失恋と真っ白な原稿
それはとある日の事だった。
インターホンが軽やかな音を奏でる。
トイレに行こうと立ち上がろうとしていたところを雫さんに介助されている最中であった。
「………………やば」
インターホンのモニターを見て雫さんは小さく声を漏らす。
誰だろう? 遠目からは女性だということしか判別出来ないが。
「……はい」
「先生!! 早く開けてください!!」
応答するなり、いきなりな剣幕でまくし立てる声。声からしてやはり女性だろう。
言われるがままオートロックを解除。数分後には改めてインターホンが鳴る。
玄関まで鍵を開けに行こうとする雫さんの顔は、非常にバツが悪そうだった。
「…………っ……」
「………るんですか!? …………ですよ!?」
言い争う声。なんだ、大丈夫なのか?
声はどんどんと近付いてくる。そう思うのと同時に玄関へと続く扉が開く。
苛立つように頭を掻きむしる雫さん、その後ろからメガネをかけたお団子ヘアの女性が現れた。
いかにもキャリアウーマンと言ったスーツに身を包み、雫さんに詰め寄ろうとして……俺に気がついた。
「…………」
「…………」
お互い無言でペコリと会釈。
女性は改めて雫さんへと向き合う。
「どの程度出来たか見せてください」
「…………ほら」
「……うわあ!? 驚きの白さ! パソコンに漂白剤でもぶっかけたんですか!? それとも夜な夜な怪盗が現れてパソコンを新しいのに交換していったんですか!?」
「お、それいいな。最近起動がぎこちない気がして……」
「先生!!」
「うるせえなあ……」
先生、と呼ぶからには小説関係の人なんだろうか。
メガネの奥の目を吊り上げて、パソコンと雫さんを交互に見やる。
「ほらジロー、トイレ行くんだろ」
「え、このタイミングで?」
もうちょっと違うタイミングなかったかな?
しかし俺の水栓は最早決壊寸前。大の大人も裸足で逃げ出す惨状を作りかねない。
雫さんの肩を借りて、いざトイレへ。
「……え、ちょ、先生?」
二人で揃ってトイレに向かうその様子を、目を見開いて見送る女性。
やっぱそうだよな、当然の如くそうされてるから麻痺していってるけど、おかしいんだよな。
そしてトイレに到着。
中に入ると勝手に点灯するライト。これ地味にびっくりしたよね初見。
俺が先に入り、ズボンを履いたまま便座に尻を向ける。
すると、雫さんが両側の腰を掴み――――ずり下ろした。
「はあ!?」
女性が声を上げる。新鮮な反応に俺の胸中は凄く満たされていく。
満たしてどうするんだという話ではあるのだが。
「じゃ、終わったら呼べよ」
頷くと同時にドアが閉まる。
自分でパンツを脱いで……。
「な……な、な……何してるんですか先生!?」
「メールで言っただろ、あたしの所為で怪我したやつがいるから、そいつの手助けするって」
「トイレでズボンを脱がすとか手助けの範疇越えてません!? 付き合ってるんですか!?」
「…………付き合ってはないけど」
「おかしい! ならおかしい! 絶対おかしい!」
………………あのお。
その話、トイレから離れてしてもらえませんかね……?
居心地の悪さにより、出づらい俺だった。
………………
…………
……
女性の正体はどうやら編集さんのようだった。
俺の介護の所為で一向に進んでいない執筆活動を確認しに来たようだが、あまりの進捗の無さに目玉を飛び出していた。
無論比喩的表現である。
そんな揉め事を耳に入れながら、俺は大学の講義の内容を纏めていく。
「……あの人もあの人でマイペース過ぎませんか!?」
「楽でいいだろ」
「そういう問題じゃなくて!!」
編集さん、来てからずっと怒鳴ってる気がするなあ。
喉痛めないのかな、と心の中で軽く心配していると。
「……げほっ、げほっ」
むせていた。やっぱしんどいよな。
俺は雫さんにアイコンタクトを試みる。
あ、俺の視線に気付いたぞ。
彼女に、水を、あげろ。
目線とまばたきで信号を送る。
考える仕草は一瞬、すぐに瞳を輝かせて冷蔵庫へと向かった。
おお、やれば出来るもんだ。伝わるとは思ってなかったのに。
雫さんが冷蔵庫から取り出したのは…………ケーキ屋の箱?
「おやつの時間だよな」
…………ちげえ!!
一ミリも伝わっていなかった。
「食べてくよな?」
そう声を掛けたのは編集さんに対して。
「正直、ケーキより原稿が欲しいんですが……」
「出来てないものを出すのは無理だ」
手際よく三つの皿にケーキを乗せ、お盆に乗せる。
ペットボトルの緑茶をコップに注いで、それもお盆に。
粗野な口調と普段の暴力的なスタンスとまったく異なる、落ち着いた姿勢で動くその姿はまるで何処かの貴族令嬢のよう。
「ほい、食え」
ただし口は悪かった。
俺の隣に雫さんが座り、向かい合うように編集さんが座る。
雫さんはフォークを手に取り、俺のケーキを切る。
「あーん」
そして俺の口元に持ってきた。
「だからおかしい!!」
ダァンと机を叩く音。
ビックリして落とす前に口にいれることに成功した。
「距離感!!」
距離? 確かにほぼ密着状態ではある。
だがそれがどうしたというのか、手助けする以上、しょうがない距離では?
「バグ!? この空間貞操観念バグってるの!? クラッカーが部屋ハッキングした!?」
「どうしたんですかあの人」
「さあ。……ほらジロー、あーん」
言われるがままに口を開く。
そういえば数日前までは『口開けろやコラ』だった気がするんだけど。
いつの間にか変わってるな。俺からすれば口を開く行為自体は一緒だからなんでもいいんだけど。
「美味いか?」
「美味しいです」
手厚いもてなし。
肥満待ったなしの完璧な衣食住に俺の芯はどんどんとふやけていく。
「先生! 本当に付き合ってないんですよね?」
「だから付き合ってねえって。こいつ彼女いるし」
「彼女持ちにそんな密着するとかどうかしてるんじゃないですか!?」
「……でも、こうしないと手助けが出来ないしな」
その言い方だと、まるで言い訳のように使ってる感じに聞こえてしまうけれども。
「付き合ってないのはわかりました。じゃあ質問を変えます」
メガネをクイッと上げた指を、俺に突きつける。
何故か彼女のメガネが光った気がした。部屋の電気が反射しただけだった。
「この人のこと、好きでもなんでもないんですよね?」
「…………………………………………………………」
なっが。
あまりにも長い沈黙に、編集さんは大きくため息を吐いた。
「…………はあああ、彼女持ちっていうのを、忘れないでくださいよ」
「……忘れるわけ無いだろ」
ショートケーキを一口で口の中に放り込み、編集さんは立ち上がる。
「あの」
思わず呼び止める。
「それ、どうやったんですか」
「…………貴方は、そんなしょうもないことに興味を示す前に、今の空気がおかしいと考えなさい」
何故か説教された。
「帰ります。ここで待っていても進展は無さそうなので。ですが先生、伸ばせても一週間ですからね」
「ああ、お疲れー」
手をひらひらと振って、立ち上がることなく見送る雫さん。
玄関のドアが閉まる音。
「ほらジロー、あーん」
「……あーん」
おかしいと気付くのはもう少し後のようだ。
――――――――――
「ジロー、今日こそ風呂に入るぞ」
くっ、ついにこの日が来てしまったか。
何日か体を拭いて誤魔化してきたが、流石にもう限界と見える。
しかし全裸を見せるのだけはイヤだ、その一線は越えてはいけない。
「ほいほいっと」
いつの間にか上は脱がされ、俺の右手のギプスにはビニール袋が巻かれている。
なんという早業……! この俺が気付かないとは!
着ていたものが脱がされて気付かないとかどうかしてる。
足首にもビニールが巻かれ、残すは下半身のみ。
「よし、行くぞ」
「ま……待って!!」
まるで生娘のような引き止め方。
「せ……せめて海パンを用意して欲しい! 無いなら俺は一人で入る!」
そしてそんなものは存在しない。俺の海パンはアパートと共に燃え尽きた。
つまり、これで俺の風呂の介護は出来ないということになる。
風呂には入りたい。だが人に裸を見られるのは御免被る。俺が裸を見られている所を実況して、一体誰が喜ぶというのか。
「これでいいか?」
持ってきたのは紺色のトランクスより大きめなパンツのようなもの。
要するに海パンである。
「な、なんで……!?」
「こんなこともあろうかと、ってな」
どんなことがあると思ってたんだ!?
「せめて一人で着替えさせてくれ!」
「それは元からそのつもりだ。お前の貧相なモノなんて見たくもねえ」
「………………」
お互いに要望は合致した。だというのになんだろうか、この敗北感は。
「履いたか? じゃあ行くぞ」
ああ、もう逃げられない。
これから俺は体を動かせないのを良いことに、全身を泡まみれにされてツヤピカにされるのね……っ!!
次回、ジローの泡踊り。
踊りません。
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