雨好きキノコとジューンブライド
私は雨が好きだ。雨は私の大嫌いなイベントを、悉く台無しにしてくれるから。
「まったく、せっかくの陽太の結婚式だってのになんでこんなに雨が止まないのかしら。きっと美雨さんが名前の通りの雨女なんだわ、ウチに顔を見せに来た時だってやたら派手な傘を持ってきてたし。あぁ嫌だわ、きっとこれから孫が生まれても絶対雨が降るのよ」
しとしとと、静かに降る雨を見つめながら心を落ち着けている私に母はグチグチとそう言い続ける。
よく言うよ、兄が大活躍できる野球の大会や運動会、マラソン大会で雨が降った時は娘である私に「アンタがいるからだ」「アンタが雨女なんだ」なんて私にさんざん文句を言ってたくせに。今日の結婚式で雨が降るのは、大事な息子ちゃんを母から奪った美雨さんのせいだってか?
気持ち悪い。美雨さんが我が家に持ってきた傘は日傘だったし、「ジューンブライドだから」と言って梅雨真っ盛りの十三日の金曜日を挙式の日にしようと言い出したのは兄の方だ。そんなことをまるっと無視して、全て嫁である美雨さんのせいだというぐらいには母の頭は沸いている。もっとも、昔から「娘より息子の方が可愛いって本当よねー」「娘はほっといても大丈夫そうだけど息子は心配になっちゃうわー」と平気で私たち兄妹の前で言うような人間だったから「何を今更」という気持ちもあった。舌打ちしそうになるのを必死に堪え、私はこの日の為に新調したドレスの裾を握る。
実際、兄である陽太は母にとって自慢の息子ではあったと思う。
両親のいい所だけを受け継いで完成した、芸能人のような顔立ち。生まれ持った要領の良さで、勉強はできるし運動神経も悪くない。学校では「クラスの中心人物」と担任に太鼓判を押され、中高と所属した野球部でもムードメーカー的存在だったと聞く。文武両道のイケメン、コミュ力高い人気者、ハイスペックな王子様……そんな兄と比べ、私は常に日陰者として生きてきたような存在だった。
顔は平々凡々、兄と同じ私立中学の受験を目指すも見事に失敗。運動は苦手、むしろ運動会やマラソン大会のように大勢の人間と一緒に体を動かすことが大嫌い。だからと言ってそれを笑いに変えたり、ネタにして笑いに変えられるような要領の良さも持ち合わせていない。「陽菜」という名前とは程遠く、学校行事が大嫌いで前日は密かにてるてる坊主を逆さに吊るすような根暗女。
それが「陽太の妹」として育てられ続けてきた、私という女だ。
「陽太はそんな陽菜を心配して外に連れ出してくれたり、家でも一緒に遊んでくれてたりしたのよ」
美雨さんとの顔合わせの時、母はそう言っていかに陽太が自分の自慢の息子かを力説していたが……そんな母に対し、満更でもない様子を見せる陽太に憂鬱そうな顔をしている美雨さんを私は見逃さなかった。
結婚式会場は湿気でムシムシしていて、参加者の中にはしかめ面をしている人間も少なくない。元気に喚き散らしているのはうちの母親ぐらいだ、反対側の席にいる美雨さんのご両親は「感無量」と言わんばかりに涙ぐんでいるが……
「本日は兄である陽太の結婚式にお集まりいただき、誠にありがとうございます。ご紹介にあずかりました、新郎の妹の陽菜と申します」
司会に促され、壇上に上がった私は頭を下げる。
――こういう、人目のある場所に立つのは苦手だ。
男の人と話すのが苦手で、いつも長袖の服ばかり着ている私。髪を適当なところで切ってばかりいたせいか「キノコ」とあだ名をつけられていた。
否定できるような見た目はしていない、むしろこの暗い性格はまさしくキノコそのものだと思う。だからキノコはキノコらしく、日陰者でいるべきかもしれないが……それでも私は今日、「新郎の妹」としてこの場に立たねばならない。
「兄は私にとって太陽のような人でした。いつも自分の目の前に眩しく、立ち塞がっているような……明るく、熱くて、私をひたすら圧倒する人でした」
ところで太陽は、暑さの厳しいアラブ世界において『冷酷』『非情』という意味も持つそうです。
そう切り出した瞬間、華やいだ会場の風向きがほんの少し変わる。
だが、「結婚式」という浮ついた空気で麻痺した招待客たちはまだ何も察していないようだ。その隙に、と私は畳みかけるようにスピーチを続ける。
「私は昔から、晴れた日が嫌いでした。なぜなら兄は何かにつけて、傘やバッドを振り回し私を殴ることが大好きだったから。周りはみんな、人のいい兄を信じて『ただふざけているだけ』『ちょっと力が入りすぎただけ』と言っていましたが……雨が降っていれば片手が塞がる分、私は多少なりとも暴力から逃れられました」
でも夜は、そうもいかない。
成長するにつれ男らしくなった兄の行動が、エスカレートしていくのに時間はかからなかった。
一つ屋根の下で兄が夜な夜な私に何をしていたか、母は知っていたはずだ。だが、それを母は黙っていた。兄の方が私より可愛いから、私を兄に捧げれば家庭は全て上手くいくから。
そうして我が家の陰湿な部分を隠し、今日という「晴れ舞台」を迎えたわけだが――これから花嫁になる美雨さんまで不幸にする必要はない、と私は思った。
「私はお嫁にいけませんが、美雨さんには未来があります。どうか、私のようにならないでください」
ざわつき、怒号が飛び交い始める客の前で私は躊躇いなくドレスの裾を胸の辺りまで捲り上げる。兄の所業を知らしめる動かぬ証拠を見せつけられ、私を見ていた人々が一斉に悲鳴を上げた。阿鼻叫喚の地獄絵図と化した会場で、母が金切り声を上げる。
あ、兄が憤怒の表情でこちらに近づいてきた。これは気の済むまで私を殴る蹴るしないと満足しない時の顔だな。だけど美雨さんという、心優しく常識的な人間が彼を止めてくれた。
どういうことだ、説明しろと詰め寄る美雨さんは美人で兄のような偽物の太陽とは違う本物の太陽のような人だ。
だから今日という日を台無しにしてしまったのは気が引けるが大勢の前で、籍を入れる前に全てを暴露しないときっと美雨さんは逃げられなかっただろう。
大丈夫、美雨さんならきっと素敵な人がすぐ見つかる。今度こそ本当に、幸せな六月の花嫁になれるはずだから。
地元を離れ遠い地で就職することを決めた私は、土日には今の家を引き払う予定だ。
せっかく始めた一人暮らしも、「妹を心配する兄」に騙された人々のせいでめちゃくちゃにされてしまった。だから私がこれからどこに行くつもりなのか、これからどうやって生きていくつもりかは誰にも言っていない。知っているのは私の旅立ちを祝福してくれる、大好きな雨だけだ。旅立った先は今より苛烈な環境が待っていて、キノコの私は干しシイタケになってしまうかもしれない。
だけど――それでも私は、このまま人生を終えるなんてごめんだと思った。
蒸し暑い空気の中を走り抜け、私は会場の外に出る。外では相変わらず、しとしとと雨が降り続けていた。その希望のシャワーを浴びながら私は、それでも笑いながら新たな人生の一歩を踏み出した。