帰宅
あの事故から半年程経った。
その間にユイはリハビリに励み、自分の足で地面を蹴る感覚、それを取り戻そうと努力をした。たった今も、看護師に手を持って支えてもらいながら歩くといった練習を行っていた。
しかし、その努力は報われるどころか、復活の兆しは全く見えてこない。最早、どうやって前は自分の足で動けていたんだろう。そう思える程に……。
「ユイちゃんは小さいのに、そんなに頑張って偉いね」
だから、そうお医者さんは言うけど、本当はそんなんじゃない。そうユイは思った。
それは、五歳のユイにとっては想像を絶して辛く、もうやめて逃げ出したいと何度も思った。いや、一人なら実際に逃げていただろう。
でも、お父さんはたまにだけど、お母さんは毎日会いに来てくれる。こんな自分を心配してくれる人がいる。そう考えるとユイは頑張れた。
「ユイ、頑張って!」
今日だって、お母さんが来てくれた。それが、ユイには嬉しかった。
でも、最近……というか以前からユイには母で心配なことがあった。
それは、心無しかここに来る度に母親に疲れが溜まってるような、そしてたまにこう、凄い悲しそうな顔をするのだ。
前は我慢していたのかもしれないが、ユイの前では決してそんな顔は見せなかったのに。
「はいっ、じゃあ今日は終了だよ、ユイちゃん。よく頑張ったね」
「ハァハァ! ……あー、もう疲れたよー!」
「じゃあ、車椅子乗って、部屋戻ろうか」
「あっ、いいですよ。私が連れていきます」
そう言って、ベンチに座ってた母親がこっちに駆け寄ってくる。
「あっ、そうですか。じゃあ、よろしくお願いしますね」
母親の手を借りてユイは車椅子に乗る。
その際に母親の顔を見ると、目の下に隈が出来ているのが見えた。
やっぱり疲れが溜まっているんだ。
もしかして……ユイの所為?
車椅子への移動を完了したユイは、顔を俯ける。
「じゃあ、行くよ」
「……うん」
「……ユイ、どうかした?」
「うんうん、別にどうもしないよ」
母に心配させないように、全力で笑顔を作って振り返る。
「……そう」
見えた、母の顔はにこやかだ。でも、顔を戻そうとした瞬間。その時に、やっぱり悲しそうな顔を覗かせた。
――いつからだっただろうか。お母さんがこんな顔をするようになったのは……。
ユイはそんなことを考え出す。
そういえば、最近お父さんは、あんまり病院に来てくれなくなった。
前はお母さんと一緒に毎日のように来てくれていたのに、何故かお母さんと別々に来るようになってから、どんどん来なくなっていった。
お母さんがこんな顔をするようになったのも、その辺りからじゃなかっただろうか。
ユイはまだ聞けていなかった。何でそんな疲れた様子を見せるのか。何でそんな悲しそうな顔をするのか。そして、何でお父さんと来なくなったのか……。
どれも理由を聞きたい。けれど、幼いながらのユイの直感が言い知れぬ危険を察知していた。知りたいけど、何だか知ってはいけないような、そんな恐怖があった。
結局ユイはずっと聞けなかった。
数日後、ユイは退院した。
その日は、久しぶりに父と母の二人がユイを迎えに来てくれた。
三人で、見送りに来てくれた病院関係者にお礼を告げ、半年程滞在した病院を後にした。
父が運転する車の中で病院を出発してから家に着くまで、二人はユイにたくさんの他愛ない話をしてくれた。お父さんの会社のこと、お母さんが最近見たテレビのこと。
でも、どちらもたまにお互いをちらっと見るだけで、二人で話すことはなかった。
☆★☆★☆★☆
家に着いてすぐに、父は仕事に出掛けた。
一方、久しぶりに自分の部屋が見てみたくなったユイは、母親に頼んで二階まで車椅子で連れていってもらい、半年ぶりの自分の部屋に入る。
部屋に入ったユイの目に一番最初に入ってきたのは、部屋の中央にあるベッドだった。
「あれ!? ユイのベッドが変わってる!」
「ああ、うん。ユイが寝やすいように変えたの」
入院前の少し小さめのユイのベッドは既に無くなっていて、代わりに病院にあるような足の方に物を置けるような台があったり、上半身を掛けれるような構造になっているベッドに変わっているのだ。
でもそれ以外は、相変わらず机の上に置かれている恐竜や見た目犬だがボタン押すと、「ピコッ」っと鳴く良く分からない生物のぬいぐるみ等、前と何も変わっていない。
いや、違う。ユイは気付く。前より部屋が綺麗になっていることに。窓も汚れ一つないくらい綺麗に拭かれている。
「お母さん、ユイのいない間も部屋、綺麗にしてくれてたんだね」
「うん、まあね」
「ありがとう、お母さん!」
「あっ、でもね、最初は大変だったんだから。部屋が汚すぎて」
母がニヤリっといった顔で言う。
「えー! そんなこと無いもん! ユイがいた時も今とあんまり変わってないもん!」
いや、本当はそこら辺におもちゃ散らかしたままだった気がするけど、と思いながらもユイは意地を張る。
「えー。じゃあ、まあそういうことにしといてあげるわ」
「そういうことにしとく、とかじゃなくて、そうだったんだって!」
「はいはい。ごめん、ごめん」
母が笑いながら言う。
良かった。お母さんが笑ってくれた。やっぱりお母さんに悲しい顔は似合わない。怒ってる顔は嫌だけど、笑った顔はずっとしていてもらいたい。そうユイは思った。
「あっ、もうこんな時間! そろそろお夕飯の食材を買いに行かないと」
母が時計を見て時間を確認して、はっとした感じで言う。
「じゃあ、お母さん出掛けるけどユイはどうする?」
「うーん……。じゃあ、新しいベッドに一回寝てみたいな!」
「そう。分かったわ」
お母さんに手伝ってもらって、車椅子からベッドに移動を完了する。
「じゃあ、行ってくるね、ユイ」
「うん、行ってらっしゃい」
「行ってきます」
そう言って母親が部屋を出た三十秒後くらいに玄関のドアの開閉の音がした。
――お母さんは行ったか。
それを確信して、ユイは体を起こし、部屋を見回す。
本当に、何も変わっていない。全く変わっていない。……でも、変わった。
今、自分が座っているベッドが変わった。入院前と変わった。
……何より自分が一番変わった。
足を床につける。何も感じない。そのまま立ってみる。
駄目だ。足に力が入らない。足で体を移動させるどころか、支えていることすら出来ない。ユイは後ろのベッドに倒れる。
ユイは病院で退院を聞いた時から期待していた。
家に帰れば、今と状況が変われば、ひょっとしたら自分の足も動けるようになるんじゃないか。
何の根拠も無い、ただの妄想であって、ただの希望。小さいユイがこの現実を受け止める為には、そうやってあり得なくても可能性が無くても、自分の中で作られた希望でも、それにすがり付くしか無かったから。だから、ユイは本気でそう思い込んだ。いや、やっぱりこんなの全部夢だ。そんな考えも捨てなかった。
でも、自分は立てなかった。
「やっぱり神様は残酷だ」
その十分後、ユイは眠りに着いた。
枕を濡らしながら。