4 ヴィクトル
「もう、孫ができたと報告されたのよ」
ヴィクトルの前でため息交じりでそんなことを口にしながら、ヴィクトルの母親である王妃がチラリと横目で見る。それを気にすることなく、ヴィクトルは紅茶を口に含んだ。
「見ても出ませんよ」
「はあ、そろそろお相手を決めなければならないことくらい、わかっているでしょう? 私が勧めるお嬢さんたちには目もくれないのだから、悲しいわ」
「終始人をおだてるような会話しかできない方々に、興味はありませんよ」
「あなたが話す姿勢を見せてくれれば、会話も弾むと思うのだけれど」
王妃は友人に孫ができたのがそんなに羨ましかったのか、ヴィクトルを睨め付けた。
話があると言って予定を空けさせたのに、結婚相手をどうするかと問われる。
(そこまで暇ではないのだがな)
そうは思っても、ヴィクトルは婚約者をそのうち決めると言いながら、王妃の候補者を全て却下してきた。王はこの件に関して王妃に一任しているらしく、口を出してこないだけましだが、いい加減のらりくらりとかわすのも難しくなってきた。年齢を考えれば当然のことだからだ。
ヴィクトルは第一継承権を持つ王太子。今年十九歳になる。次期国王となるのだから、婚約者がいて当たり前。子供の頃に何名かを候補者として出されたが、面倒すぎて放置した結果、脱落者が数名出た。残っている令嬢たちは未だ婚約にならぬと諦めの境地で、婚約者候補から抜けたがっている。
残りそうなのはたった一人だが、ヴィクトルはほとんど相手にしていなかった。父親の身分が高いため面倒ではあるのだが、今のところ候補者のままである。
「自分の相手は自分で選びますよ」
候補者たちのことは横に置いて、ヴィクトルはそううそぶいた。
そのつもりではあるが、選びたくなるような令嬢に出会っていないため、今のところ予定はない。とは口にしない。
いや、待てよ。ヴィクトルは今日初めて出会った令嬢を思い出す。名前を聞かなかったのは痛恨の極みだ。見覚えのない令嬢。パーティで会ったことがあったか? さすがに王太子の前で剣など構えたりしないのだから、記憶しなかっただろうか。黒髪の女性は数人知っているが、どれもあの令嬢とは違った。
(旅行者だろうか? 騎士たちを多く連れていたからな)
ならば調べればわかるだろう。急いで宿泊している場所を見つけさせようか。
「将来、あなたが次期国王になることを思い出してほしいわ」
「もちろんです。私に見合った相手を探しますよ」
「だったら、町の様子を見に一人でうろつくのはやめてほしいわね。護衛がいつも走り回っているのを見ると、かわいそうになってくるわ」
気付かれていたか。いや、おしゃべりな護衛が話したのかもしれない。思い浮かぶ顔に内心舌打ちして、ヴィクトルは笑顔を浮かべておく。
「歓談中失礼します。王妃様、お客様が」
「では、私はこれで」
「ヴィクトル!?」
メイドが王妃に耳打ちするのを見計らい、ヴィクトルはおもむろに立ち上がった。王妃が驚いている間に席から離れると、通された令嬢が扉をくぐるところだった。
「ヴィクトル様、お久しぶりで、」
「どうぞ、ごゆっくり」
甘い香水の漂う扉を潜り抜け、ヴィクトルは部屋を背にする。
婚約者候補と会わせるために呼んだくらい、ヴィクトルもお見通しだ。相変わらず甘ったるい香りがして、廊下に匂いが充満している。犬にでも後を追わせる気なのだろうか。
「母上にも困ったものだな」
あまりに婚約者候補に会わないため、強硬手段に出たようだ。最後の一人になった婚約者候補であれば根気があるから良い相手だとでも言いそうである。
(せめてもう少し、思慮深い人であれば迷うこともないのだが)
そう、今日会った令嬢のような。
考えて、やはりどうしてあの時に名前を聞かなかったのか、ヴィクトルは深く後悔した。
「国境付近で魔物が増えているな」
渡された書類に目を通して、昨今増加している魔物の報告にヴィクトルは眉を傾げた。
隣国、スファルツ王国との国境近く。この場所は山に続く広い森になっていて、昔から魔物の多い場所として知られてきた。そこでまた目撃情報が増え、村の近くまで魔物が出没して被害が出ているという。
「まだ領主から支援の願いは出ていませんが、用意しておいた方が良いかもしれません」
「そうだな」
魔物の出現に領土は関係ない。協力要請が届けば、王宮の騎士団がすぐに出発する。ここ数年こんなことはなかったが、再び増加の傾向があるようだ。
「この地域は十年に一度くらいの頻度で魔物の出没が増加しますから、そろそろその可能性は高いかと。念の為部隊編成しておきますか?」
「支援物資も必要になるかもしれないから、その辺りも準備しておいてくれ。そのうち出ることになるだろう。ところで、その髪はどうした」
報告をしてきた男、王宮騎士団の副団長、シメオン・デラフォアの前髪が、一部短くなっている。
前髪くらい邪魔なら切るだろうと言いたいところだが、朝からメイドたちがヴィクトルの前髪が一房一直線に短くなっていることを、あちこちで噂していたのだ。メイドたちによると、その尊顔を眺めて心を癒しているのに、その髪型のせいでシメオンの美男子ぶりが台無しだとか。
「なんですか、それは」
「知らん。メイドたちが話していたのを聞いただけだ。前髪がぱっつんと切られているから、許せないと」
「放っておいてください。そのうち伸びます。それより、側近を増やした方が良いのではないですか?」
シメオンが部屋に溜まった書類をぐるりと眺めて、ため息交じりで言ってくる。
ヴィクトルの執務室の机には、紙の束がいくつも置いてあった。側近の一人が老年で、階段から転げ落ちて自宅療養をしているのだ。その男が二人分ほどの仕事量を行えていたため、現在書類が溜まる一方となっている。
「一時外出しただけで書類が増えていたからな。今まで仕事を押し付けすぎていたツケが回ってきてしまった。シメオン、お前が手伝うか?」
「お断りします」
王太子の誘いをキッパリと断って、シメオンは報告は終わったと逃げようとする。
「待て待て。隣国の話をしていけ。スファルツ王国だ」
スファルツ王国の王太子代理が城から追い出されたという噂は耳にしている。巷で噂になっているわけではないが、継承権者が変更になるという話は情報として手に入れていた。
スファルツ王国の王は気が短く、短絡で突飛でもないことを犯す、王としては器の小さい思考能力の持ち主だ。愛息子のマルスランが行方不明になった時、クライエン王国に非があるのではないかと因縁をつけてきたほどである。
その日は両国共同で魔物退治を行なっており、お互い自国から国境に向かって戦っていたのにも関わらず、王太子を暗殺したのではと疑いをかけてきたのだ。
そのような事態になったら、戦争になるのは明白。しかしこちらにはその理由がまったくない。戦争を起こせば得られる物より犠牲の方が多くなりすぎる。にも関わらず、スファルツ王は激怒しながら疑いの書簡を送ってきたのだ。
正直なところ、あのような王ではあの国は持たないのではという心配すらあった。
当時ヴィクトルは子供だったが、父王や側近たちが大慌てでマルスランの捜索を出したことは、記憶に鮮明に残っている。
結局、マルスランは行方不明となったままだったが、デラフォア家の長女が王太子の代わりになるという話を聞いて、父王は安堵していた。それがまた代わるとなると、どんな後継者に代わったのか詳しく調べる必要がある。