26 再会
アンリエットの声が聞こえた気がした。
遠くで呼ぶ声に、返事をしようにも口が開かない。
だが、もしまた会えるのならば、
「……ダン、エダン」
「あん、り……えっと?」
ぼんやりと、視界に入る姿は憂い顔をするアンリエットだ。
エダンの前にいるはずのない彼女が、エダンを呼んでいた。
最後の最後で会えたのか。
「アンリエット」
なにかが込み上げるのを感じて、エダンは手を伸ばした アンリエットのその頬に触れ、髪に触れる。
腕の中に包み込んで、このまま離さなければいいだろうか。エダンはアンリエットを引き寄せると、その肩に、首筋に、顔をうずめ、力強くアンリエットを抱きしめた。
「エダン、もう大丈夫よ」
耳元に声が届いて、エダンはやっとその温もりに気付いた。
「……アンリエット?」
「ええ。私よ。エダン、ずっと眠っていたの。もう目が覚めないのではと思って、」
アンリエットの頬に一筋の涙が流れた。それがぽたりと、エダンの頬に当たる。
どうして、アンリエットが?
状況が飲み込めない。エダンは力を入れていた腕を緩めて、アンリエットの頬の涙を拭った。
どこかの部屋。豪華に整えられた部屋だが、見覚えがない。ベッドに寝転がったまま、アンリエットを抱きしめていたが、アンリエットはエダンの腕の力が抜けると、そっと起き上がる。それにつられるようにエダンも起きあがろうとしたら、頭と胸にひどい激痛が走った。
「うっ、」
「エダン!? 大丈夫!? 一日中眠っていたのよ。起き上がらない方がいいわ。今、お医者様を」
「待て、アンリエット」
エダンは離れようとするアンリエットの腕をとった。アンリエットが離れていくことに不安を覚えたからだ。
アンリエットは涙を拭うと微笑む。いつもと変わらない、緩やかな微笑みをエダンに見せる。
アンリエットが微笑んでいる。エダンの目の前で。
けれど、頭の回転が鈍くて、この状況が理解できなかった。
「一体、何が?」
「声が聞こえて、馬を走らせたの。まさかあなたがこちらにいるとは思わなかったわ。崖から落ちたのよ。風の魔法を使ったのでしょう? 下にあった木々の枝をクッションにして、地面まで落ちたんだわ。普通だったら死んでいた。全身が痛むのではないの? 魔法を使ったとはいえ、あの高さで落ちたのだから、生きているだけで奇跡よ」
その話を聞いて、エダンは自分に何が起きたのか、やっと思い出した。
崖から落ちる時に魔法を使い、勢いを殺して落下したのだ。
けれど風の魔法も万能ではない。落下していく二人分の体重を補えるほど強力ではなく、木の枝で何とか落下速度を抑えた程度だ。エダンも無事では済まないと思っていた。
ただあのまま死ぬなど、考えたくなかった。
「声が、聞こえたのか?」
「空耳だったかも」
アンリエットは静かに笑んだ。久しぶりに会ったアンリエットは、あまりにも儚く笑う。その顔を見て、胸が締め付けられる思いがした。
落下する間際、思い出したのは、アンリエットの顔。咄嗟にアンリエットの名を呼んだ。アンリエットと、叫んだかもしれない。それがアンリエットに届いたなどと。
「あ、」
何と言えばいいのか。
何から話せばいいのか。頭がまだ混乱している。言葉を発せずにいると、アンリエットが先に口を開いた。
「王女様であれば、あなたが体を張って助けたおかげで、ほとんど無傷よ」
王女のことなどどうでもいいのに、そう言われて言葉を失う。
妙な気持ちがエダンの胸をついていた。王女が生きていたのは朗報だ。無傷とあればなおさら。けれど、問うてもいないのにアンリエットから先にセシーリアの話を口にされると、形容しがたい気持ちになった。
「まだ、眠っていた方がいいわ」
「アンリエット?」
「お医者様を呼んでくるから」
「アンリエット!」
離れていこうとするアンリエットの手を握り、どうにかここから去らないように繋ぎ止めようとした。
話したいことが多くあって、けれどそれをどう言葉にしていいのかわからない。
まだ頭が働かないようで、エダンはかろうじて、まだ行くなと呟いた。
アンリエットはエダンの手を払うことなくベッドに腰を掛ける。
「魔物の確認をしていたのでしょう? 王女が話していたわ。無理に山奥へ入っていったせいだと言っていたけれど」
眠っている間に、あの女と話したのか。それだけで胸のつかえが苛立ちに変わる。有る事無い事、口にしたのではなかろうか。案の定、マルスランの娘として討伐に出たら、魔物に襲われて騎士たちが右往左往したせいで、崖から落ちる羽目になったと証言していた。
「――あの女は」
「嘘だとわかっているわ。エダン」
「え?」
「あなたがいて、魔法を使えない女性を前線になど出さないでしょう。おじい様の命令で彼女を連れていたの? 逃げる途中にでも足を滑らせたりした? とにかく彼女は無事だから、安心して。誰も傷付けられたりしない」
王に。アンリエットは口にはせず、それを含んだ。王女に何かあれば、同行した者たち全員が処罰を受ける。それを知っている。だからエダンが身を挺して王女を助けた。エダンであれば王女を危険にさらすような真似はしない。王女か別の誰かの邪魔が入ったのだろう。
それを理解していると、アンリエットはエダンの手を握った。
私たちは理解者だ。長く時間を共にして、王という最大の敵に立ち向かっていた。戦うには強大な相手で、立場を覆すには、多くのことが必要だった。その過程で、アンリエットは離脱せざるを得なかった。
そしてそれを、エダンは止めなかった。
膨れ上がるのは後悔だけ。
アンリエットの顔を久しぶりに見て、今さら気付く。
「マーサに、伝えていた。しばらくどこかに隠れていろと」
言い訳だ。ただの言い訳。そんなこと今さら聞いても嬉しくも何ともないだろう。アンリエットは返事をせず、エダンを見つめた。
「あの女が王女だという証拠が揃ったわけではない」
そんなことを言っても、アンリエットからどんな言葉が返ってくるか、エダンは想像がついていた。王女が本物だろうが偽者だろうが、アンリエットが追い出されたのは事実だ。そして、本物であれば、そんな言葉は無意味である。
「エダン、」
アンリエットの返事は聞きたくないと思った。
どうすれば、戻ってきてくれるのか。そればかりを考えた。けれどいい案など見つからない。
「エダン、私は代理でしかなかったのだと痛感したわ」
アンリエットは代理だ。王太子の代理。王女が現れれば、その代理も終わる。
それはわかっている。エダンもアンリエットも理解している。
(そうじゃない。そんなことが言いたいわけではない)
何と言えばいいのかわからない。エダンの目的はあくまで王配の立場を得ることだった。その立場を得て、王を失墜させることだ。あの王では国は廃れるだけ。あの王が国を潰すだろう。国民は疲弊し、多くの者たちが犠牲になる。愚王は周囲だけでなく、国全てを奈落の底に突き落とすだろう。
そうならないために、あの首を落とさなければならない。
けれど、
「アンリエット、私は」
「あなたには確固たる思いがあるのでしょう。その手伝いができなくてごめんなさい。ずっと言いたかったの」
(なぜ、お前が謝るんだ)
アンリエットはあの時にできなかった別れの挨拶をするつもりだ。
もう二度と会わないとでも言わんばかりに。
体が冷えていくような感じがしてくる。指先に温もりがあるのに、アンリエットの体温を感じていられるのに、もう二度とこの温かさに触れることができなくなるのだと。
「エダン? 大丈夫? 顔色が悪いわ。やっぱりお医者様を」
「アンリエット、待って。待ってくれ」
握られた手が離れそうになって、エダンはすぐに握り返した。
この手が離れるまで、気付かなかった。なんて愚かなのだろう。もっと早く、気付いていれば。
アンリエットがいなくなった時点で、エダンは追いかけるべきだったのだ。
それなのに何もしなかった。まずは王女が本物かどうか証拠を集めるのが先だと考えた。その間、アンリエットがどんな気持ちで国に帰ったか考えもせず。
もっと早く気付くべきだったのだ。王配などにこだわらず、アンリエットと共にいて、王を倒す方法を。
「アンリエット、一度だけでいい。私に機会を」
王女が何者であろうと関係ない。王女の婚約者という立場などいらないから。
「エダン?」
「お前がいいんだ。アンリエット。今さら気付いて、愚かにも程があるが、お前がいいんだ。王女など、王配などはどうでもいい。お前と共にいられないことが、ここまで苦しいとは思わなかったんだ」
だから戻ってきてほしい。
そう言おうとして、口を閉じた。アンリエットがその程度で戻ってくると思うか? そんな問いが頭の中に浮かんだ。アンリエットはもうあの国を捨てたのに。
かろうじて残っているのが、魔法使いたちへの憂い。その中に、エダンは入っていない。
けれど、ここで諦めれば、本当に二度と側にいられることはないだろう。同じ時間を共にして、こうやって触れ合うことも。
エダンはアンリエットの顔を見据えた。
「全てを終わらせたら一度だけ会ってくれ。一度でいい。だから、それまで待ってほしい」
何をとは言わなかった。アンリエットは一瞬呆けた顔をしたが、すぐに唇を噛んで眉間を寄せた。怒っているのか泣いているのか、わからないような顔をした。
ただその顔が、涙を我慢している表情だということは、長年の付き合いで知っていた。




