9−3 思惑
それからすぐに王を説得し、マーサを呼び戻すことができた。しかしマーサがアンリエットのメイドだと知ったセシーリアが、マーサを排除しようとしている。一時は王太子代理の専属メイドとして働いていたマーサを、小間使いのようにして嫌がらせをしているとか。
ヤーコブ・メッツァラがそのように仕向けているのか、それとも他のメイドが立場を奪われまいと、そのようにさせているのか。
(一度忠告しておいた方が良いか)
「声をかけてくれるのよ。いつも綺麗にしてるんですねーって」
「私も言われたわよ。丁寧ですよね。って。平民の暮らしをしていたからか、気軽に声をかけてくださるわよね」
廊下を歩いていると、メイドたちの声が耳に入った。小声で話しているが、隙間から声が漏れている。部屋を掃除しながら世間話をしているのだろう。
最近たるんでいるのは、城内が騒がしいせいだ。どこでも似たような話をしている。
セシーリアが、メイドや騎士たちに声をかける。いつも笑顔で、礼を言ってくれる。そんな内容だ。
接しやすい王太子の娘。気安いところが良いのだと、アンリエットから遠い位置にいる者は、セシーリアを好意的に受け取っている。
アンリエットが礼をしなかったわけではない。それでも平民のように近しい王太子の娘というのは、下働きの者たちから受けが良いのだ。そして、王からの叱責がない。アンリエットは場所を構わず王から叱りを受けていた。王からすれば、アンリエットが目に付いただけで文句を口にしたくなるだけのこと。アンリエットが何か気に障ることをしたわけでもない。間違いを起こしたわけでもない。何もしていないのに、ただ偶然会って、挨拶しただけで、王は嫌味を言う。
周囲はそれをわかっているが、側にいない者たちに事実などわからない。関わりのない者たちからすれば、アンリエットは王太子に代わることのできない、落ちこぼれなのだ。
(子供の頃は慰めていたが)
アンリエットはある日、それが当たり前なのだと思い始めた。そうすると、開き直りが早い。そうであるのならば、それ以上に努力するだけ。周囲の反応で落ち込むことはない。それが普通のことなのだからと。
見返してやるという気持ちではない。あくまで、ならばもっと頑張ろう。というよくわからないポジティブさを持っていた。
だからなのか、エダンには気になることがあった。
「エダン様、お手紙が届いております」
執事が手紙の束を持ってくる。アンリエットとの婚約が長く続いたが、これほどの手紙の束は見たことがなかった。王太子の娘との婚約と聞いて、ハエのようにたかる者たちからのものだろう。
王がアンリエットを捨て、王太子の娘の側にエダンがいることを知り、今度こそ間違いなくエダンに王配の権利が与えられると思っているのだ。今までは王太子代理。アンリエットは仮の立場だった。
エダンは手紙の束を広げて、いらない物を端に避ける。
「届いていないか」
ぽそりと呟いて、エダンは額を押さえた。
来るべき者から、手紙が届いていない。
アンリエットからの手紙が届かない。
(イライラする)
エダンは机の上を指で小突いた。
よこすべき者が、よこさない。
なぜ、アンリエットから手紙が届かないのか。
(私の言葉を何も聞かずに、城を出て行って、全て納得しているのか?)
王太子代理の仕事を放り出して、本当に城を出て行って自国に戻り、何も思わないのか?
アンリエットならば、残した者たちや仕事を気にするはずなのに。どうしているかの連絡もよこさないとは。
こちらから手紙を送るか? そう考えてすぐにそれを打ち消す。手紙を送ったという証拠を残したくない。どちらに転ぶかわからないのに、下手な真似はしたくない。
アンリエットは必要だが、最も必要なものは王配だ。セシーリアがもし本当にマルスランの娘ならば、アンリエットとの繋がりは切らなければならない。エダンの立場は、スファルツ王国を継ぐ者の相手であり、王配になる者。アンリエットかセシーリアかという話ではないのだ。
「それと、クライエン王国ですが、妙な噂があるようです」
「噂? なんの噂だ」
「その、アンリエット様が、王太子の婚約者になるのではという」
「なんだと?」
寝耳に水だ。エダンは眉を吊り上げた。
執事は最近クライエン王国に流れている噂があると後付けして、それがアンリエットとの話のようだと伝えてくる。
「デラフォア家が、アンリエットをすぐに売りに出すとは思えない」
「それはそうなのですが。どうやらアンリエット様は、クライエン王国の王太子の執務を手伝っているようで」
それを聞いて、エダンは額を押さえた。
誰が手引きしたと言いたくなったが、デラフォア家はクライエン王国でも名家だ。その娘が王太子代理を辞めて自国に戻ってきたのならば、普通に考えてもすぐに手を伸ばす。アンリエットの噂は届いているはずだ。兄のシメオンは騎士団で副団長を担っている。王族との関係も良好な家門でもある。アンリエットを城に入るのは当然だった。エダンもそれを憂慮していた。
ただ、デラフォア家とすれば、娘を社交に出す方が先決だろう。少しずつ外に出して社交界に慣れさせると思っていたが、先に王太子の執務を手伝わせるとは。想定していたが、あまりに早すぎる。
それが事実ならば、今以上に連れ戻すのが容易ではなくなる。
「執務を手伝っているから、そのような噂が流れているのだろう。面倒だな」
「そうかもしれませんが、クライエン王国のヴィクトル王太子殿下は、婚約者候補がいても婚約に至っておらず、長い間その席は決まっていないそうです。それなのに、アンリエット様は、すでに王妃との茶会も終えているようでして」
「……なんだと?」
婚約破棄したからと言って、もう新しい婚約者。アンリエットが?
自国に戻ってまだ一月も経っていないのに、次の婚約者?
エダンとの繋がりがなくなった途端に、次の相手など。やけに胸の中がモヤモヤするのを感じた。
(幼い頃からあれだけ助けてやったのに、そんなに早く相手を替えるのか?)
そう考えて、エダンは鼻で笑いそうになって首を振った。
その可能性はないと思い直す。アンリエットはそう簡単に鞍替えするような女ではない。長年付き合ってきて、アンリエットの性格はよく理解しているつもりだ。
そうだ。アンリエットが了承するとは思わない。
だが、王太子がその気なら?
なぜか無性に腹が立つ。
エダンとアンリエットの婚約は、王の後継者となるべき者が替わったと同時、同じようにスライドしただけだ。しかしその娘が偽者ならば、アンリエットに戻る。アンリエットが王太子代理の座を取り戻すことになれば、婚約も元に戻る。
気になるのは、アンリエットは前向きで、できないとわかっていることにいつまでも固執しない性格ということだ。できないとわかっているからこそ、できるための努力を行えば自ずと乗り越えられると信じている。
無理な真似はしない。その頭がある。後回しをしていいものは、後回しに。完全に無理であれば、切り捨てる。
だから、あの王太子代理が長年務まったのである。
(いつまでもクライエン王国にいれば、クライエン王国で行うことが増えるだろう)
そうなれば、アンリエットはこちらに戻ってこない。次の目標を決めてしまうからだ。
戻ってこいと言っても、もう切り捨てたことに頭を悩ませるかわからない。
「早めに、セシーリアの素性を調べなければ。クライエン王国の王子も注視しろ。アンリエットが何をしているのかも、逐一報告を」
セシーリアが偽者の娘なのかどうか調べなければ、アンリエットを迎える理由がない。本物ならば、セシーリアを立てなければならないが、偽者ならばアンリエットは必要だ。アンリエットが先に婚約しないように、手を打たなければならなかった。
「裏切るなんて、許さない」
夫となるべき者は、本来エダンだ。他の男を選ぶなど、許されることではなかった。