平定
第5章「平定」
“波多野秀治・秀尚”兄弟が十兵衛様に引き渡された事で八上城は陥落します。
天正7年6月某日,波多野兄弟は信長公のおられる“安土”へと護送され,その後処刑となりましたーーー。
光秀 「八上城を落とした今,一時の休息の後,“丹波平定”の総仕上げを行う,各々方,これよりが肝心である!!」
家臣一同 「オッーーッ!!!」
光秀 「大和,貴方の活躍あって八上城は落ちた。此度の“大役”,大義である!!褒美を与えよう,それと以前申していた“平成”とやらを聞きたいのだか!?」
私 「有り難きお言葉。身に余る思いにございます。“平成”の事ですが・・・ここよりずっと南,大坂の近くにある町にございます。」
(「“平成”の事は決して話せない。439年後の世。つまり十兵衛様がこの後起こす“事件”を知る事となる。誤魔化すしかない・・・。」)
光秀 「大坂・・・。貴方は時代と申していた。儂は今より先の世の事ではないかと考えていたのだが・・・。」
私 「!?」
家臣 「失礼仕る。殿,宴の用意が整いました。」
光秀 「あいわかった。大和,貴方も来るがよい。疲れを癒し,骨を休めよ。」
ちょうど返事に困った瞬間で,家臣が声をかけてくれたので助かりました。
そして戦いの疲れを癒す,祝の夜が賑やかに行われましたーーー。
私 (「十兵衛様はもしや“平成”を先の世と感ずかれておられるのか・・・。」)
天正7年(1579年)7月19日,明智軍は“宇津頼重”の立て籠る“丹波宇津城”へ進撃,明智軍の総攻撃に頼重は城を捨て逃げ出しますが,捕らえられ処刑となります。
一気に近くの“鬼箇城”も攻め近隣を焼き払い,8月9日“赤井忠直(直正とも)”の立て籠る黒井城に攻め寄せました。
城兵は果敢に城外に打って出ますが,敵わぬと見るやすぐさま城内に逃げ戻るも,明智軍の追撃により数十人が討ち死,“赤井忠直(直正)”は丹波の大半が織田方に落ちた状況に観念し,諸条件をもうけて十兵衛様に降伏します。
十兵衛様が丹波に攻めいってから約4年が過ぎ去り,遂に“丹波平定”は成し遂げられました。
報告を受けた信長公は「長期に渡り在陣し,数々の戦果をあげたのは比類なき功績。」と褒め称え,十兵衛様に感状を贈られたそうです。
私 (「私が十兵衛様と出逢って半年。八上城を攻めいってからの2か月,激動の如く進撃され“丹波平定”を成された。この時代を生きる人達は,現在よりはるかに色々な事て苦労しながらも“強く生きている”その代わり寿命が短かい事が引き換えではあるが・・・。戦国時代を見れた事は私のこれからの人生に大きく影響するだろう。但しそれは,生きて“平定の世”に戻れたらの話だか・・・。」)