序/ 1.死活問題
――『労働』という言葉を耳にして思い浮かべるイメージは何だろうか?
人によってイメージは異なるだろうが、俺個人で思い浮かぶのは『御恩・奉公』の原則に基づいた、至極当然の主従関係だ。
〝従者は与えられた役目を懸命に果たし、主君はその働きに見合った正当な対価を与える〟
厳格な身分制が無くなり、上下関係の持つ意味合いや重要さが大きく変化している今の時代においては、いささか極端な考えかもしれないが、そういった考えに基づく秩序に触れて生きてきた自分にとって、この原則が持つ本質的な部分はいつの時代も変わらないと思うのである。
もし仮に、どちらか一方がこの原則を蔑ろにして、与えた役目に見合わぬ対価で相手を騙して働かせたり、果たした役目での手柄を誇張して不当に利益を得たりすれば、それだけで安定をもたらす秩序に亀裂が生じて、様々なところで被害をもたらすことになるだろう。
…………なぜ、役人でも学者でもない一般人である自分が、そんな小難しい見解を偉そうに考えていたのかというと、
「ふざけんじゃねぇぞ、あのクソ爺がぁぁぁぁーーーーーーーッ!!」
――その被害を被った当事者に、今こうしてなってしまったからである。
月曜の昼時。人の行き来が多い通りの真っ只中で、人目も憚ることなく、俺は青空に向かって叫び声を上げていた。
老若男女問わず、道行く人々から向けられる奇異の目はなかなかに堪えるが、今はそんな小さな羞恥を気にしていられないくらい、目の前で起きた――厳密には〝見せられた〟という表現が正しいかもしれないが――現実を素直に受け止めることができなかったのである。
「はぁ……ほんっとにもう……」
……それからどれくらいの時間が過ぎたのだろう?
力のないため息をこぼしながら、俺はシャッターに貼り付けられた紙に書かれている告知を改めて読み返す。
『お知らせ。
この度、誠に勝手ながら〇月☓日を持ちまして当店は閉店とさせていただきます。
長い間ご愛顧を賜り本当にありがとうございました。
名残は尽きませんが心からの感謝を込めて、皆様どうかお元気で。 店長』
最初は何かの冗談だろうと思った。……いや、思いたかった。
――ここ数か月間の仕事先である定食屋へいつも通りの時刻に来てみれば、昨日まで『食事処』と書かれた特徴的な暖簾の掛かっていた店先が、もう開店時間まで近いはずなのにシャッターは閉められ、何かしらの告知が書かれた見慣れない紙が貼られていたのだ。
初めは「何か手違いで、臨時休業の連絡が届いてなかったのか」と呑気に構えていた。
……しかし、告知の貼り紙の隣に『テナント募集中』の貼り紙も貼られていることに気づいてから、嫌な予感を感じ始めた。
書かれていた告知の内容を確認しようとシャッターの前に近づいた時、突然背後から「おい、そこの兄ちゃん」と呼び止められ、振り返るとそこには、切り傷の跡がいくつか顔に付いているラフなスーツ姿の男が、吟味するように睨みながら俺を見ていたのだ。
……もうこの時点で、感じていた嫌な〝予感〟が〝確信〟へと変わり始めていたが、状況を把握できなければ何も断言することはできない。
そのため危険を承知で、俺は呼びかけてきた男の「ちょっとツラ貸しな」という指示に従い、人目の付かない近くの路地裏へついて行った。
路地裏に入ると、既に話し合い(脅迫)の準備を整えていたようで、俺を連れてきたスーツ男の子分と見られる下っ端のチンピラ男が二人待ち構えていた。
そして逃げられないように三人で俺を取り囲むと、
『どうして、兄ちゃんはあの店の前でウロウロしていたんだ?』
『もしかして、あの店で働いていた人間かぁ?』
『だとしたら、あのクソ野郎がどこへ飛びやがったのか何か知ってるんじゃないのか?』
といった質問を立て続けに浴びせてきたのである。
それらの質問に俺は一つひとつ正確に答え、自分があの店でここしばらく世話になっていたことと、昨日まで変わりなく営業していた店が今日来てみるとなぜか閉まっていたこと。
そして店長から一切事情を聞かされていないことを、ひとまず連中には告げた。
……素性の怪しい男三人に路地裏で囲まれ、脅迫まがいの質問をされる、という割と危険なこの状況。
それ自体は、正直なところ別にどうでもいい。
事態を把握するために〝そうした輩〟について行くと決めた時点で、ある程度の危険に身を晒すことになるのは想定済みだ。
むしろ俺が危機感を覚えたのは、彼らも店長の行き先が分かっていないことと、スーツ男の口から発せられた次の言葉だった。
『クソがッ! やっぱり最初から〝返済〟踏み倒して逃げるつもりだったか、あの爺さんめ!』
忌々しいと言わんばかりの表情と声でスーツ男は怒鳴り散らし、終いには『こうなった以上、あの爺さんが作った負債は兄ちゃんにも返すのを手伝ってもらわないとな』という訳の分からない要求を押し付けてきたのである。
そして俺も、彼の口から〝返済〟という穏やかでない単語を耳にしたことで、自身が予想される事態の中でも最悪の場合に陥ってしまったのだと察した。
〝いや、でも……まさか、そんなことが起きるなんて、あり得るはずが……〟
しかし、それでも確信を持つには怪しい部分があったため――というより、信じたくない気持ちを拭えなかっただけなのだが――、本当に店長がいなくなってしまったのかどうか確かめるべく、一旦店へ戻ることにした。
スーツ男たちとの会話を早急に切り上げて――その際に、連中がいつまでも俺を取り囲んで行かせようとしてくれなかったため、かなり強引ではあったが〝物理的な手段〟を用いてお引き取り願った――路地裏を離れ、急いで店へと向かった。
願わくば、戻ったら店はいつも通り営業し始めていて、スーツ男たちの言っていたことはすべて嘘だった、という都合のいい結末が待っていることに淡い期待を抱きながら……。
「――そして戻ると、店は相変わらず閉まったままで、貼り紙には閉店を伝えるお知らせが書かれてました、か……。
ははっ、ハハハ…………」
もう乾いた笑いしか出てこなかった。
冗談抜きでこれからどうすればいいんだ……。
それなりに繁盛していて安定した職場と思い込んでいた店が、実はその手の〝危ない連中〟から融資を受けていたこと。
その取り立てから逃れるために店長が突如雲隠れし、結果として俺が煽りを食わされる形で彼らから脅迫まがいの事情聴取を受ける羽目になったという理不尽な顛末。
もちろん、これらに対する怒りは逃げ出した張本人である店長を探し出し、見つけたその場で腹を切らせて詫びさせたい、と思うほどに収まりきらない。
……ただ、その怒りも、直近に迫った別の問題と比べれば些末なことに過ぎないため、百歩譲ってではあるが、今さら憤慨したところで仕方がないと割り切れるものだ。
というのも、金を借りた連中との交渉を俺に押し付けたこと以外で店長の残した置き土産が、それ以上に厄介かつ致命的なモノだったからである。
――何せあの爺、
「せめてさ…………バイト代を払ってから消えろよっ、クソがぁぁぁーーーーッ!!!」
よりにもよって給料未払いのまま、月末のこのタイミングで逃げてしまったのだ。
住んでるアパートの家賃や光熱費も、すべて今日渡されるはずだった給金で支払う予定だったというのに、未払いのまま店長が逃げてしまったおかげで、この一ヶ月の間に捧げた労働すべてが無駄になってしまった。
「……人の好さそうな顔しておいて、闇金で借金を重ねて、挙句逃げ出してその始末を他人に押し付けるあたり、俺とんでもないロクでなしの下で仕事に励んでたんだなぁ」
店には二、三ヶ月ほど前に雇ってもらい、その期間で店長とは何度もコミュニケーションを取る機会はあったはずなのに、そこから異変を察知することができなかったのが悔しくて仕方がない。
色んな人間をこれまで生きた中で見てきたつもりだったが、同じ空間でやり取りを重ねた相手の人柄を見抜けなかったあたり、自分がまだ『未熟』であることを痛感させられるばかりだ。
〝はあ……とにかく、いつまでも文句を垂れているわけにもいかないな。
いくら喚いたところで、店長が戻ることも無ければ、バイト代が手に入るわけでもないし〟
過去の自分の浅はかさに対する後悔で沈んでいた気持ちを切り替えると、俺は今回の騒動で直面することになった諸々の問題を頭の中で整理しつつ、空きテナントとなった店前を離れて家路を急ぐのだった。