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漫画を読みながら寝てしまったネムを抱っこし、ベッドに寝かせ、静かに部屋を出る。
「…………」
先ほどから、ある人物にしつこく誘われていた。仕方なく、ため息を吐きながら風呂場に行き、敷いていた足拭きマットを見つめる。その刺繍の模様が、魔方陣だと彼に言われて初めて気づいた。半信半疑でマットの上に立つ。
「これで…いいのか?」
今も頭の中に響く声に従う。
足拭きマットから放たれた青白い光に全身を包まれる。メガネをかけた真面目そうな親指サイズの極小ゴブリンが、突然目の前に現れた。
「何階でしょうか?」
どうやら、エレベーターゴブリンらしい。
「100階をお願い」
「…………マスターの許可を確認しました。これより、100階まで移動。移動時間は」
チリンッ!
風鈴のような乾いた音。
「一秒です」
地上100階。魔方陣から出ると目の前に赤い大扉があり、それが音もなく開いた。目の前に広がるバー。骸骨バンドの生演奏。緩やかな大人の雰囲気が、部屋全体に漂っていた。
目的の場所。僕はある男に呼ばれ、ここに来た。バーカウンターで今も彫刻のように微動だにせず、僕を待つ男。その隣に座る。右目に眼帯をした女性バーテンダーが、シェーカーを振っていた。
「良い場所だなぁ。気に入ったよ」
「やっと会えたね。前田 正義くん」
こっちを見ようともせず、正面の壁に話しかける優男。ユラ。今まで対戦したクソ野郎とは、何かが違う。
このフロアの王は、ニコニコ微笑んでいた。男のくせに、とっても良い香り。
「どうして呼んだ? それと僕は、未成年だから」
目の前のガラステーブルにそっと置かれるリンゴジュース。
「お酒は飲めないよね。僕も飲めないから、いつもコレさ」
ユラは、細いグラスで牛乳らしき液体をゆっくりと飲んでいた。
「勝手に思考を読むな……。プライバシー、大事だぜ」
「ハハ。そうだね。ごめんごめん。正義くんを呼んだのは、ただ単に君に興味があったからだよ。あの日から、随分経つのになかなかココまで来ないから、焦れったくなってさ」
『あの日』とは、ネムと鮎貝、二人の誘拐事件があった日のことだろう。
「僕は、別に会いたくなかったよ……。面倒な事に巻き込まれるのは嫌だし」
「う~ん……正義くんは、不思議なことを言うんだね。面倒な事に自ら首を突っ込んでるのは、君の方でしょ?」
「………………」
「突然、獣化する猫耳女の世話に、不幸を呼ぶ運なし女の保護。これ以上、面倒な事ってある?」
「………だまれ」
「女なら、いくらでも紹介するのになぁ。選び放題だよ?」
「黙れって言葉が、理解出来ないのか?」
バーテンダーはうずくまり、雨に濡れた子犬のように震えている。
「僕は、君を心配してるんだよ。君自身がさ、大変な状況なのに、他人の世話なんかしてる場合じゃないって。馬鹿げてるよ」
席を立つ。この不快な気持ちが爆発する前に、この場からーーー。
「また逃げる? 運の量だけなら僕と大差ないのに。なんでいつも、あの程度の雑魚に苦戦するのか………。可愛い彼女らは騙せても僕は騙せないよ? それは、君が自分の運のほとんどを消費して、病気の進行を阻止してるからだよね。今、この瞬間もーーー」
扉を開けて、魔方陣の上に乗る。
「なん、」
「一階だっ!! 早くしろ」
扉が閉まる瞬間、頭にユラの言葉が響いた。
『前田君。キミ………とっても哀れだよ……』
『一階です。前田様。またのご利用お待ちしています』
エレベーターゴブリンが消えた後も……なかなか魔方陣から出ることが出来なかった。一度、目を閉じ深呼吸。
目を開けると、目の前にタオルを巻いたネムが立っていた。風呂上がりらしく、頬がピンク色に染まっていた。
「湯冷めするなよ」
「うん……」
「………………」
「………………………」
無言でしばらく見つめ合う。
「湯冷めするなよ」
「……じゃあ、そこ退いてよ。着替えられない」
「あぁ……ごめん」
風呂場から急いで出ようとすると、左手を引っ張られた。
「どうしたの? やけにテンション低いじゃん」
「別に何でもないよ。大丈夫だから……」
「ダーリンが大丈夫って言うときは、だいたい大丈夫じゃない時なんだよ。もう、私の前で無理しないでよ」
今は、その優しさに素直に甘えることが出来た。タオル一枚のネムに抱きついた。
「私の胸…………小粒ちゃんでゴメンね。本当は、もっと包み込んであげたかったんだけど……」
「いや、十分だよ。ネム……僕さ、本当は………本当…は…さ………いつ死んでもおかしくないんだ。何年も前から運を使って、病気を誤魔化してる。……死ぬのが恐くて恐くて………。すごく弱くて、未熟でさ……愚かなんだ……。それが、僕で……」
弱音を吐き出す卑しい口を、細い指先で封じたネムは、僕の頭を優しく撫でながら、子守唄を歌ってくれた。懐かしくて、優しくて………。自然と溢れた涙は、しばらく止まらなかった。
「ネムのその歌、好きだよ。最高……」
「ダーリンが死ぬ時は、私も一緒だよ。一人じゃない。だから、心配しなくていいよ」
賑やかな声がする。どうやら、鮎貝達が闇市から帰ってきたみたいだ。
また、騒がしくなるな。
「何、笑ってんの? さっきまでピーピー泣いてた男がさ」
「そんなに泣いてねぇし」
ネムのオデコにキスをして、風呂場を出た。
「この火照ったカラダ、どうすんだよっ!!」
彼女の存在。ネムのおかげで、今なら笑って死ねそうだった。
ユラ。
今度会うときは、お前を倒す。
そして、証明するよ。
哀れなのは、このタワーに弄ばれてるお前の方だと―—―。




