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生涯(後編)

第6章「生涯」(後編)

 

 天正4年(1576年)1月,“荻野直正”(赤井直正)が拠る“丹波黒井城”攻めの最中に織田家中の“波多野秀治”が離反して叛き,八上城に引き上げました。

 “丹波黒井城”を包囲していた明智軍は“波多野秀治”の攻撃を受ける事になり,応戦するも態勢を立て直す為,摂津国をぬけ坂本城に帰陣。

 4月,“石山本願寺“攻めを“織田信長”公より命じられて出陣。

 5月,“石山本願寺”攻めの最中に天王寺の陣所において病で倒れました。

 11月,光秀は重病となるも,妻の“煕子”の懸命な看病で回復,しかし看病疲れがもととなり“煕子”は病没。 

 1577年(天正5年)8月,“松永久秀・久通”父子が“織田信長”公に謀反を起こし“信貴山城”に籠城。

 10月,総大将“織田信忠”(信長公の嫡男)のもと,“明智光秀”,“細川藤孝”,“筒井順慶”が“信貴山城”を攻撃。“松永久秀”が自刃し,“信貴山城”は落城。続いて“細川藤孝・忠興”父子と共に“丹波亀山城”を攻撃し,“丹波亀山城”が降伏。

 天正6年(1578年)4月,“織田信長”公より“石山本願寺”への転戦を命じられます。

 5月,毛利軍と戦っている“羽柴秀吉”の援軍に向かう為,播磨国へ出陣し7月に坂本城へ帰陣。

 10月,織田家重臣の“荒木村重”が反旗を翻し謀反。信長公は何度か村重の説得に使者を遣わすがその甲斐なく,“荒木村重”討伐を決定。

 11月,“荒木村重”討伐の織田軍に加わる為,光秀は摂津に出陣。村重の居城“有岡城”を攻撃。村重に同調していた“高山右近”らが信長公に誘降。“有岡城”は落城し,幽閉されていた“黒田官兵衛”を救出。謀反を起こした罪で荒木一族は処刑。

 天正7年(1579年),2月,“八上城”攻略,“波多野秀治”討伐の為,光秀は“丹波亀山城”に入ります。


 ここで私は“十兵衛”様と出会う事になりました。これからは“丹波国平定”を成されたその後,十兵衛様の背中を追いかけ,“歴史的な大事件”を起こすまでの僅かであるが共に過ごした時間(とき)を書いていこうと思います。

 

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