12 ドロテーア
「ベンディクス令嬢だわ」
声が届いて、ドロテーアはニコリと微笑む。城にいるメイドたちが頬を染めて頭を下げた。
王城ではドロテーアを憧れの目で見る者は多い。
ベンディクス家の長女。眉目秀麗と言われた一人娘。
パーティではいつも主役で、男女関係なくドロテーアを囲んだ。視線が釘付けになる男性たち。それを羨むように見る令嬢もいる。
王妃様からの覚えもめでたく、ヴィクトル王太子殿下の婚約者候補筆頭として、皆から羨みの目で見られていたのに、未だ婚約者候補から脱することができていない。
ガチャン。
花瓶が床に落ちて、花や水が床に散らばった。
「お嬢様、お怪我は」
「ねえ、私はいつまで我慢しなければならないの? 王妃様は私を選んでくださっていたのに、あの女!」
ドロテーアが落ちた花を踏みつけて、金切り声で怒鳴りつけた。メイドがびくりと肩を揺らす。
「はあ、ごめんなさい。少しイライラしてしまったみたい」
鏡に映る自分の姿を見て、ドロテーアは乱れた髪を直した。息を吐き、口元に笑みをたたえて、メイドに振り向く。メイドはその顔を見ても、体を震わせていた。
「一人にしてくれるかしら?」
「は、はい」
逃げるように出ていくメイドが扉をしっかり閉めるのを確認して、ドロテーアは鼻を鳴らした。
「ふんっ。ああ、王妃様まで、どうしてあんなことをおっしゃるの?」
(あとで花に触れた者には注意をしておくと言ったのに)
王妃は庭園の花を処分するつもりだ。どうしてそんなことを言うのか。あの花々は王妃が庭師に命じて植えさせた花なのに。たまに庭園へ散歩に連れてこられて、その話をされた。気に入っている花だが、花粉が多いのだと。けれど触れることがなければ、美しく可憐な花なのだと。
なのに、
『ドレスが汚れてしまってはいけないでしょう? 間違ってそんなことがあれば、かわいそうだわ。アンリエットをもてなしてあげてと言ったけれど、花を愛でるのにドレスを汚してもね』
帰り際、王妃はドロテーアにそんなことを告げたのだ。
(私が命令したと言いたいの? でも、花を持っていたのは私ではないわ)
王妃は、アンリエットのドレスに花粉を付けようとするのに、気付いていたに違いない。
いつから見ていたのだろう。まさか、最初から?
「あの女を任せてくださったのも、私たちが何をするのか試したわけではないわよね?」
王妃は茶会が始まる前に、初めての茶会に参加するアンリエットが萎縮しないように、それとなく面倒を見てくれと頼んできたのだ。幼少の頃に他国へ行ったが、結局戻ってきてしまったため、同世代の友人は少ないだろうからと。
だがそれは建前で、ドロテーアが何をするのか監視していたら?
「今まで、どれだけ我慢してきたと思っているの?」
ドロテーアは爪を噛む。
まだ候補なのだ。婚約者になれていない。ずっとそのまま。どうして、ヴィクトルはドロテーアを選んでくれないのか。
婚約者候補に決まって喜んでいたのも束の間、ヴィクトルは婚約を望んでおらず、結婚相手は自分で決めるため、できるだけ早く辞退するようにと言ってきた。王妃は進めたがっていてもヴィクトルは消極的で、けれど王妃はそれを強要しない。
王妃は場を設けてはくれるが、乗り気のないヴィクトルはどこ吹く風。
『ならば教えてください。どのような女性がお好みなのですか?』
それを問うたこともある。
『王族の心得を理解している人だ』
ドロテーアはベンディクス家の一人娘だ。貴族の令嬢たちを従える力を持っている。王太子妃になるべき者として、令嬢たちを引き付けるために、流行をくまなく確認しドレスやアクセサリーに念を入れ、令嬢たちの興味の中心になるように心がけた。ドロテーアの言うことに間違いはない。そう思われるように、令嬢たちを誘導してきた。誰かの顔色をうかがう必要はない。
王妃はパーティでのドロテーアの人気ぶりを見ている。人心掌握だけでは足りないのだろうか。
ヴィクトルの役に立つために、執務の立候補でもすればいいと言うのか?
(あの部屋には、女性を近付けたりしないのに)
婚約者候補がいるため、執務室に女性を近付けないと思っていたのに。
「どうして、あの女が。デラフォア家の娘だからに違いないのよ。だから王妃様も、あの女をひいきしているんだわ!」
ドロテーアは目の前にあった紅茶のカップを払い落とした。ガチャン、と大仰な音を立てて割れると、ノックの音が聞こえた。
「うるさいぞ。廊下まで響いている」
「お父様」
誰か言い付けたのか。ドロテーアは背筋を伸ばしてニコリと微笑む。その床が水浸しになっていても、それを感じさせないような笑みだ。
父親は床の惨状を冷眼で見遣ったが、何も言わず床を片付けるようにメイドに命じる。
「申し訳ありません。手が滑ってしまい」
「茶会で何があったと? デラフォア家の娘が呼ばれたのだろう」
「いいえ、何もありませんでしたわ。それよりもお父様、あの子が城内をうろついていたのですけれど、なにかご命令でもされたのですか?」
「書庫を使っているだけだろう。あれは頭だけは良いから、学びの邪魔をするな。無視していれば良い」
「ですが、私生児が城に出入りするなど」
「私生児だろうが、使えるのだから良いだろう。お前はまだ婚約者候補のままなのだから、このままではお前のほうが役立たずだろうが」
父親の言葉に、ドロテーアは一瞬笑顔を強張らせた。
「そういえば、お茶会でお話が出たのですけれど、デラフォア家のご令嬢ですが、ヴィクトル様のお手伝いが務まっているのでしょうか? 兄のシメオン様はともかく、妹、女性であるご令嬢にヴィクトル様の執務を行わせるのは、いかがかと思います」
「わかっている。婚約者候補のように見えて、印象が悪いと言うのだろう。政治に口を出す娘がよいのか知らぬが、そのような娘を婚約者として立てるとすれば、お前の立場が終わってしまう。今までどれだけの時間を費やしたと思っているのだ。ポッと出の娘に、その座を明け渡すことは許さないからな」
「もちろんですわ」
「しかし王太子代理か。あの娘は前から邪魔だったからな。追い出されるとは思わなかったが。あちらの王も能がない」
ぽそりと呟く言葉に、ドロテーアは笑顔のまま首を傾げる。
「お父様のお仕事の邪魔をされたのですか?」
「お前が知ることではない。その娘が婚約者にならないように、お前もそれなりの努力をするんだな」
言うだけ言って、父親は部屋を出ていく。側で床を片付けていたメイドは、ドロテーアの睨みにびくりと体を揺らした。
「あなたがお父様を呼んだの?」
「ち、違います! 旦那様がお嬢様にご用があったようです」
「あら、そうなのね。なら、早く片付けてくれるかしら?」
「は、はいっ!」
(忌々しい。どうして私がこんな扱いをされなければならないの?)
邪魔な娘。城をうろつく私生児もうっとうしい。どうしてあんな者たちを放置しなければならないのか。二人ともドロテーアにとって邪魔でしかない。ヴィクトルと婚約するのはドロテーアであるし、ドロテーアの後ろ盾となる家門を継ぐのは、私生児ではない。
それと、気になることが。
(あの女が、お父様の邪魔をした? 王太子代理として? お父様はスファルツ王国で何かしたのかしら?)
隣国に関わることなど、ほとんどないはずなのに。
「ねえ、あなた?」
「はいっ!」
「頼まれてほしいことがあるのだけれど?」
ドロテーアの微笑みに、メイドは青ざめながら顔を引きつらせた。