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短編

波瀾万丈人生に慣れた姫君は順調な今世を信じきれない

作者: 日室千種

*すべてフィクションです*

 カチェリーナは、階を一番上まで登ったところで、促されて、静かに後ろを振り返った。

 光を溶かし込んだ緑柱石のような目に、よく晴れた空と、凪いだ海が遠く映った。折り重なって広がる農園、灰色がかった木々の森、遠くの小高い丘には山羊の群れ、そして景色を斜めに横切る、白銀に煌めく河の流れ。

 最も空高く聳える建物は、遷都したばかりの帝都の中心、皇宮内の執政宮に備え付けられた鐘楼だ。その周囲には未だ建築途中の建造物が目立つが、その周囲を取り囲む、居住区や商業区には人が溢れ、すでに朝から祝いの旗があちこちに揚がっていた。


 帝都から、河の流れがもう一本増えたような煌めく道がこちらへと伸び、階の下まで続いている。今日のために、砕いて磨いた水晶を撒いたのだと聞いた。

 沿道には、着飾って花を抱えた大勢の民。来る道でも警備の兵たちを押し退ける勢いで、大声で祝ってくれた。帝都から今も人の波がこちらへと向かっているのが見えるのは、これから行われる式の後、カチェリーナたちが帝都へ戻るのを見守るためだろう。


「見える限りすべての土地と海、そして人が、帝国だ。君が将来私と共に背負ってくれる国だ」

 カチェリーナは、隣に立つ男の言葉に華奢な体を震わせた。

「怖い?」

「はい、少し」

「心配いらない、二人なら。それに私の力の及ぶ限り、君の不安を取り除くと約束しよう」

 真摯な言葉だ。

 カチェリーナは、そっと頷いて、隣を見上げた。彼の言葉が心からのものだと知っている。彼がその言葉にふさわしい力を持つことも。

 けれど。


 今見下ろしている帝都から、もし煙が立ち上り、炎が渦巻いたなら。

 海に黒点が現れ、見る間に軍船の群れとなって襲撃してきたなら。

 私の方が皇太子妃に相応しい、と叫ぶ女に今突き飛ばされたら。

 ……そんなありとあらゆる荒唐無稽な負の妄想を抱える女だとわかって、捨てられたら。


 この記念すべき祝いの日にまで、カチェリーナの胃は重たく鈍い熱を持った。

 けれどすぐさま、痛みを意識から切り離し、笑顔を浮かべる。結婚の日にふさわしい、とっておきの笑顔だ。

 一度だけ、きゅっと手を握られた。

 それから、隣で男が手を挙げた。階の下に押し寄せた人々が、わあ、と歓声を上げた。



…+*+..+*+..+*+..+*+..+*+…



 あのう、失礼いたします。みなさんごきげんよう。

 わたくし、カチェリーナと申します。

 突然申し訳ないのですけれど、転生、というものに造詣の深いと聞くみなさまに、ご相談したいことがあるのです。

 まだ今ならこの部屋にわたくしひとり。誰も聞く者はおりません。今のうちに、どうか、お知恵を拝借させてくださいませ。


 そうですわね。まずは、わたくしのことを少しお話ししたほうがいいですわね。

 名は、申し上げましたわね。カチェリーナと申します。

 髪は栗色でありきたりですが、目は緑柱石のようだと誉めていただくことがあります。お顔の造作はあまり考えたことがないけれど、醜くはないのではないかしら。同世代の方より少し細身なことは少し気にしております。母や祖母を見る限り、まだ成長は期待できますわ。


 わたくしの住むのはバビルンという国です。

 領土拡大の意欲が振り切れた好戦的な(ちょっとやばい)為政者が多く、血生臭い歴史を繰り返してきた国ですのよ。特に先代の王は、膨大な戦費をかけて西へ東へと遠征を重ね、数ある国を滅ぼして軒並み属州とし、一大帝国を打ち立てて、その初代皇帝を名乗られました。

 二年ほど前のことですわ。


 いやなものです、戦争って。守るためならまだしも、どうして外へ戦争をしにいくのでしょう。男のかたにとっては、出世の糸口なのでしょうけれど。

 命と、お金がかかるのですよ。


 けれど幸いと言っていいものか、もともと穀物の実り豊かな土地が多い恵まれた国ですから、戦いに赴くことのない民は、どばどばと出ていく戦費に気がつかぬまま、かろうじて日々生き延びることはできておりました。外征が終わっても、属州の統治には莫大な費用がかかるのですけれど。


 わたくしが生まれたウェッテ家も、国内で有数の穀倉地帯を所領のひとつとして持ち、その土地アンブロシーを治める爵位を名乗っております。今の当主は父ですわ。ですからわたくしは、伯爵令嬢、いえ、正式に名乗るのであれば、アンブロシー伯爵ウェッテ卿の息女、だったのです。


 ええ、だったのです。

 今日、結婚して、カチェリーナ・バビルンになりましたの。


 そのとおり、夫は、王族です。あ、今は帝室と言うべきかしら。でも、帝王の地位をバビルン王家の者が今後も継ぐかどうかわかりませんものね。バビルン王家、と言っておきましょう。バビルン王家の者は、国の名を名乗るのです。


 夫はバビルン王家の直系嫡子で、レオニード・バビルンとおっしゃいます。バビルンが帝国となった際に、お世継ぎとして指名を受けられましたので、皇太子でいらっしゃいますわ。

 あれは何度思い出しても素晴らしい皇太子任命式でした。バビルン王家の男子は黒髪が多く出るのですが、レオニードも少しうねりのある黒髪に黒瑪瑙(オニキス)の目をしております。典礼用の黄金の鎧と深い赤のマントは、精悍で凛々しい彼の魅力を大いに高め、最後の戦いで初陣を済ませたばかりの皇太子に、若き獅子の如き威厳を与えておりました。


 二年経ち、今や彼は名実ともに帝国軍部を統括し、下手をすれば皇帝陛下を凌ぐ権力をお持ちの皇太子殿下となられました。

 わたくしは、今日、彼の妻となり、皇太子妃になったわけです。


 レオニードとは幼い時から交流があり、子どもらしく文通や、身内の絵画鑑賞の会や音楽会などで交流を深め、年頃になってからは贈り物を手渡しし合ったり、互いの衣装を見立て合ったり、野外観劇に出かけたり、お互いにお互いしか見えない状態で、そのまま結婚まで、順風満帆に参りましたの。

 もちろん、喧嘩らしきものもいたしましたけれど。

 なんとなくわかるのです。お互いに相手を一番に思っている、と。ですので、喧嘩も長くて数日。可愛らしくも初々しい恋の、素敵なスパイスとなりました。


 裕福で愛に満ちた家庭で育ち、相思相愛の婚約者とお互いを慈しみ合い、戦争ばかりしていた国も帝国となった機に内政へと重心を移しつつあり、わたくしの幸福は、翳りを帯びる気配すらなく。


 今日の結婚式も、それはもう、帝国の威信をかけた素晴らしいものでした。

 式典は、帝都から丘を登ったところに新たに建てられた、カトレ教の大聖堂で行われました。バビルン王家は信徒ではありませんが、バビルンは国教としてカトレ教を保護しておりますので、大聖堂で結婚式を行うのが伝統なのです。


 大聖堂は、巨大なドームとアーチの多用が特徴的でしたわ。さらに今日は、堂内に蜜蝋燭を贅沢に並べて、天井や壁の金地の象嵌装飾の細部まで明るく照らし出されており、どこを見ても綺羅綺羅しいばかり。さらにはその光を法衣が集めて照り返すので、司祭たちが文字通り一番輝いていましたわ。目が潰れそうでしたが、おかげで、結婚証明書に指輪の印章を捺す時に困りませんでした。


 笑顔を浮かべるふりをして、目を細めて眩しさをやり過ごす技を教えてくれたのは、レオニードです。皇太子夫妻が満面の笑顔だったと、列席者にたいへん好評価だったようですわ。よかったですわね。


 結婚式の後は、六頭引きの黄金の馬車で、大聖堂のある丘から帝都へ、そして帝都の中をぐるぐると、二時間かけてお披露目に練り歩いたのです。そこで、大聖堂には入れなかった者たちからも、直接言祝ぎを受けることができましたのよ。


 国民も、家臣たちも、皆が笑顔で祝福をくれました。意外に思われる方も多いかもしれませんが、レオニードは穏健思考ですのでね。彼がわたくしの実家を通して豊かな穀倉地帯を押さえ、地位を盤石にできれば、今後数十年の穏やかな治世が約束されるのです。

 これまで戦争戦争で息をつく間もなくて、さすがの戦闘民族も少し疲れているというだけかもしれませんが。それでもわたくしたちの結婚に、この国の豊かな未来がかかるものと、責任を感じずにはおられません。

 皇帝陛下は、次はどこぞを攻めようと、時折思いついたようにおっしゃるようですが。このところ、起きていらしても夢の中のご様子ですので、実現することはないでしょう。


 青空の厳しい日差しの中、鎧かと錯覚するほどに重量のある総刺繍総キルトのドレスで手を振る。軽い拷問です。けれど、伝統とあらば、勝手に拒否するわけにもいきません。大汗をかきながらも、やり遂げました。振り返れば、命の瀬戸際だったかもしれません。

 あの汗まみれの衣装は、次はどなたが着るのでしょうね……。


 こほん。

 ええ、わかっております。かなり余談でしたわ。

 許してくださいませ。それだけ順調、むしろ快調に人生を送ってきたわたくしも、少し緊張をしているのです。

 なにしろ、今いる部屋は、皇太子宮で最も高貴な寝室です。


 あ、バビルン王家が帝国を建て、その帝国名をバビルニア帝国としたのは申し上げましたかしら。それに伴い、遷都も計画されまして。ともかく、まず新たな宮殿が必要だと、それはもう急いで建造を進めたのです。執政宮と本宮が完成して一年前に遷都いたしました。その半年後に皇太子宮も完成しましたが、他の宮はまだ土台段階ですの。


 ええと、なんでしたっけ。

 そう、寝室……。

 お察しの通り、わたくしとレオニードは、恋にとっぷりと浸り、ふたりで同じ甘い蜜を楽しみながらも、そういう関係には至っていないのです。

 レオニードがあまりに手を出さないので、両親にまで心配されたりして、ちょっとあれは、勘弁してほしい口出しですわね。


 口づけはしましたわ。

 でも、あとは軽い触れ合いです。手を握ったり、頬を撫でたり、耳に触れたり。鼻を齧ったり、うなじを噛んだり、二の腕を吸われたり、そのくらいです。

 ……普通なのですよね? レオニードがそう言って……。そ、そうですわよね。よかったですわ。


 でも、ご相談したいのは、そのことではないのです。

 実は……。


「カチェ」

「きゃあっ」


 いつの間にか寝室に入ってきていたらしいレオニードが、つむじにむかって呼び掛けてきました。

 驚きます。ひゅっと身を細くして振り仰ぐと、レオニードはその精悍な頬を緩め、とろけるような笑みを浮かべました。

 その、その、ぱっと見たところはベリーのような爽やかな甘い表情なのに、なんとなく、色だけ似たレアステーキの肉汁のような気配がするのは、何故でしょう。


「カチェ、緊張してるね」

「ふ、ふへ」


 緊張、というか、これって恐怖に近いのではないかしら。

 レオニードがわたくしを呼ぶ時、カとチェの間に、ほんの少し、間があくのです。その呼び方を聞くと、いつも体の力が抜けてしまうのですけれど、今日はむしろ、震えてますもの、わたくし。


 ああ、やっぱり怖い気がします。未だかつて、レオニードに対して抱いたことのない気持ち。心臓が破れそう。というか、心臓を食いちぎられそう。でも、おかしなことに、わたくし、逃げる気にはならないのです。


 これ、レオニードが穏健派のふりをして、根っこのところは戦闘民族だったということでしょうか。あまり想像はできませんけれど、レオニードは正真正銘戦士でもあるのですから。

 でも初陣のころは、わたくしより背が低くて、心配で心配で、わたくし見送りで泣いてしまって。今でも、歴戦の軍人の皆様に比べると細く見えるのですもの。未婚の娘は模擬戦など見学できませんので、とてもお強いという噂も、実は半信半疑なのです。


 ……え、ええ? えええ??

 こ、これはレオニードなのですわよね。腕も肩も胸も、筋肉で覆われていて、わたくしの何倍もあるように思うのですけれど。確かにお会いする時は長衣が多かったですけれど。でもおかしいですわ。思わず押し返した肩が、固くて、熱い。え、中に何か入ってません? 入ってますわよね。肩だけではなくて、腕にも、ほら、胸にも。


「そのまましばらく、混乱していていいよ。僕も余裕がないからね」


 すきだよあいしてる、と夫になった人は言って、わたくしはそのまま、嵐に巻き込まれたのでした。

 と言っても、まあ、何のおかしなことでもなく、仲の良い夫婦が一緒に寝ただけのこと。言ってみればそれだけのこと。けれど、ええ、たくさんのことがありましたとも。

 夫は朝もわたくしにまとわりつき、朝食を手ずから食べさせ、甲斐甲斐しく起きたり立ったりの介助をして、最後に何故かもう一度、わたくしを体力の限界まで追いやったあげくに、ご機嫌よろしく執務に出かけたようですわ。

 わたくしは、昼もとうに過ぎた時刻に侍女に起こされ、今夜のために、とあまり見たことのない栄養価の高い食物とやらを勧められました。

 少し夫が恨めしくなりますけれど、おおむね、幸せ絶頂の新妻という感じではないでしょうか。




 ふう……、ご相談したいと申したのはわたくしですのに、昨夜は申し訳ございませんでした。

 もう、率直に申します。とても、つらいのですわ。

 今体が思うように動かないことではありません。愛されすぎてつらい、などという勘違い発言でもありませんわよ。

 この、順風満帆ライフ。いつ終わりがくるのかと考えてしまうのが、つらいのです。


 実は、わたくし、前世があるのです。


 まあ驚かれませんのね。そうですわよね、そもそも転生に詳しい方にご相談しているのですもの。

 ただ、わたくしの場合、なにひとつ今世に活かされていない前世ですけれどね。

 前世のわたしはどこぞの王国の姫だったのですけれど。それはもう、それはもう、波瀾万丈大波小波、何度死んだと思ったか分からないほどの荒波をくぐり抜けて、七転び八起き、最後の最後の、そのまた最後に、ようやく幸せを掴み取ったのでした。

 そういえば、結婚はしなかったのかしら。男性との巡り合わせが悪かったのかしら。その辺りは一切記憶がございませんわね。


 ともかく、おぎゃあ、と泣いて、あら、生まれ変わったわね、と悟った十六年前のあの日から、今世はいかなる試練が来るや、と気合を入れいたのですけれど。在ったのは穏やかで幸せでしかない日々。

 いつか不幸が、どんでん返しがやってくる。

 それに備えて再どんでん返しの準備をしていなければ落ち着かない。そう思っていろいろ行動をすればするほど、先見の明がある賢女、と世に評されて、よけいに良い風がびゅうびゅう吹いて、もはや幸せチートでぶっちぎり状態になってしまいましたの。


 光が強ければ影も濃い。けれどあるべき影が何もないと。

 灯台下暗しと申します。怖い言葉ではありませんこと?知らぬ間に足元に深い穴が空いているのではないかと、気がつけばいつも恐ろしい妄想ばかりしてしまって。


 実家が没落するのではないか、父が悪事に手を染めていて、ある日露見するのではないか。

 盗賊や政敵に襲われるのではないか、天変地異が起こるのではないか。

 レオニードが心変わりするのではないか、親しい人が皆突然そっぽを向くのではないか。

 病を得るのではないか、陥れられるのではないか、事故に遭うのではないか。

 戦争が激化して国が衰退するのではないか、周辺国が同盟を組んで一挙に攻めてくるのではないか。

 果ては、買った壺が呪われているのではないか、ある日死神が現れて国が死に絶える疫を撒くのではないか。


 とまあ、ずっと落ち着くことができず怯えて疑って。いつもシクシクと、胃が痛んでおりましたの。

 もう、疑うことにも疲れて参りました。

 それに、こんなにマイナス思考に振り回される女は、レオニードに呆れられるかもしれません。暗いですもの。薄暗い!

 それで、どうしたらこの転生前の人生の影を、今世の人生から払拭できるか、そうみなさまにお尋ねしたかったのです。




 けれど……。

 実はわたくしの不安は、レオニードには筒抜けだったようで。

 昨夜、仔細は記憶が朧なのですけれど、それはもう、なんだか意地悪をされて、わたくし、ぺろっとしゃべってしまったようですの。

 レオニードの答えは、変わりませんでした。

 悪いことばかり考える根暗だと疎まれる様子もなく、話してくれて嬉しいと、不安を引き受けてあげると、抱き締めてくれましたの。

 わたくしの胃は、かつてない安寧の訪れに、一気に沈静化いたしました。完全にストレスのせいでしたのね……。



 これほどわたくしを愛してくれるレオニードとの結婚生活が始まったのです。

 わたくし、決めました。

 前世は前世。今世は今世。今世のこの順調ぶりを、不安がるよりも堪能すべし。と。

 とても晴れやかな気持ちですわ。


 ご相談をお願いしましたのに、わたくし一人で決めてしまい、申し訳ございません。

 でもわたくしが決意できましたのも、みなさまにお話しする機会があってこそ。みなさま、わたくしのお話を聞いてくださって、ありがとう。わたくし、存分に今を生きますわね。



…+*+..+*+..+*+..+*+..+*+…



 その後、わたくしは男の子と女の子を出産いたしました。レオニードは浮気もせず、おそらく夫婦仲睦まじい方かと思いますわ。

 やがて、初代バビルニア皇帝であられたレオニードのお父様が亡くなられ、レオニードが即位し、バビルニア皇帝レオニード一世と名乗りました。

 わたくしは、皇妃となりました。


 ええ、あの朝から、わたくしはなるべく穏やかに、たたありがたく幸運を受け止めるよう、心がけて参りました。生臭くなりがちな帝位を継ぐ者、王家の一家でありながら、ごく普通の幸せに満ちた家庭を得て、国を導く為政者の一員として民に寄り添いながらつとめを果たし、生きている意義を感じて、精一杯真剣に人生を歩んでいるつもりです。

 まあ、体調の関係などで、どうしても不安が蓄積してはち切れそうな時は、レオニードに寝室で吐き出させられてはおりましたけれど。






 さて、運命の神は、そんなわたくしの怠慢を見過ごしてはくださいませんでした。

 そう、怠慢です。わたくしの決定は怠慢と責められても仕方のないものだったと、今になって思うのです。


 遠い東方の国から突如として襲い来た騎馬の民族が、帝国の領土を飢えた狼のごとき執拗さで攻めてきて、レオニードと、息子ビクトルが、これを迎え撃つために軍を率いて出立することになったのです。

 わたくしは、かつては今か今かと待ち構えていた恐るべき不運に、なすすべもなく、ただ気が遠くなる思いでした。


 なぜ! わたくしは、疲れたなどと腑抜けたことを言って、不安から目を逸らし、備えることを放棄したのか。

 なぜ! わたくしは、ぬるま湯の幸せに浸りきって、そのかけがえのない無形の宝が脆く崩れやすいことを見ないようにしたのか。

 打てる手は、あったはずなのに。

 なぜ、なぜ、なぜ!!!


 不運は、一人ぼっちではやってこない。

 東方からの侵略は、前触れに過ぎない。

 それを、前世の私は知っていたはずです。



…+*+..+*+..+*+..+*+..+*+…



「皇妃陛下」


 火の消えたように静かな皇宮執政宮の玉座の間で、わたくしはただ、静かに座っておりました。

 そのわたくしに、無遠慮に声をかけてきたのは、キルケ議員でした。

 議員とは元老院の一員です。元老院は、バビルン王国時代からの世襲の組織で、王の助言機関です。助言らしきことはせず、文句ばかり言っている老害の集まりとでも言いたくなる実情ですけれど。

 かつてバビルン国内の氏族の長老の総意を宣言する会から始まったものですが、今や、有名無実なのです。幾人かの議員に至っては、その肩書きを悪用して、目が届きにくい地方で犯罪まがいのことをして私腹を肥やす堕落ぶりとか。


 あら、堕落している、という点では、警戒心を失っていたわたくしも同じね……。

 いけません。つい、自虐してしまいます。


 とにかく、キルケ議員という男は、わたくしの敵なのです。

 いまだに一定数おります領土拡大派の代表と言ってもよい、戦闘民族の鑑のような壮年の男で、レオニードの穏健路線が気に食わないのでしょう。金の髪と睫毛の目立つ派手な顔立ちで、むやみに自信満々で鼻につきますが、さらに、ことあるごとにわたくしを貶めようとしてきます。


 帝国内に、皇妃は慎重が過ぎて優柔不断で臆病者、という悪口が広まったのは、こいつが原因だと、わたくし、知っていますのよ。臆病者は事実ですけれど、悪口を広められるのは、腹が立ちます。

 大嫌いな男です。けれど、こうして皇妃であるわたくしの静かな時間を邪魔するほどの、それなりの権力を持っております。


「夫君とご子息が戦地にて奮闘しておられる折のご心痛、お察しいたしますぞ。もしや玉座で居眠りされているのかと、見紛いましたが、ははは、まさかでしょうな」

「まあ」


 いつも面倒ですので、これで済ませます。おわかりでしょうか。わたくしが毛嫌いするわけが。この無神経ぶりが。

 もしかすると敢えてわたくしを怒らせたいのかもしれませんが、皇妃の反応を簡単に引き出せると思われては困ります。


「皇妃陛下は慎重なお方ですからな。慎重すぎて判断ができないと、誰もが嘆いておりますが、女性の身だ。当然のこと。私めはわかっております。ご不安でしょうとも」

「まあ」


「……なにしろ、今回は蛮族の侵攻だけではないのですから。皇妃殿下のご生家が所領、アンブロシーで、川の堤防が決壊、今年の穀物の収穫が絶望的との知らせがございます」

「まあ」


「……それに、蛮族に荒らされた土地から、流行病の兆しがあるようです。すでに複数の町が汚染されているとか」

「まあ」


「……蛮族が襲ってくるという流言が飛び交い、帝都周辺でも大変な混乱で。それに紛れて、土着の宗教の信徒がこの混乱に乗じて火を放つという噂もあり、人々は疑心暗鬼に陥っております。もしかして、すでに今、この帝都にも火が放たれているやもしれません」

「はあ」


 あ、間違えましたわ。


「く……。こんな大変な時に皇妃陛下のお心を煩わせるのもと思いましたが、お耳に入れたいことがございます」

「ほう」


 もう、ふた文字ならなんでもいいですわ。

 キルケ議員は、なにやら忌々しそうに一人の女性を呼び寄せました。波打つ豊かな金の髪、赤い唇、ばっちりした目、豊満な体。うむむ、弾ける若さ。


「こちら、実は皇帝陛下の寵愛を受けた、エルニーニョという娘。陛下は彼女をお気に召され、山ほどの宝石をお贈りになり、それはもう、入り浸っての愛欲の日々……」

「へえ」

「さぞおつらいとお察しします。が、この非常時、悲しみに暮れるお時間を好きなだけとっていただくわけにはいかないのです。実は私めは、昔から皇妃陛下のことをお慕い申し上げておりました。私めをそばに置いてくだされば、それこそ、身を粉にして、この国難に立ち向かい、蛮族を押し戻し、あなた様をお救い申し上げてみせましょう」


 返事をするにも、口が動きません。

 呆れてしまいます。

 わたくしは、嘆息して、すっと右手の人差し指を横に動かしました。


 それだけで、キルケ議員と女性は、飛び出してきた衛兵たちに取り押さえられ、床に押さえつけられます。


「な、なに、なにをするか」

「きゃあ、私を傷つけたら、陛下がお怒りになられますわよ」


 愚かしいにも程がありません? キルケが今しがた口にしたのは、皇帝陛下に成り代わろうという、簒奪の意志ですわよ。


 けれども確かに、彼らに対して懇切丁寧に説明をしてやる余裕もなさそうです。

 キルケの話の全てが嘘だったわけではないようで、慌ただしい気配が玉座の間に近づいてきます。執政宮には、次から次へと、恐ろしい報告をもたらす使者が集まってきているのです。





 わたくしは、前世の教訓を、準備できるはずの時間を、活かすことができませんでした。

 もはやこの身にできることは、彼らの報告を、居住まいを正して聞くことだけです。


「皇妃殿下! アンブロシーで、大河の堤防が決壊、今年の穀物の収穫が絶望的との知らせがございました!」


「その件! アンブロシーより続報あり、年二回の想定行動訓練のおかげで、農民領民は全員、速やかに高台に逃れ、無事とのことです! なお、今年の収穫は半分終わっており、収穫物は高台にありて、同じく被害を免れたとのこと! 残り半分の小麦は、品種改良を重ねて水害に強くなっているため、収穫量は8、9割の目減りにとどまるのではないかとも! 今年は豊作が見込まれていたため、国内の需要には十分対応できる量が残る見込み!」


「同じくその件! 堤防の決壊部分が不審な壊れ方をしていたこと、またこの数日領内に見慣れない男たちが出没していたことが、民間の警備団員たちから報告があがっております!」


 はじめに駆け込んできた者たちは、わたくしの生家で顔馴染みの者たちでした。どの顔も泥に汚れ、そこに涙が流れて大変な有様でしたが、表情は輝くばかりです。それほどに、奇跡的な被害の少なさでした。

 ひとりが、一歩前に出て、玉座の下の階に額づきました。


「すべて、皇妃陛下がお輿入れの前に、アンブロシーに根付かせた制度のおかげです。河川氾濫を想定した行動訓練も、品種改良も。また堤防の補強のおかげで浸水の速度も遅く……」

「それに、地元で兵を徴募して、警備団として兼業させることで、治安も大変良くなっております。早晩、堤防決壊の原因などはわかることでしょう。それなのに、兵たちへの支払いは抑えられるのです。その先を見るお力、まさに女神……!」


 いえ、それほどのことではございませんが、結婚前の、どんでん返しを恐れてばかりだったわたくしを、少しは誉めてもいいかしら。ひとまずは、よかったですわね。


 けれど、一息つく間もありませんでした。泣き伏す彼らを押し退けるようにして、緊迫した様子の官吏が前に出ました。


「皇妃陛下、恐ろしい疫病の兆しが出ております。蛮族が通ったふたつの町で、次々と人が倒れていると。もし蛮族がもたらした疫病である場合、皇帝陛下には大事をとって前線から引いていただかねば、ヘタをすると戦闘によって直接感染が広がり、兵たちが帝都に帰ってくることで、帝都の民たちが根こそぎ死滅する恐れも……」

「皇宮の医務院長です」


 あら、久しぶりに顔を見ますわね。相変わらず、木で鼻をくくったような話し方です。容姿は整って、この若さで高い地位にいますのに、良い縁がないというのはこのせいでしょうね。


 かつて孤児院で爪弾きにされていたこの子を、優秀な分、周りと理解をすり合わせるのが苦痛で仕方ないだけだろうと、引き取って、なるべく良い環境に置いてやったつもりですけれど。思ったより変わっていないかもしれませんわね。

 けれど、抜きん出た才能は、存分に開花させているようです。問題児だった戦争孤児の少年が、いまや帝国で最も地位の高い医師ですのよ。月日と才能が恐ろしいですわ。


「伝染病発生時のために配備されていた早馬便で、すでに二日前に検体が届いております。先ほど解析結果が出て、どちらの町でも、毒が原因だと判明しました。井戸に投げ込むか、川に流したか、手段は不明ですが、すでに現地に捜査員を送っております。

 検体を持ってきた男が町の診療所の記録も持って来ましたが、そこに、蛮族が来る前から町では人が倒れ始め、蛮族たちはそんな町の様子を見るや、怒りながら去っていったという記録がございました。

 門外漢の推測ではなりますが。今回の蛮族の侵攻、彼らを駆り立てたものが、彼らの土地でだれかが毒を撒いたのだとしたら。それに追われ、逃げるように攻めてきたのだとしたら。攻めてきたこの土地で、またも同じ毒で死に絶えた町を見て、恐慌状態で闇雲に進軍しているのだとしたら。

 証拠はまだ一つしかありませんが。——毒の成分は、この国の反対端にある高原にしかない希少な植物の根なのです。少なくとも、蛮族が調合したり入手できるものではありません」


 さすがですわね……。

 いくつもの謎の答えをひとつの台詞に詰め込んでしまって、周囲の人間は呑み込めていませんが。それでもすぐに話は通って、調査が進めば裏付けも取れるでしょうね。


「皇妃陛下! 火、火が! 帝都に!」


 大声で叫びながら駆け込んできた若い兵が、後ろから蹴り飛ばされました。大丈夫でしょうか。蹴り飛ばした壮年の兵が、失礼しました!と敬礼をくれます。


「何人かが組織的に放火をしたという目撃情報が入っており、実行犯は取り押さえましたが、裏を探って引き続き捕り物中です! 火、そのものは、すぐに鎮火されました!」


「一部は燃えたんですよ! 我々の誇る帝都が!

 ですが、帝都に相応しい都にするためと、路を広くとっていたこと、家と家との間を広く取っていたことにより、放火されたすべての場所で大火になるのを未然に防ぐことができております! また、避難や消火の際には、住民に義務付けられている大火想定の行動訓練が活きました!

 怪我をした者、家が燃えてしまった者たちは、今、カトレ教の大聖堂や教会をはじめ、アスター教、ゾロン教の教会と、あと、精霊神殿が信徒に限らず門戸を開いて受け入れており、そちらで、仮の住まいと食事の提供をうけております! 各地区の公営施療院からの派遣医師も、各所に滞りなく配備され、診断治療も始まっております!」


 なんてことでしょう。この子も戦争孤児だったことを、覚えております。その日の暮らしに困り、隙あらば仲間や隣人をも襲おうとぎらついた目をしていた子が、兵として、こんなに立派な報告ができるようになるなんて。

 それに、宗教宥和の方策をとったことで、土着宗派の皆さんも歩み寄りをしてくださっているのですね。カトレ教も、昨今は権威主義の法衣を脱ぎ捨て、民に親しまれることを考え始めているようです。


 わたくしは、感動を味わうためにしばし胸に手を当てて目を瞑っていましたが、なんとか、ひとつ、ふたつと頷いてみせました。


「素晴らしいわ。緊急時に、あらかじめ想定していた動きができること。その体制。そして、期待のもう一歩先の成果を出してくれる、優秀な人たち。ええ、あなたたち皆、この国の宝です」


 玉座の間に駆け込んできていた皆が、大きな声で歓びました。

 レオニードとビクトルにもこの声を届けてあげたいと、そう切に願いましたのよ。





「ちょっとー、私は解放してよ。愛人を虐めたら、旦那に愛想つかされちゃうわよ、お、ば、さ、ん」


 発言に驚いて見ると、そういえば、拘束していた二人が床に忘れ去られています。今のはまさか、わたくしへの呼びかけだったのでしょうか。よく聞き取れませんでしたが。

 キルケ議員は口をぱくぱくとしていますが、何も言えないようです。でもこの女性は、やたらと元気そうですね。そうでした。この方の問題が残っているのですね。こればかりは、優秀な臣下に任せるわけには参りません。


「財務大臣」

「はい」


 わたくしは、わたくしの仕事上の相棒とも言える男性を呼び寄せました。


「この一年、いえ、半年の間の、陛下の帳簿を」

「はい」


 間をおかずに手渡されたということは、この騒ぎの間に彼は予見して用意していたのでしょう。さすがです。

 手渡された数枚の紙をパラパラとめくって、わたくしははあ、とため息をつきました。


「どこにも、あなたに貢いだ形跡は認められませんわね」

「そ、そんなパラパラめくって何がわかるのよ」

「あら、帳簿というものは、出納帳だけではありませんのよ。今は、ざっと貸借対照表と損益計算書を見たのです。見慣れてくると、おかしな数字はなんとなくわかるようになりますの。でも、おかしな点はなし。おかしな誤魔化しもなし。

 よって、わたくしの把握しない陛下の支出はないのですわ」


 キルケ議員が、復活してきたのか、鼻で笑います。


「皇妃陛下もお人が悪い。そのように見たフリで騙そうとは」

「騙すつもりはありませんけれど」


 見たフリなのは確かなので、そこは否定いたしませんが。

 侵攻の知らせが来る前の先月がバビルン王家の決算月で、それはもう、死ぬほど確認した代物ですので、今更確認する必要もありませんもの。こういうものが存在するぞ、と誇示したまでですわ。


「お金だけでなく、資産として、皇宮の廊下の鏡ひとつ漏れのないように、管理されていますもの。先の王宮ではたびたび物が紛失しておりましたけれど、皇宮に移動してからは、都度、紛失の原因割り出しができております。残念ながら何名か窃盗罪で裁かれておりますわ。

 陛下であっても、陛下の身の回りのお品さえ、勝手に持ち出して換金などできませんわよ。

 それに、陛下のお買い物は、事前の申請か、事後の請求か、どちらもわたくし宛に来ますもの。陛下は現金はお持ちではないし。ですのでそう度々、贈り物をご用意できるはずがございませんわ」


「なんと、陛下には陛下の予算がおありでしょうに……」

「予算の全てでわたくしに宝飾品を買ってくださるので、管理権を取り上げました。陛下の公的な生活に必要なものは、全て別予算でご用意いたしておりますから、あまり使い所もなかったとかで。余らせてはいけないというプレッシャーから解放されたと、お喜びでしたわよ」


 わたくしの、唯一の趣味が、この会計管理なのです。すでに世に複式簿記はあったけれど国の財政には活用されていなかったので、これだけは、皇太子妃となってから嬉々として導入いたしました。

 財務大臣は、初めは私が鍛えていたのですけれど、いつの間にかわたくしよりもスマートに書類を作り処理をし、バビルン王家だけでなく帝国の各直轄地の連結会計もやすやすとこなします。悔しくはないです。ただの趣味ですから。


 ともかく、女性は黙りました。王様、財布握られてんのかよ。という言葉に何故か哀れみが込められていたようですが、本当に、レオニードは喜んでいたのですけれどね。


「時にキルケ議員。なぜ、執政宮への伝令より先に、すべての事件について、あなたはご存知だったのかしら。しかも、不思議なことに、国の対応についてはまるで知らずにここへいらしたようね。……まるで、あらかじめそんな事件が起こるということだけ、知っていた、みたいに」


 言い逃れる方法を探すように唸っていたキルケでしたが、やがて、伏せた顔から上目遣いに私を見てきました。


「私めも、いろいろとツテがございますのでね。賢明な皇妃陛下ならお分かりでしょう。情報が集まるのは、私めに人望があり、頼りにされることが多く、期待もかけられている証左でございます。ただ、無念なのは、もたらされた情報の精査が足りませんでした。これは全く、私の不手際でございます。反省をいたしまして、しばらく謹慎をいたします。ええ、私めのご処分については、どうぞ陛下がお戻りののちに、ご相談ください……」

「毒杯を与えましょう」


 きょとん、とキルケは目を丸くしてわたくしを見ました。

 聞こえなかったのでしょうか? 仕方ありませんわね。


「毒杯をお前に与えましょう」


 わたくしはもう一度、はっきりと言いましたわ。

 キルケは、わたくしを本気で、慎重が過ぎて優柔不断だと思っていたのでしょう。ですが、あれほどはっきりと簒奪の意図を見せておいて、このままわたくしが見過ごすと思ったのでしょうか。今後の不安の芽となる者を。


「さ、裁判を! 裁判をしてください」


 キルケは騒ぎ立てました。

 裁判ですか。一応、申し立てはできることになって……いますわね。扉付近に立っていた法務長官がうなずいています。まあ、わたくしが今、皇帝の留守に全権を委任された皇妃として死罪を決めれば、そのまま認められるでしょうが。


 わたくしは、その特例を使わないことにしました。

 実は、レオニードは法典の編纂を進めていたのです。元老院の力も、この際削ぎ落とすおつもりです。法典が実施されれば、すべての帝国民が法に従うことになります。それを睨んで今肝要なのは、皇妃自ら遵法の姿勢を示しておくことでしょう。


 ただ、キルケはおそらく後悔すると思いますわ。

 確かに裁判のためには皇帝の帰還を待つ必要があります。皇帝の身に何かあれば皇妃であるわたくしか、無事であれば皇太子であるビクトルが代行しますけれど、それもまた、膨大な諸手続きの後となるでしょう。その間、キルケは生き延びます。それが今のキルケの望むところなのでしょう。

 けれど、もし、レオニードが帰ってきて、キルケのしでかしたことを知ったなら。

 おそらく、毒杯の方がやさしいと思うのですけれど。まあ、瑣末なことです。


「みな、支えてくれて、感謝します。陛下の無事のお帰りまで、引き続きよろしく頼みます」


 わたくしはそう言って、ゆったりと玉座に腰掛け直します。


 やるべきことがたくさんあっても、わたくしよりも優れた適任の者たちがこうして大勢いて、真剣に取り組んでくれているのです。わたくしにできることは、ここにこうやって、鷹揚に座っているだけ。それだけのようです。

 よいことですわ。よいことです。


 わたくしって、ちっぽけなんですわ。

 今回しみじみと、そう感じました。

 前世があろうと、なかろうと、できることはとても少ない。特にわたくし、特に趣味以外の特技はありませんもの。結婚前のように、ひとりで怖がって何とかしようと足掻くのを続けていても、きっと今回の事態には対抗できませんでしたわ。

 わたくしの人生、波瀾万丈も順風満帆も、わたくしがどうこうしようとして成るものではないのですわ。





 やがて静かに耐える日々は終わりを告げ。

 夫と息子は、無事に帰ってきてくれました。

 レオニードは怪我もなく。ただ過酷な行軍だった証拠に、日に焼けて、お腹と背中がスッキリして、少し筋肉で体が大きくなったでしょうか。何故か、以前よりも元気そうです。

 ビクトルは、驚くほど背が伸び、また表情に自信と余裕が見えるようになっていました。


「お帰りなさいませ。ご無事のお戻り、なによりです」


 ビクトルは、わたくしをわずかに見下ろして、この時ばかりは小さな子供のように、にかっと満開に笑ってくれました。けれどすぐさま慌ただしくどこかへ行ってしまいましたわ。成長するということは、寂しいものですわね……。


「ただいま、カチェ。抱きしめていいかい?」


 尋ねてくださるのはいいのですが、大抵すでに抱きしめられているので、意味がありません。レオニードは、変わらなくて、変わらないことが、嬉しくてたまりませんでした。


 わたくしを抱きしめたまま離さないレオニードから、小姓たちが手際よく甲冑を外していきます。その様子が、本当に戦争が終わったのだと実感させるもので、わたくしの目から涙がこぼれ落ちました。夫と息子を見送るとなってから、初めての涙でした。

 レオニードの初陣を見送った時とは違って、よく我慢しましたわ。

 わたくし、がんばりましたわよね。何も、役には立たなかったけれど。


「ああ、カチェ。最愛の伴侶。尊敬すべき賢い人。ありがとう。すべて、君のおかげだ」


 レオニードが何か言っています。


「ヌルグの者たちは——ああ蛮族と呼んでいた彼らだけどね——ヌルグの土地で恐ろしい病が流行って、救いを求めてこの国に集団で移動してきたらしい。けれど国に入ってみれば、すでに病の広がる町が点在していた。食べるものも飲むものも尽き、つい、奥深くまで入って食べ物を奪ってしまったそうだ。それから、攻撃されれば反撃するの繰り返しで、彼らも途方に暮れていたようだった」


 報告は受けていることですが、レオニードの口から聞けることが嬉しくて、じっと耳を傾けます。

 レオニードは一度わたくしから体を離して、胸甲を外し、鎖帷子を脱ぎました。

 季節はすでに秋ですが、面積の多い鎧を身につけていては暑かったのでしょう。かいた汗が急に冷えたのかぶるっと震えた体を、小姓が素早く布で拭いて、チュニックを着せようとしてくれましたが、レオニードはそれを止めて、下がらせました。

 それから、レオニードはまたわたくしを腕の中に閉じ込めました。

 ぴったりとくっついて、レオニードの匂いがわたくしを包みます。


「医務局長が派遣した調査員が、現地の警備兵たちと協力して、そういった事情を調べ、前線の僕のところまで知らせてくれたんだ。現地採用の警備兵たちの中には、ヌルグの言葉を解するものもいてね。なんとかかんとか、互いに意思疎通を図り、彼らの病に効くと言って解毒剤を与え、安心させて、地元に帰らせることに成功したんだ。

 交渉の勝利、無血の勝利、なんでもよい。すべて、カチェを讃える言葉だ」


 わたくしは、戸惑ってしまいました。

 戦争の被害が少ないうちに、穏便に終結したと聞いて居ましたが、いつかの玉座の間でのことのように、全ては国の備えです。わたくしは、本当に、自分の手を動かすことをやめてしまっていて、なんにもできていなかったのです。

 国の体制を、人材を、あそこまで構築し育てたのは、レオニードです。愚かな自分に絶望して、ただ彼の代わりに玉座を温めていただけのわたくしを守ってくれたのも、レオニードですのに。

 おかしな方です。


「調査員が来るまで我々が持ち堪えられたのも、カチェのおかげだ。内政の経済的負担の軽減を第一の理由にしていたけれど、属州を独立させるだけでなく、かつてのように国として成り立つように支援をしただろう。その国々から、どんどんと援軍が来た。我らの軍は、かつて父王が無理に徴兵していたころの二倍まで膨れ上がったほどだ。

 あと、辺境で地の利を生かした国境防衛のために、城壁建造を進めていたこと、あれも効果が大きかった。カチェ、カチェ、君は素晴らしい」


 待って待って。


「それはすべて、レオニードの政策ですわ。わたくしではありません」

「いや、君だよ。だってすべて、君が不安だと零したことを解決したくてやったことなのだから。なにより、君が誇るべきは、その人脈じゃないか? あらゆる分野に、これほど優れた人材が揃っている。そんな奇跡のような時代は、君が作った」


 確かに、孤児院からスカウトしたり、属州からもスカウトしたり、あまり身分にこだわらず、やりたいこと優れていることをさせてやろうとしました。今世の出会いを、少しでも大事にしたくて。


「けれど、わたくしは本当に最初の支援だけで。みな、いつの間にか自力でやっていくようになって。そう思うと、それだけの人材が偶然揃ったのは、奇跡のようなことでしたわね」


 ははは、とレオニードが笑いながら、寝台にわたくしごと座りました。


「カチェは夢中になると僕を放っておくからな。ある程度のところで、僕が彼らのその後の道を代わりに支援したが、どの子も驚くほど優秀だ。筆頭は、医務局長かな。いやここは、ビクトルと言っておかないと、あいつが拗ねるか」


 そうだったのですね。存じませんでした。でもそうすると、人材育成もレオニードの成果です。

 それより、やはりレオニードが大きくなっているようです。わたくしがすっぽりと囲われてしまうなんて。


「少し、痩せたな。苦労をかけた」


 大きな手が、わたくしの細い肩を撫でさすります。

 そういえば、少しあちこち細ってしまったかもしれませんわね。

 でも、きっとわたくしは、また元に戻りますわ。幸せ太りというでしょう? 夫と子供と一緒に食事を取れるなら、きっとなんでも美味しくいただけます。


「キルケのことも聞いた。あいつ、カチェに自分を側におけと言ったのだって? 百回殺したい。それに、愛人を仕立て上げたと聞いた。まさか、少し、気持ちが揺らいだり」

「しません」

 どちらのことかわかりませんが、素早く否定しておきます。


「わたくし、レオニードが今更他の女性に目移りするなんて、想像できませんのよ。レオニードが、これまでの結婚生活で、わたくしに刻んでくれたことです。結婚以来一度も、その点について不安になったことはありません」

「ああ、カチェ。その通りだ。信じてくれて、嬉しい」


 レオニードの黒瑪瑙の目が、うっすらと涙の膜に覆われて、わたくしは胸を衝かれました。

 わたくしは、きっと不安がることで、このひとをも不安にしていたのかもしれません。

 そう思って、申し訳なく、でも、その深い心の繋がりに、えも言われぬ安らぎを味わいました。


 もし今後、力及ばず敵の手が間近に迫る時が来るとしても。わたくしは逃げることを最善と考えないかもしれません。ええ、あれほど、人生の落とし穴に恐れをなしていたというのに、です。

 なぜなら、死それ自体は、私の不安ではないと気づきましたから。

 死に価値を見出すわけではありません。

 死までの生に価値を置こうと思います。

 その時間が長くとも短くとも、生きている間は、レオニードの隣に立って、胸を張りたい。

 レオニードの隣で、揃いの帝衣を纏い、誇りを持って死すならば、数年の命を繋ぐよりいいと考えることもあるでしょう。もしかしてのお話です。


「今はほかに、何か不安なことはあるか?」


 あやすようにわたくしを抱き込んでゆらゆらと揺らしながら、レオニードはやさしく問いかけてくれます。結婚してから、幾度繰り返したかわからない、二人きりの不安相談ですのよ。もう、五ヶ月ぶりになりますのね。


 やさしいやさしい声。わたくしの全てを慰めてくれる温もり。

 わたくしにとって、これほど安心できる場所など、ありません。

 いつもであれば、ありませんわ、と即座に答えたでしょう。

 それでも、わたくしは敢えて真剣に考えました。もう、二度と後悔したくはありませんから。でも今夜ばかりは、何も思いつきませんわね。

 仕方がありませんので、ひとつ、もう結婚以来ずっと気になっていたことを。


「娘も、結婚式にわたくしの着た拷問のようなドレスを着るのかと、不安ですわ」


 レオニードは笑ってくれると思ったのですが、意外と苦い顔をしております。おや、と思ったのですけれど。


「さっき覗いたら、眠っていて抱き上げることもできなかった。まだ結婚など考えたくもない」


 娘は2歳になって、夜はよく眠るようになりましたもの。

 本当に嫌そうに言うので、わたくしはおかしくて、幸せで、笑ってしまいました。

 わたくしより先に会いに行く女性がいるなんて。と、そんなどんでん返しを想像したこともありましたけれど。こんなに愛すべきライバルでしたら、しかたないですわ。

 あら、でもいずれは、お父様と結婚する、とか言い出すのかしら。それは、強敵では?


 不安なことが、こんな幸せなものばかりなら良いのに。

 やっぱり人生、何事もないのが一番ですもの。

 この人生の行く先が幸せかは定かでなくとも、幸せはすでにわたくしの足元に咲いているようです。


 みなさまの足元にも、そして願わくばその進む道の先にも、幸あらんことを!

 いつかどこかの来世で、またお会いいたしましょうね。



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またよろしければ、連載中の作品も読みに来てください。

みなさまに、幸あれ〜。


*勘違いでつけていた異世界転生タグを外しました。ご指摘、ご助言ありがとうございました*

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[良い点] 最高に面白かったです 内容もだけど風景とか城の描写がきれい! [気になる点] 悪事を働いた役人のその後が知りたいけど、綺麗に終わっている話には蛇足ですね
[良い点] ホントにストレスフリー。テンポも良いし、読みやすい。好き。 [一言] 何故か要所要所で、頭の中で「こんなこともあろうかと!」って聞こえた。 王妃様、ちゃんと前世活かせてるじゃないですかw…
[一言] 痩せた理由、そこかー!! 乳母や使用人が何人いてもそりゃ痩せるわ…。 ステキなお話でした。結婚してからはじまるのがいいですね。 いい国だなー!!
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