1 婚約破棄
「今、なんとおっしゃったのですか?」
アンリエットはスファルツ王国の王である祖父に問いかけた。
「お前とエダン・ベルリオーズの婚約は破棄だ。王太子であるマルスランの娘が見つかった。お前には今まで王太子の代わりとしてその座を許していたが、娘が見つかったのだからお前はもう不要だ。そうなれば婚約も破棄となる」
突然呼び出されて急いで王の下に参れば、突拍子もないことを言われて、アンリエットは呆然とした。
アンリエットの伯父である王太子マルスランは、十年も昔に行方不明となった。
マルスランは結婚もしていなければ子供もいない。マルスランの妹であるアンリエットの母は、隣国クライエン王国の貴族に嫁いでいた。王の実子はその二人だけ。マルスランがいなくなっては、王になる者がいなくなってしまう。王はマルスランを探し続けたが、結局見つからず、選択を迫られて、マルスランの妹の子供を王太子の代理として指名した。それがアンリエットだ。
アンリエットには兄がおり家門を継ぐ予定で、妹のアンリエットは将来どこかの家門に嫁ぐだろう。そうであれば、アンリエットが王太子の代理となり、婿を取れば良い。そんな祖父の提案にアンリエットの両親は猛反対したが、マルスランは見つからないまま。結局アンリエットは八歳でこの国、スファルツ王国にやってきたのである。
そしてマルスランが見つからないまま、アンリエットは幼い頃に婚約者を決められて、十八歳になる今日まで王太子の代理を務めてきたのだ。
それが、マルスランの娘が見つかったため、アンリエットは不要で、婚約破棄とは。
「覚悟はしていたが、マルスランが死んでいたとは。だが、娘がいたことは僥倖だ。ならば、マルスランの娘でもなんでもないお前はもう必要ないだろう。国に帰るといい」
「帰れ、ですか?」
「そうだ。もう不要だからな。お前は元々他国に嫁いだ王女の娘。本来ならば継承させるものなどない。そして、王太子であるマルスランの娘に第一継承権が与えられるのは当然のことだ。お前の継承権を白紙に戻し、見つかったマルスランの娘を王女として迎える。また、お前の婚約者であったエダン・ベルリオーズとの婚約も白紙だ。お前はさっさと国に戻るがいい」
アンリエットは信じられない思いでその言葉を耳にした。
(幼い頃、無理にこの城に連れてこられて、両親に会うことなく自由を奪われたのに、今さら、不要だから帰れ?)
体が震えてくる。婚約はこの城に来て間もなく決められ、エダンとは長い間、時を共にしてきた。将来は結婚するのだと教えられてきたにも関わらず、それも白紙だとは。
「彼は、エダンはなんと言っているのですか?」
「受け入れると言っているに決まっているだろう」
「そんな。彼とは幼い頃に婚約したのですよ?」
「用無しのお前と婚約していても、利がないのだからな」
「利がない……」
「話は終わりだ。荷物をまとめて、今日にもクライエン王国に帰るがいい」
王はきっぱりと言い放ち、アンリエットを虫でも追い払うようにして手を振った。もう見る気もないと、顔を背けたまま。
何を言っても、もう決まったことだ。側で控えていた宰相が首をもたげて、申し訳なさそうにした。
愕然としていてもどうにもならないのだと悟り、アンリエットは静かに頭を下げると、開かれた扉の方へ歩もうとした。
「おお、来たか!」
現れた男女に、王の明るい声が後ろから届く。
整えられた短い銀髪、目元は若干鋭く鼻筋の通った顔。見慣れた顔の婚約者、エダンがゆっくりと歩んで近寄ってくる。その人が、一人の女性をエスコートしていた。
ゆるやかな金髪を背中に流した女性がエダンにぴったりと寄り添って、歩みをそろえて近付いてくる。そうして、アンリエットの隣を、何事もないように通り過ぎた。
皆、前から話を知っていたのか、扉の前に佇む騎士たちも無言のまま、かける言葉もないと下を向く。
「おじい様。お待たせして申し訳ありません。エダン様が迎えに来てくださるとは思わなくて、少しだけお話をしてしまいましたの。こんなに素敵な方とご一緒できて嬉しいですわ」
「そうか。そうか。エダン。この子は私の大切な孫娘だ。慣れないことも多いだろう。彼女を助けてやってくれ」
「もちろんでございます」
エダンが間を空けることなく返答する。
声変わりをして少し低めになった、耳に響く声音。アンリエットがいつも聞いていたエダンの声は淡々として、アンリエットへの未練など感じない。
アンリエットはこわばって動かない足を、なんとか一歩と進めた。二歩、三歩。少しずつ進めた足がどんどん足早になっていく。部屋を出て、廊下を歩きはじめて、アンリエットはとうとう走り出した。
エダンが、婚約者だった人が、当たり前のように別の女性を連れて、王の前までエスコートをする。昨日お茶をして、結婚式が待ちきれないと言った人が。
「ううっ。どうして、エダン」
愛していると言ってくれたのに、嘘だったのか。
彼は、女王という座に座るアンリエットが欲しかっただけだった。
自分の部屋に戻れば、誰もいない。いつもならば騎士がいて、扉を守り、子供の頃から側にいたメイドたちがアンリエットを迎えてくれるのに。
部屋を出て行った時は、みんないたのに。
涙が流れて、嗚咽が漏れる。
「ひどいわ。どうしてこんな仕打ち」
アンリエットが両親や兄から離されて、連れてこられたのが八歳の頃。それからずっと、伯父であるマルスラン王太子の代わりになるために、多くのことを学ばされた。
優秀だったというマルスランは王のお気に入りで、妹であるアンリエットの母も嫌気がさすほど比べられたという。それでもマルスランは人格者で、妹を背に隠しながら王の期待を一身に背負い、王太子として役目を負ってきた。王の仕事を肩代わりするほどで、王だけでなく多くの者たちにも一目置かれていた。
そんなマルスランの代わりにさせるために、八歳のアンリエットに多くを担わせたのだ。
もちろん、アンリエットに身代わりなどできるはずがない。家庭教師を何人もつけ、マナーや教養。学問や政治のあれこれ。子供だろうが関係なく、魔法や剣術まで学ばせた。しかし、王は事あるごとにマルスランと比べ、アンリエットを罵り、どれほど無能であるかを口にした。
親元から離された幼い女の子が、耐えられる状況ではなかった。
そこで助けのようにやってきたのが、エダンだったのだ。
勝手に決められた婚約者。初めは疲弊していて何も考えられなかったが、エダンの優しさに少しずつ惹かれていった。不器用ながら、手ずから摘んだ花を贈ってくれたり、慣れない城の生活の手解きもしてくれたりもした。四つ上ということもあり、兄のような存在だったが、長い時間を過ごし、友人であり大切な婚約者となっていった。
唯一心を癒やされたのが、彼だったのに。
それなのに、エダンはいとも簡単にアンリエットを捨てたのだ。
「すべてが嘘だったの?」
部屋は静まったまま。誰も来る様子はない。涙で目がぼやけてよく見えなかったが、部屋の様子に気づいて、アンリエットは呆れるように鼻で笑った。部屋が、片付けられているのだ。
王と謁見していた間に、アンリエットの大切にしていたエダンからもらった故国の海の絵や、もらったオルゴール。初めてもらったぬいぐるみ。さすがに捨てた方がいいのではと言われても、頑として保管していたのに、それらが全てなくなっている。
そして、ベッドの上に、ぽつりと旅行カバンが置いてあった。
「ふ、あはは。笑っちゃう。おじい様にとって、本当に私は、伯父様の代替品で、他に良い代わりがいれば、簡単に捨てられる物だったのね」
それなのに、両親に、兄に会うこともなく、十年近くもの間我慢をして学び、働いてきたのだ。この国のために。自分の国でもなんでもないのに。
アンリエットの生まれた国は隣国のクライエン王国であって、この国ではない。両親たちは何度も会いたいと手紙をくれていたが、王がそれを許さなかった。会ったのは一度だけ。王妃が亡くなった葬式の日。それも、八年も前になる。
あれからずっと、両親たちに会っていなかった。
バカみたいで、うんざりする。ずっと家族と会えないことを羨んで、そのうち諦めることになったのに。
「でも、もう帰っていいのよ。そうよ、私は帰れるのよ。もう、こんなところで働かなくてもいいんだわ。もう自由ってことじゃない! 女王になるための学びと言いながら、おじい様の仕事もやらなくていいのよ!」
ならば、さっさと帰ろう。
ベッドのカバンに飛びついて、中を確かめる。中に入っていたのは、数日分の着る物とお金、それからメモのような手紙だった。
それは手紙で、メイドのマーサからのものだった。
急いで書いたのだろう。そこには詫びの言葉が記されていて、これしか用意ができなかったこと、王を止めることができなかったこと、どうか元気でいてほしいという言葉が横殴りに綴られていた。
お金は王が用意した物ではないだろう。マーサが用意してくれたに違いない。手持ちのお金を入れてくれたのだ。
「ありがとう、マーサ」
いきなり言われて用意をしたならば、マーサも知らされていなかったのだ。マーサまで裏切ったわけではないことにホッと安堵する。
アンリエットは顔を上げると、カバンを持って飛び出した。
部屋を出ても見送りもない。まるで最初からアンリエットがここに住んでいなかったかのように。
利用されていただけで、簡単に捨てられる存在だった。
「もう二度と、おじい様に会うことなんてないわ」
アンリエットは歩きはじめた。自分の国に戻って、全てをやり直すのだと。