かわうそ(地獄の牛鬼考)
小学6年生の夏だった。
ホラーブームなのだろうか、小学生はかならず怪談話がすきなのだろうか、それはわからない。
有名な怪談話に地獄の牛鬼というものがある。
かわうそが関係する誰も話知らない話。最も怖い話、怖すぎて誰も話さない、あるいは死んでしまうため知っている人もいないという話だ。
石川県の小松市、親戚の家にいった時の話だった。その家には年の近い子もおらず早く帰りたい。
私の生まれは山の中だったがその家は森の中にあった。私は退屈さと子供特有の危機感のなさから森の中に入る。楽しいものではないとはいえ、家があるというのは心に余裕と油断を生む。
そもそも知らない場所の森になど、自らの帰る家、すぐ逃げ込める場がなければ入らない。
今ならわかるが古い森ではない。原生林ではなかった。それでも戦後の新しい森でもない。私は1人森に入る。
家にいるよりは多少涼しかったように記憶している。
子供ながらに物知り顔で、「自然があると涼しい」というような事をひとり呟いた気がするが定かではない。
森の中で小川を見つけた。魚などはいるはずもない浅く狭い川だった。生物の知識など持ち合わせてはいないが、さらに小さなころ、キャンプでタニシを捕まえた思い出を思い出し川をのぞき込んでいた。
その時私は見てはいけないものを見た。
私は顔をあげる。木々の隙間、ちょうど道のように木々の隙間が連なった場所だった。
牛車にのる人間大のカワウソのようなもの。それに続く顔を隠した者たちの列が続く。同じようにカワウソなのだろうか。
私は立ち尽くす。気づかれてはいけない。音を立ててはいけない。そう思い見つめる。
地獄があらわれたのだろうか、牛車を引くものは青白い顔をした人間だった。一目で死者とわかる。
30代程度に見えるが、顔色が悪くわからない。
牛車など本当は見たことがない。ただ一人の死者がカワウソののる大きな車を首でひいていた。
人間の力ではなかなか進まない。首は折れ曲がる。それでも操られたようにひき続ける。
牛車は進まない。
ついには首が落ちる。まだ形をたもっていたその顔はおちるに従い腐っていく。それに合わせる様に新たな首が生えている。牛車はようやく1歩進むことができる。既に腐りはてた頭は容易に踏みつぶされる。その時踏みつぶされる首と私は目が合ってしまう。
そうして私はきずいた。牛車を引く死者は私だった。私はそのまま気を失う。
目を覚ますと親戚の家で寝かされていた。多少涼しいからと油断していたのだろうか熱中症だった。
私の見たものは熱中症による幻だったのだろうか。
私は20年誰にもこの話をできなかった。
私はひょっとしたら地獄に落ちる人間だと知られたくなかった。今現在までに地獄に落ちるような大きな罪を犯したという記憶はない。小さな罪もあれ以来無意識に避けているように思う。それでもこれから何かを起こすかもわからない。
地獄の牛鬼とは案外こういう話だったのではなかろうか。
運命が変わったのかもわからない。やはり熱中症による悪夢というのが一番打倒にも思える。
ただ今の私は私のその時に見た青白い顔に似ていきいることは気がかりだった。