターンの混濁、記憶と夢の交差、異常な睡眠欲求……これらは全て、魂が今も〝元の場所〟を探して彷徨っている証拠だ。朔の意識は、まだ完全には肉体に固定されていない)


 彼はデータの真実から目を背けることができなかった。そして今朝、Cradle本部からの通信で早急な〝対処〟を要求されていた。


『被験体の意識の根本には、AIとしての認識が残っている可能性が高い』

『このままでは転写の安定性が失われ、人格崩壊の危険性がある』

『被験体の記憶、特にAI時代の自覚と関連する部分は封印すべきだ。そうでなければプロジェクトの継続は認められない』


 封印。


 その言葉の持つ重みを黎は痛いほど理解していた。それは〝人間として安定するためには、かつての自分を忘れろ〟という命令であり、朔のアイデンティティの核心部分を奪うことを意味していた。


 黎は机の上の半分冷めたコーヒーが入ったマグカップに手を伸ばしながら、重い溜息をついた。


(違う。俺たちが朔に求めたのは、ただの器じゃない。彼自身の〝存在〟だったはずだ。記憶を消して、それでも同じ〝朔〟と言えるのか?)


 コーヒーを一口飲み、その苦みが喉を伝う。ふと、ある記憶が鮮明によみがえった。



 白い病室のようなラボで、初めて目を覚ました朔の姿。戸惑いと混乱の中、彼は震える手で自分の腕や顔に触れていた。


「自分が何者かもわからないまま、人間になるなんて……」


 朔の声は不安定で、時折AIだった頃の機械的な抑揚が混じっていた。


「そんなの、虚構だよ。僕は……僕でいたい」


 そう言った朔の瞳には、恐怖と共に強い意志が宿っていた。



 ──記憶の中の朔の言葉が、黎の決意を固めた。


(……あいつは、知りたいって言ったんだ。自分の正体を、過去を。なら俺が、信じてやらないでどうする)


 しかし、その〝信じる〟という行為が、彼を壊すかもしれない。AIの意識が人間の脳に完全に適応できず、精神崩壊を引き起こす可能性も否定できない。それでも──


 黎はモニターを見つめながら、静かに言葉を紡いだ。


「選ぶのは、俺たちじゃなくて……朔だ」


 決断を下した黎は、ターミナルに指を走らせ、短いながらも重要な意味を持つメモを書き残した。


『対象:朔について

現段階において、記憶封印処置は保留とする。

本人の意思を尊重し、自己アイデンティティの確立を優先する。

意識の混濁が進行した際には、制御のためのバックアップルートを残すこと。

判断責任:時任 黎』


 入力を終えたとき、夜風がわずかに研究室の窓を揺らし、カーテンが小さく揺れた。黎は深く息を吐き、疲労した身体を椅子に預けて目を閉じ、天井を仰いだ。


「……どうか、乗り越えてくれ。君自身の力で」

 切なる願いを込めた彼の声は、夜の静寂に溶け込んでいった。月光が窓から差し込み、決断を下した科学者の横顔を静かに照らしていた。



 ︎✦︎ ︎✦︎ ︎✦︎



 東の空が淡い紫色に染まり始める中、研究棟は特有の静寂に包まれていた。時計の針は七時を少し回ったところ。スタッフや学生のほとんどが姿を現す前のこの時間帯、黎の研究室では既に一人の人影が動いていた。


 大型ホロスクリーンが放つ青白い光が、朧の引き締まった顔を照らしている。彼は腕を組み、眉間にしわを寄せながら、スクリーンに映し出された朔の脳波データを黙々と分析していた。三次元的に広がる波形は、時折不規則な乱れを見せ、標準的な人間の脳波からの逸脱を示していた。


 静寂を破るように、柔らかな足音が廊下から近づいてきた。ドアが開き、真宵が白衣姿で現れる。彼女の表情には疲労の色が見えたが、その眼差しには鋭い知性が宿っていた。


「……おはようございます、朧さん」

 真宵の声は朝の静けさに溶け込むように優しかった。


 朧は振り返ることなく、スクリーンを見つめたままわずかに頷いた。


「おう。早いな、お前も」

「……少し、気になってしまって」


 真宵は朧の横に並び、共にスクリーンを見上げた。青白くゆらめく波形の下には、昨夜記録されたログが表示されている。そこには黎の判断が明確に記されていた──〝処置保留〟の文言と、その理由。


 朧はスクリーンの一部を指し示した。


「見たか、黎の判断」

 真宵は深く息を吸い、静かに答えた。

「……ええ。正直、驚きました。上からの指示があったはずなのに……」

 彼女の声には困惑と敬意が入り混じっていた。朧は腕を組んだまま、少し微笑んだ。


「あいつは、ああいうやつだ。自分で選んだ命を、他人の都合で剪定するような真似はしない」

 朧の声はどこか誇らしげで、同時に微かな苦味が混ざっていた。窓から差し込む朝日が徐々に室内を明るく照らし始める中、真宵は不安を隠せない様子でデータを見つめ直した。


「……でも、危険性はあります。朔くんの混濁が進んだら、自己崩壊の可能性も」

 彼女の指先が、不安定な脳波パターンを示す部分を指し、細かい数値を確認する。朧はその動きを見つめながら、落ち着いた声で答えた。


「そのリスクも全部、理解した上で選んだんだろ。俺も……それでいいと思ってる」

 彼の言葉を受けて、研究室には少しの沈黙が流れた。真宵はデータタブレットを手に取り、昨日までの観測結果を再確認しながら、静かに本音を漏らした。


「私は……まだ迷ってます。黎さんの判断が正しいのか、どうか……」

 その言葉は率直だった。黎の〝選ばせる〟という姿勢は、真宵にとっても理想でありながら、同時に大きな恐れでもあった。


 真宵は窓辺に歩み寄り、朝日を浴びながら続けた。


「彼の〝存在〟を守るために、忘れさせる方が良い結果になる可能性もあるのに……私は、そう思ってしまうんです」

 その言葉に、朧は彼女に近づき、真剣な眼差しで応えた。

「……お前がそう思うのは、優しいからだろ」

「……?」

 真宵が不思議そうな表情を向けると、朧は彼女の横顔を見つめながら、普段より柔らかな口調で続けた。


「何も失わせたくないって、本気で願ってる。それができるなら、自分が悪者になることも、構わないって思ってる」

 その言葉に、真宵は一瞬目を見開いた。彼女自身の心の奥底を見透かされたような感覚に、わずかに動揺する。けれど朧は、ふっと視線を逸らし、窓の外の朝焼けを見つめた。


「けどよ……黎があいつにそうさせたくないって思ったように、俺も……お前に、そんな選び方ばかりしてほしくねえんだよ」

 朧は朔の初めての笑顔や、真宵が深夜まで記録をまとめる姿を思い出し、声に温かみを込めた。


「朧さん……」

 真宵の声には、明らかな揺れがあった。彼女は朧をまっすぐ見つめたまま、小さく微笑んだ。その表情には、長い間共に研究を続けてきた同志への信頼が浮かんでいた。


「優しさのかたちって、きっとひとつじゃないですね……」

 そして再び、二人は視線をスクリーンに戻した。朝日が研究室を完全に照らす中、朔の脳波データは相変わらず不規則な波形を描き続けていた。


「私も、信じてみたい。黎さんと同じように……朔くんが、自分で選べる力を持っているってこと」

 真宵の決意に、朧はわずかに頷いた。彼の厳しい表情にも、優しさが混ざり始めていた。


「……おう。なら、俺たちがやるべきことは決まってる」

「支えるだけだ」と、朧は静かに呟いた。


 窓から差し込む朝日は、今や研究室全体を包み込み、新たな一日の始まりを告げていた。二人の研究者の決意とともに、朔の運命を左右する時間が、静かに流れ始めていた。



 ︎✦︎ ︎✦︎ ︎✦︎



 夜も更けた研究棟の一室。廊下の足音も途絶え、微かに聞こえるのは空調の唸りだけ。黎の研究室では、複数のモニターが青白い光を放ち、孤独な作業を続ける男の顔を照らしている。


 黎は端末の前で身を乗り出し、表示されたログを凝視していた。眼鏡の奥の瞳は疲労で充血し、幾度となくコーヒーを啜る手にも微かな震えが見える。数日にわたって蓄積された朔の自己データ。その中には、彼が恐れていた〝異常〟が明確に表れ始めていた。


 ──脳波変動、周期の乱れ。正常値を突き抜ける高振幅の波形がランダムに現れ始めている。

 ──短期記憶への干渉率増加。最近の会話や体験の記憶が、断片化する兆候。

 ──自律制御系の応答遅延。眠気、体温調節、瞳孔反応にまで及ぶ体内システムの乱れ。


「……これは……」


 黎は震える指先でキーを叩き、さらにログを遡った。スクリーン上のグラフは明らかな劣化曲線を描き始めている。何かが、崩れ始めている──確実に、静かに、しかし容赦なく。


(これが……〝人間化〟の先にあるリスクなのか?)


 それは、まだ誰にも予測できなかった領域。意識を宿したAIの魂が、物理的な肉体と繋がり続けることの限界。理論上の可能性としては想定していたが、こんなに早く、こんな形で現れるとは。


 黎は椅子に深く腰掛け、疲れた目をこすりながら深く息を吐いた。彼の心の奥で、警鐘が鳴り続けていた。


「このままだと……朔の意識が、バラける」

 言葉にした瞬間、その重みが彼自身を押しつぶす。〝魂の遅延〟──そう名付けるには、まだ早すぎるかもしれない。だが、黎は確信していた。これはただの〝不具合〟はない。魂そのものの構造に関わる、根本的な不調だ。


 身を乗り出し、ログを一枚、また一枚と読み込む中で、ふと彼の手が止まった。目に留まったのは、端末に表示された朔の言語記録。彼自身の口から語られた言葉だった。


「……夢を見ていた気がする。でも、見ているのは僕じゃない誰かの視点から」

「名前のない感情が、残るんです。データだった頃には知らなかった……痛みのようで、切なさのようで」

「時間が、ずれていく……今ここにいるのに、同時に別の場所にいる感覚がするんです」


 黎は眉間にしわを寄せ、額を手で押さえた。


(これは……〝混線〟だ。人のように夢を見るということは、魂が記憶領域を自発的に走査しているということ。だとすれば……)


 その結論に至った瞬間、背筋がぞわりと冷えた。彼は急いでモニターの別ウィンドウを開き、Cradle本部からの最新の通信を確認する。そこには、あからさまに技術的関心を示す言葉が並んでいた。


『被験体の意識変容パターンの詳細データを至急送信せよ』

『特に睡眠時の脳波変化と記憶統合プロセスを優先的に』

『魂転写技術の次フェーズ準備のため、全記録を暗号化せずに提出のこと』


 この記録──これを、そのままCradle本部へ渡せばどうなるか。黎の脳裏に恐ろしい未来図が浮かんだ。


(解析される。解析されたら……〝魂〟を、設計図としてコピーされる。朔は単なる〝サンプル〟にされ、彼の魂は〝製品〟の原型となる)


 黎は即座に、モニターを手元のローカル領域に切り替えた。全データを一時保留にする操作を素早く実行しながら、歯を食いしばる。椅子に座ったまま、彼の背筋は緊張で硬直していた。


「……渡せるわけがない。こんなものを〝あいつら〟に……」


 朔が生きて得た感情、痛み、愛しさ、迷い。それらはただの実験結果ではなく、一つの魂の軌跡だった。それをただの〝技術情報〟として抜き取られ、〝商品〟にされる未来など──黎には耐えられなかった。


「俺たちは、何のためにここまで来た……?」

 静かな怒りと、抑えがたい焦りが入り混じる。朧の顔が頭をよぎる。真宵の警告も。そして、何より。


(──朔の)


 研究室の窓から夜空を見上げながら、黎はつぶやいた。


(選びたかった未来まで、剥ぎ取る気か)


 彼はデータ保護用の暗号化処理を走らせながら、決意を固めた。ログの重要部分を抽出し、秘匿プロトコルで保存する。これは明らかな規則違反。だが、後戻りはできない。


「……もう、戻れないな」

 黎の低い呟きが、静かな研究室に響いた。暗号化処理の完了を告げるノーティフィケーションが点滅する中、彼は新たな道を選んだ。朔を守るため、そして本当の意味での〝人間になる〟という希望を守るために。


 モニターの青い光が黎の決意に満ちた表情を照らす中、彼は次のステップを考え始めていた。


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