爪痕の思い出
ーーートライド王国、ノイス家別邸。
「あった、うふ、」
若い青年に案内された屋敷の一室。訪れたことのある貴族の屋敷の客間で、アピーは自分が足跡に付けた印を暖炉で発見した。その後も町を探索していた様に、部屋の中で匂いを辿りながら自分の付けた印を探している。
「あ、これ、イグのかな?ヤグかな?」
誰かの匂いに気付いて覗き込んだのは、複雑な模様の大きな花瓶の裏側。葉が入り組んだ模様には金箔に縁取られるが、よく目を凝らすと誰かの爪痕が付いている。
「・・・・ヤグだね。きっと」
思い出したのは、ガーランドでの軽薄な遠鳴き。王城で想い人のファルド騎士エスクが、今何をしているかを考えていたアピーに、ヤグはしつこく軟派な声かけを鳴いてきた。
(ヤグはもうすぐ発情だって言ってたから、他に相手が見つからなかったのかも)
初めて出会ったのは真っ暗な隣の檻。そこでは会話もなく、他の種族の獣人として認識出来たのは、グルディ・オーサ基地の医務室だった。しかしその病室でも、イグとヤグは会話をしていたが、アピーはほとんど話しかけられた記憶がない。
(婚姻相手、お嫁さん探しに南方から来たってことだけは、ミギノを追いかけている途中で聞いたけど、・・・発情・・・)
ガーランドの、第三の砦で別れた彼らの行き先の詳細は知らない。ただ一緒に行くと誘われた日に、北の方に行くために船に乗る話はしていた。生まれは違うが同族だから、一緒に行くかと誘われた。だがアピーは、エルヴィーの拷問される部屋に、見学しに行くと言った二人の少年とは楽しい旅が出来るとは思えなかった。
(ミギノに付いてきてよかった)
その後、ガーランドでは軽薄な軟派を鳴いてきたヤグ、ますます少年たちに距離を感じたアピーだが、この先の行き先をふと思う。
「・・・ファルド帝国に行くのかぁ・・・」
ぽつりとこぼれたため息。大好きな少女ミギノの身体は、今はオルディオールという別のものに支配されている。いつもアピーに笑いかける可愛い表情ではなく、今は口を尖らせてアラフィアと共に椅子に座っていた。
(・・・オルディオール玉さんは、どうしてもファルドに行きたいのかなぁ・・・)
あの青い玉は、五十年前のファルドでは国王の隣に居たらしい。将軍や騎士団長が偉い立場だとは理解できるが、その者たちを目にする事はファルドでは無かった。
〈もう少し、穏やかに事を進めてくれよ〉
〈了解、〉
〈ここはトライドで、先行した奴らとはファルドで合流。助けに来ない〉
〈了解、〉
〈スアハでさえ、大人しく見てたんだぞ〉
〈了〈だって、オルディオールにとりあえず見ててって、言われたからね。スアハは大人だからね〉
〈了解。〉
アラフィアがエスフォロスに怒られた。姉弟である彼らもガーランドの第三の砦では、砦長のオゥストロの部下であり、彼らもそれぞれ部下を抱えている。
(みんなを管理する、上に居る人たち・・・)
彼らの立ち位置で想像出来るのは、自分が幼い頃に過ごした施設を管理していた者たち。同じような年齢の子供たちや兄弟姉妹と過ごした日々は、自分たちの値段を上げるために学ばされた言葉と、身体を丈夫にするための適度な運動という遊び。毛艶の良い子は褒められて、他の子よりも多くご飯がもらえる。それを管理していた女性もまた獣人で、彼女は躾に厳しかった。
(・・・・・・・・)
アピーが大好きなエスクにも、グルディ・オーサでは部下がいた。遠くから眺めていた青年には、年齢に関係なく兵士が先に敬礼をして通り過ぎる。上に立つことはアピーの居た施設長と変わりがないように思えるが、怯えて施設長を見ていたアピーとは違い、〔部下〕という彼らは、上に立つ者に親しげに笑いかけたりするのだ。
(だからファルドに行きたいのかなぁ、・・・玉さんにも、きっと笑ってくれる部下が居るのかも。だから玉さんは、きっとファルドが恐くはないんだよね。そうだよね、アピーとは違うよね)
戻りたくない国。戻りたくない過去。
(・・・そうだよね。アピー、ファルドに行っても、あの施設に戻るわけじゃないものね。ミギノと一緒だものね、・・・それに、)
ファルド帝国には、エスクランザ国で見送った、アピーの想い人が居るのだ。へたりと下がった尾は、恋心に自然にゆらゆらと揺れる。今は大きな飛竜と友人である、頼もしい仲間たちと一緒なのだ。そして子供のアピーよりもこの国の事がよく分からない、不思議な匂いのする少女ミギノを改めて見つめた。
アピーにとっての施設長のように、オルディオールが怖いのか、それとも上に立つ者たちにも笑顔を見せる〔部下〕と同じ気持ちなのかは分からない。ただ少女は今、オルディオールの命令に身を潜めている。
(・・・・・・・・)
彼らはお互いを罵りあう。少女ミギノは青い玉の愚痴を言い、オルディオールはミギノが身体を取り戻そうとすると苛々と怒り始める。
(怖いのか、仲良しなのかわからないけど、ミギノががんばってるから、アピーもがんばる!)
離れたくない仲間。心地よい現在。
それを守る事が大切だと、アピーは過去を怖がる自分を勇気づけた。




