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秀吉と光秀(中編)

第11章「秀吉と光秀」(中編)


 ここで“秀吉”,その人物について触れたいと思います。  

 資料,文献をもとに彼が歩んだとされる人生を“本能寺の変”が起こる前までとし,書き進める事を御理解下さい。 


 身分の低い出身を妬み,出世と高い身分を求め,その為に生き抜く術として,柔軟な思考と巧みな交渉術に大将各の器を身につけ,人望と知略に長けていた人物と考えます。


 幼名を“日吉丸”,“小竹”,“藤吉郎”(諸説有り)と言われ,尾張国愛知郡中村郷の下層階級の出身とされます。

 

 父は足軽(農民)であった“木下弥右衛門”,母は“なか(後の大政所)”とされ,父が死別した後,再婚するもその相手と折り合いが悪く,家を出て“侍”になる事を決意,放浪の旅を続け各地を渡り歩いたと言われています。

 

 やがて遠江国(現在の静岡県西部辺り)の“今川義元”配下の家臣“松下之綱(まつしたゆきつな)”に仕える事に。


 “木下藤吉郎”と名乗ったのがこの頃とされ,“木下”の名字は父から継いだ性や妻の“おね”(後の北政所)が元々,木下家であり結婚して家督を継ぎ木下性となったなど,名乗った時期と理由も色々と説があるようです。


 “松下之綱”に目をかけられた藤吉郎ですが,人より優れた点があったようでそれが同僚との不仲につながり追放されたか退転し,織田家に仕えたとされます。

 (後に天下人となった藤吉郎。“桶狭間の戦い”にて“今川義元”が討たれ,”徳川家康”公に仕えるも居城を“武田勝頼”に攻めいられ降伏し浪人となった“松下之綱”を大名の身分まで引き上げたのは,この時目をかけられた事に恩を抱いていたからだと言われています。)


 織田家に仕え,“小者”という身分で信長公の身辺の雑用をこなす役目を担い,それは体格がさほどよくなかったので戦闘に駆り出される足軽を避けた,信長公の身辺につく事で出世を狙ったとの見解も。

  

 気性の荒い信長公が仕官を許し,自分の身辺の雑用を任せた事は,すでに藤吉郎の才覚を見抜いていたとも思えます。 


 藤吉郎の努力は実り,信長公に存在を覚えてもらう事になり,“懐に冷えた草履を入れて温め,信長公に差し出して気に入られた”との有名な逸話があります。


 信長公に認められ,内政面での活躍(清洲城の普請奉行,台所奉行を任せられる)が目立ち,少しずつ身分を得た藤吉郎は織田家臣“浅野長勝”の養女“おね”と結婚。


 永禄3年(1560年),信長公の尾張国に“今川義元”が大軍を率いて侵攻,これに対し奇襲をかける事で今川軍を見事撃退。(桶狭間の戦い) 

 三河国で自立を果たした“松平元康”と同盟を結び,東からの脅威に対抗。

 勢いついた信長公は北に目を向け,美濃国攻略を決意し実行に移します。  

 実力行使で挑むも上手くはいかず,調略(敵を寝返らせる)をもって美濃国攻略を進める事に。 


 この調略に貢献したのが藤吉郎その人であり,他国の武将と交渉するにあたり相応の名を必要とし,新たに“木下藤吉郎秀吉”の“秀吉”の名が現れたとされます。 

 

 永禄7年(1564年),美濃国の当主“斉藤龍興(さいとうたつおき)との戦の中,秀吉は美濃の複数の豪族を織田方に寝返らせる事に成功。


 人付き合いを上手くこなす(優れた才覚が同僚からの妬みとなるも我慢や柔軟な思考で回避する)秀吉は,交渉術に長け,調略に抜群の人物であったようで,やがて織田家有力武将の一人としてのし上がりました。 

  

 能力があれば元の身分に関係なく,ふさわしい立場をとらせるやり方こそ,従来の思考から抜け出した信長公の人材活用術の良さが見受けられます。


 永禄9年(1566年)秀吉は“蜂須賀正勝”,“前野長康”を配下に組み入れ,“墨俣一夜城”を建築した逸話などあるように城の築城にも才があったように思います。  


 信長公の美濃国切り崩し工作は続き,当主“斉藤龍興”に不満を抱く家臣達が徐々に寝返る事になり,ついに“美濃三人衆 (稲葉良通 安藤守就 氏家直元)”と呼ばれる有力武将達が離反し,織田家配下に入った事を機に,“斉藤龍興”本拠である“稲葉山城”を包囲。


 永禄10年(1567年),“稲葉山城の戦い”にて遂に“稲葉山城”は陥落。“斉藤龍興”は追放され北伊勢の長島へと亡命。“斉藤龍興”が大名として再び戻る事はなく,越前国の“朝倉義景”のもとへ逃れるも朝倉軍が織田軍に破れ追撃を受けた時,戦死したとされます。


 この後に秀吉は名軍師として名高い“竹中半兵衛”を与力としてくれるよう信長公に申し出,家臣層の充実も行ったようです。



 

 


 

 

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