生涯(前編)
第6章「生涯」(前編)
ここで“明智光秀”という人物の生涯について触れてみようと思います。
彼の前半部分は不明な点が多く,資料,文献,情報をもとにそれらを引用し書き進めていく事をご理解下さい。
一介の浪人から“織田信長”公に仕えると,その卓越した才能を発揮し,織田家中でも異例の出世をとげました。
政治面では所領において税金を軽減し治水工事を行うなど領民から慕われ,外交面では“室町15代将軍 足利義昭”を“織田信長”公に会わせる事に成功するなどその手腕を発揮,教養にも富み鉄砲の腕も優れていたそうです。
しかし,“織田信長”公の天下統一に尽力するも突如謀反を起こし,“本能寺の変”にて主君を討ちました。
主君を討つも味方する者が現れず,毛利攻めの為“備中高松城”を攻めていた“羽柴秀吉”が“中国大返し”にていち早く戻り,“山崎の戦い”で両者は激突,しかしその戦いに敗れ,逃走中に襲撃されその生涯に幕を降ろしたそうです。
“本能寺の変”で主君の“織田信長”公を討ち,自らが手にした天下はわすが11日であったとか・・・。
亨禄1年(1528年) “明智光秀”が生まれたとされます。
天文15年(1546年) 光秀18歳の時,最初の妻(正室)と結婚しますが後に死別。
天文22年(1553年) 光秀26歳の時,継室として“妻木範煕”の娘“煕子”と結婚。
弘治2年(1556年) 美濃の“斉藤道三”を討った“斉藤義龍”が明智城を攻撃し,落城。
光秀の叔父“明智光安”が討死し,本拠を失い浪人となり困窮する生活を送ったとされます。
母方の若狭武田氏を頼り,後に越前国の“朝倉義景”に仕えました。
永禄9年(1566年) “足利義昭”が“朝倉義景”のもとに亡命した事で光秀は“足利義昭”の幕臣に。
永禄10年(1567年) “足利義昭”と“織田信長”公を仲介。
永禄12年(1569年) “三好三人衆”が“足利義昭”を襲撃しますが,光秀らが撃退。その際“織田信長”公より“羽柴秀吉”と共に二条御所の普請に命じられ,“丹羽長秀”,“中川重政”と京都奉行に任ぜられました。
(後の章で光秀と秀吉の関係を書きますが,織田家に中途採用ながらある程度の地位で入りその才能と手腕で出世をとげた“明智光秀”,主君の草履を懐で暖める所から始め苦労を重ねて頭の回転の良さと人を楽しませる能力で徐々に出世した“羽柴秀吉”。真面目な光秀と人気者の秀吉。2人は互いを敵視し,信長公は2人の相反する所を上手く利用して競わせ天下統一を進めたのではないかと私の勝手な思考を踏まえ思っています。)
元亀2年(1571年) 比叡山焼き討ちで,中心的役割から武功をあげ“織田信長”公より近江国滋賀群5万石を授かり,“足利義昭”と決別し,信長公の直臣に。
元亀3年(1572年) “坂本城”の着工を始め,その後に入城。織田家重臣の“柴田勝家”らと共に摂津国河内を転戦,小谷城攻めも参戦。
天正1年(1573年) 石山本願寺勢が籠る今堅田城を攻略。
天正3年(1575年) “織田信長”公より“丹波攻略”を命じられ,7月,信長公の働きかけで朝廷より“惟任”に任ぜられ,“日向守”を授かり,“惟任日向守”を賜ったそうです。
同年8月,“丹波攻略”より“越前攻め”が優先され,越前国制圧の後,“羽柴秀吉”と共に加賀国へ攻め入り,9月に坂本城へと帰陣。