嘆きによって動かされたもの
開かれた神殿の扉の前でアリアが止まり、大きな神樹に叩頭礼をすると厳かに階段を降りていく。一人扉の前に取り残されごくりと息を飲み込んだメイは、中に踏み込む前に後ろを振り返った。
言葉少なくトライドで過ごした三日間では、一番多く話したアピーが目を潤ませてメイを見つめている。既にぽろぽろと翠色の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちているが、メイは込み上げる涙を堪えて無理やりに飲み込んだ。そして見送りに居並ぶ人々に控えめに手を振ると晴れやかに笑う。
「有難う」、
〈有難う〉、
[有難う!]
国が変われば言葉が変わり、少女はどの国でも初めの質問に必ずこの言葉を教えて欲しいと尋ねていた。それに気付いていたのはオルディオールとエルヴィーのみ。
『アョナラ!』
異世界語での別れの言葉を残し、少女は真新しい神殿の中に踏み込んだ。
***
ーーー十日後、ガーランド第三の砦。
〈鳥ルスより緊急!〔巫女様、天上への帰還ならず〕〉
〈ファルド軍、第八師団の存在をグルディ・オーサ内で確認!〉
〈エスクランザ神官兵を取り調べたところ、エスクランザの聖歌、天上への送りの歌は、正式な歌い方ではないそうです〉
取り調べに、高位の神官兵を数人捕らえて拷問した。簡単に口を割らなかった彼らだが、苛烈なガーランド兵の暴行により一人一人が端端を漏らしてしまう。それを繋げて明らかになったのは、一週間かけて行われる天上人の送りの儀式の聖歌は、通常とは異なり変えられていたという。
*
メイが神殿に入って直ぐに、ガーランドの諜報部隊〔鳥〕は、第三の砦隊長オゥストロの指示でエスクランザの動向を調べていた。粛々と始まった鎮魂歌と天上への聖歌。祭事の行動に不審の無いエスクランザの神官と巫女たち。だが十日目の早朝、立ち入ることの出来ない小さな神殿を、遠巻きに観察していた鳥の一人が、神殿内で泣き叫ぶ巫女の少女の叫びを聞いた。
〈間違いなく、メイ・カミナの巫女様ご本人の声でした〉
いつもは特徴のない人当たりの良い笑顔の男は、今は怜悧な瞳でテイファルを見つめる。グルディ・オーサ基地に現れた、一見ファルド出身にも見える優男は、手に石繋ぎの腕輪をはめていた。石売りとして少女と対面した事のある男は、母親から大犬族の血を繋いでおり、人よりもよく聞こえる耳で、巫女の少女の悲鳴のような泣き声を捉えたのだ。その直後、鳥の男は即座にエスクランザの神官を一人ずつ捕らえて聴取を開始したのだが、結果は聖歌の本歌が抜けているという偽りの送り聖歌だった。
天上国へ帰れると、嬉しそうに診療所を歩き回っていた少女は、十日目の早朝に、引き裂かれた様な悲鳴で誰かに嘆きを訴えた。その声は、今も聞いた者たちの耳の奥に突き刺さっている。その一人である鳥のルスは、作り笑顔を消して、エスクランザに怒りを顕わにした。
〈これは、エスクランザがメイ・カミナの巫女様を、我が国より奪おうとの企みです〉
鳥の男を流し見て、テイファルは立ち上がり周囲に居並ぶ竜騎士に命じた。
〈第三の砦に緊急伝令を。俺たちは、先に大森林の神殿に向かう〉
*
〈グルディ・オーサの森に配備された者たちは、エスクランザの者たちを拘束しろ。抵抗すれば、魔法攻撃発動前に武力制圧に移行〉
珍しく気落ちはしていたが、素直にメイを天上に帰すと言った。性悪で計算高いエスクランザ第二皇子の素直さを、意図があると考えていたオゥストロは、報告を受けてガーランド第三の砦から飛び立った。
〈天上人、メイ・カミナの確保を最優先に!〉
**
ファルド軍、王都守備隊第一師団が帝都を出た。
皇帝を護る特別な白銀。帝都内でしか見ることの出来ない王城守備隊が、真白い隊服に身を包み行軍する。その美しい列に人々は熱狂したが、正門から大西門を外へ出た事に、誰しもが驚愕して異例な出来事を見送った。
皇帝アレウスの命令により、高貴なる天上人の確保を目的としている彼らは軍道に入ったが、トライド国の管理区域で足止めされる。軍道の一部は自国の領土だと主張するトライドに、苛立ったメルビウスは武力制圧を実行しようとしたが、それを参謀であるクラストファルに強く止められた。
「副団長、これは和平の象徴である、天上人の巫女姫をお迎えに行く道なのです。我々ファルドが〔先に〕剣を抜いてはなりません」
「ならば疾く、あの目障りな破落戸共を、俺の前から退けてみよ」
クラストファルと交渉に臨んだのは、トライドで参謀を務めるゼム・フロインベール。だが難航するかと思われた話し合いは、トライド側が提示した、領土の通行料で片がつき武力衝突とはならなかった。拍子抜けに道を譲ったトライドの者たちを訝しむが、今は先を急がなくてはならない。
「お気を付けて、ファルド帝国第一師団の皆さま。これより先は、少々場が荒れるかもしれません」
「どういう事か?」
「我が軍の情報によると、グルディ・オーサの森にて、駐留中のガーランド竜騎士団と例の南方からの客人が、何やら揉め事となっている様です」
***
ーーーグルディ・オーサの森西側。
〈なぜ君が、我々ガーランドの邪魔をするのだ!〉
〈邪魔なんかしてないよ。ただ退屈だから、遊ぼーよって、言ってるだけだよ〉
ガーランド第三の砦よりも、グルディ・オーサ中立区域に駐留していた部隊が、天上人の少女の確保とエスクランザ神官兵への牽制に森に先行した。だが魂の眠る森の上空域に差し掛かった頃、ひらりと流れてきた黒い陰に動きを止められる。鷹豹の男が何やら飛竜に話しかけると、騎士の言葉を無視して飛竜は獣人と話し始めた。
〈メズルール、頼む、森に向かってくれ、〉
何度急かしても、テイファルの相棒であるメズルールはフェオの話に耳を傾け動かない。そのうち、続く部下の飛竜までが彼らの会話に聞き入って、上空で輪になり話し始めた。
〈どうするのだ、こんなの初めてだ、〉
〈テイファル分隊長、東より、新たな伝令が!〉
〈なんだと!?、あっちもか、どうなってんだ!?〉
大森林に守護隊として配置されていた者たちが、いち早く巫女の少女の確保に動いたはずだった。だがそこでも突然現れた大獅子に縄張りを主張され先に進めず、上空から直接神殿に向かえとの内容であった。異例に異例が重なって、竜騎士たちの混乱は深まっていく。
〈分隊長!!〉
〈今度はなんだ!!〉
未だ何かを話し込み、上空で足止めされている間抜けな自分の部隊。森の手前で不自然に身動き出来ずに宙に浮いた十人の竜騎隊に、更に別方向から一騎が飛来した。
〈ファルド帝国メルビウスが率いる第一師団、グルディ・オーサに侵入しました!〉
〈トライドは?、なぜこれを止めなかった?〉
〈トライド軍対策室隊長ゼム少将により本隊へ、〔天上人の巫女様へ、ファルド帝国が、第一師団の観兵式を、天上に捧ぐ〕〉
〈何が観兵式だ、トライドめ、きっと金で通しやがった。・・・だがそうか、観兵式。ならば天に剣を捧げると、ファルドはもちろん帯剣しているわけだよな?〉
〈数はおよそ千〉
〈そうかそうか。メルビウス、ヴァルヴォアールの次、ファルドの副団長は、グルディ・オーサ戦で出て来たと噂の奴か〉
オゥストロの一撃に負傷したはずだが、直ぐに戦線に復帰した頑丈なメルビウス。新たな戦いの臭いに血を滾らせたテイファルだが、未だフェオと話し込む相棒の飛竜を見下ろした。
〈メズルール!!行くぞ!オゥストロ隊長に、抜かされちまう!、てかあんた!!話し掛けないでくれよ!!!〉
ビシッと指を突き付けられた。〈んん?〉と、それを目の端にとらえた光り無い黒の瞳は首を傾げる。
〈やーーーだよ。〉
〈・・・・この、クソ鳥、〉
**
ファルド帝国が神殿の大森林に隊列をなし、ガーランドの神殿守護隊と小競り合うが、未だエスクランザによる聖歌は微かに流れている。ガーランド第三の砦より、黒竜騎士が武装してグルディ・オーサに出撃したが、グルディ・オーサの森の上空、鬱蒼と蔽い繁る森の中に真新しい小さな神殿に行き着くまでには、飛竜から降りなくてはならない。だが神殿にほど近い場所で、飛竜から降りようとしたオゥストロ隊を遮った者が居た。
「これはこれはガーランドの黒竜将。お久しぶりにございます」
慇懃に礼を取った真白い隊服の偉丈夫は、舞い降りた黒竜騎士へ白い歯で笑った。無言で見下ろしていたオゥストロは、メルビウスの背後にズラリと並ぶ銀色の騎士団の隊列を睥睨する。
〈ファルド帝国!なぜ帯剣してこの森に侵入した!!〉
上空より地に落ちた竜騎士の声は、オゥストロに続いて待機していたエスフォロスのもの。青空に待機する竜騎士たちと、一触即発に睨み合う両軍に緊張が走るが、それを再び涼しい声が遮った。
〈ここより先は、天の領域だ。お前たち、天上に鎗を向けるのか?〉
淀みないガーランド言葉。だがそれを口にしたのは、金朱の瞳に褐色の肌と黒髪の男。ファルド帝国のかつての英雄、オルディオール・ランダ・エールダーと呼ばれた者。オーラ攻略には参戦せず、その姿を初めて見たファルド帝国の王城守備隊は、動揺にどこからともなく呻き声が漏れ出た。
「あれが噂の、オルディオール、エールダー公か?」
「本当であったのか、」
唯一森が抜けた騎乗場所、現れた者たち。その中の一人がファルド帝国のかつての英雄だったのだが、これにエスフォロスが首を傾げた。
〈あれは、オーラ城で消えた魔戦士十九ですよね?十九は五十年前に喪われた、第三の砦の竜騎隊の一人です。なぜ今ここに?〉
〈かつての我が国の英霊が、ファルド帝国のかつての英雄の身体に宿ったままとは奇妙だな〉
目の前の不自然な英雄は、晴れやかには笑わずに腕を組んで足を肩幅に開いている。ガーランド竜王国では当たり前の挑発姿勢に、上空で待機する者たちも疑問に顔を見合わせた。
〈確か天上人の天への帰還は、竜王もお認めになったもののはずだ。それに反してここに居る、第三の、お前たちの行動は独断か?〉
〈・・・・・・・・〉
〈黒竜の乗り手、オゥストロ。その名を墓石に刻みたければ、竜王の命には逆らわない事だ〉
〈〈!?〉〉
ざわざわと、動揺したのは名指しされたオゥストロではなく、彼の部下である者たちだ。五十年前のグルディ・オーサでの犠牲者、他国で死んだ英雄たちの数は故意に減らされている。誉れ高いガーランドの竜騎士が、他国で犠牲となるはずがないと数が減らされて、名も無い墓石が第三の砦地区には存在するのだ。竜王の命に逆らうことは、生きてきた存在を消される事である。
〈・・・・〉
赤の英雄だ国賊だと、呼ばれた先祖の名も王族によって消されて調べる事も出来ない。その現実をひたりと見据えたオゥストロは、無言で手にした黒鎗を立ちはだかる男に向けた。
〈そうでなきゃな。楽しもうぜオゥストロ。生きてるって事をな〉
慣れない二刀流に、未だ片手に剣の鞘を手にする。かつてのファルド帝国の英雄の身体と、ガーランド第三の砦竜騎士の魂を宿した男は、魔戦士という生命体としては不完全なものとなる。過去に恐れられた魔戦士の功績は、戦い方を知っている者たちによって最強だと、国内外に伝わったものなのだ。
そう広くは無い森の騎乗場所、そこに立ちはだかった敵を排除すべく黒竜騎士が滑空する。それに応えるように倒木を足場に躍りかかった数字で呼ばれる英雄は、突き出された大きな黒鎗と刃を鳴らした。
[そんなこと、してる場合なの?]




