爪痕の重さ
〈・・・・・・・・・〉
ーーシャッ、ザリザリ。
〈・・・・・・・・・フン、〉
美しい帆船。初めて乗った、ガーランド国の大きな船に内心浮かれていた。無人が得意とする几帳面に研磨された欄干の彫刻。その中に苦手な飛竜の形も見つけたが、精巧な作りに感心して思わず自分の印を爪で彫り込んでみる。
ーーシャッ、ザリザリ。
(これも俺のもの)
陽当たりの良い甲板、見晴らしの良い見張り台。吹き抜けるのは心地よい潮風。思ったよりも乗り心地の良い船、そして目の前には、ヴェクトの頬を叩いた特別な少女が彷徨いていた。
(あれも俺のもの)
保護する者が目の届くところに居たことに満足し、小さな背後に忍び寄る。衣服に隠れているが、少女の首回りには今もヴェクトの牙の印があるのだ。背後に立つ大獅子にも気付かずに、黒頭は呑気にきらきらと輝く波を眺めている。なのでヴェクトも、少女と共に広大な海を見下ろすことにした。
(いい陽射しだな。こんな日は、日陰で昼寝に・・・ん?)
見下ろした碧い波間。その中に、少女を狙う目障りな碧い目を発見する。
〈あのガキ、マジか、〉
ーーザ、バシャアアンッ!!!
〈・・・・・・・・〉
『・・・・・・・・』
先ほどようやく見えなくなったプルムの港。メイにすがり付き最後まで騒いでいたスアハは、豆粒になるまで未練がましく船を睨んでいたと、フェオから聞いたのはついさっき。おそらく高速で船に追い付き、少女を見定めて甲板に跳ね上がって来たのだろう。波と共に打ち付けられた水飛沫を頭から被せられ、乗り込んだ者を呆然と見つめると、それは生意気にもヴェクトの視線に歯軋りを鳴らした。
〈アーアー、来ちゃったんだー、〉
抑揚の無い声の主は、上空に飛び去り水飛沫を躱したフェオ。だがいつもへらへらとつり上がる口角は、珍しく言葉と同じに下がっている。
〈メイー!なんでスアハを置いて行っちゃったの!!〉
陽に照らされた美しい銀色の肌。虹色に輝く耳鰭を動かして、美しいスアハは黒髪の少女に飛び付いた。
『チョッ、アメテ!、ウメタッ!』
目の前でスアハはヴェクトの少女に巻き付いたが、全身に滴る塩水にぼんやりして、それを無言で見過ごした。するとふわりと横に降り立った、鳥族の青年は未だ首を傾げている。
〈どうすんの、これ、〉
〈・・・・・・・・〉
〈ていうかさ、ヴェクト。これ、スアハの親は知ってるのかな?〉
〈・・・はあ?、親?関係ねえし。こいつの意思だろ〉
〈スアハの母親、噂の蛇魚の女狩人。まさか他部族にまで、追跡かけてこないよね?〉
〈なんの追跡だ。自分のガキが心配なら、ここに居るからとっとと連れて帰ればいい〉
〈違うよ。外に出た真存在を、子供だからって追いかけて来るわけないだろ?責任の追跡だよ。スアハが付いてきた一番の要因はメイだろうけど、あの子はスアハの番候補だから除外されるだろうし。そのメイを取り合って、他国に行くって言い出したのは俺たちっ、・・・ていうかヴェクトだよね。番候補の中では、俺よりヴェクトの方が、責任あるよね?〉
〈だから?なに言ってんだ、お前〉
〈そしてこの船、ヴェクトの縄張り多すぎだよね。ていうことは、この船もヴェクトの管理下にあるよね?まあ、動かしてるのはガーランドだけど。あの子を簡単に乗せちゃったね〉
〈・・・・・・?〉
気に入った物にはたくさん印を付けてみた。それに異論はないのだが、管理下と言われた違和感に今度はヴェクトが首を傾げる。
〈あの子まだ、未変化だし成人してないし、今の保護者が誰かと言われたら、それは地の長候補のヴェクトだと思うんだよね。ヴェクトを群れの先頭として、付いて来ちゃったんだよね〉
〈森の泉では、ガキどもの守護者気取ってたのは、何処の鳥族だ?お前が弱者を護ってやれよ。空の守護者〉
〈ソレを言うならソレとコレこそ別だよね。縄張りも、俺はこの船、屋根の上しか主張してないから。あ、あと布張りのあの支柱。・・・だからね、蛇魚、任せたよ!次こそは地の長!〉
バサリと翼を羽ばたかせ、嫌味を置き去りに飛び上がった。そして支柱の一つに腰掛けると、フェオはいつもの人を馬鹿にした表情で笑っている。
〈・・・・・・・・〉
縄張りの主張。自分の物だとの印付け。それに一切の否定の無いヴェクトは、自分の噛み痕を首に残した少女を見下ろした。水を滴らせたまま、いつの間にか無言でこちらを見上げていたメイの片方の眉毛は、ヴェクトを試すように挑戦的に上がっている。更にその隣には、元凶の蛇魚が碧い目を眇めて威嚇音をギギギギと発し始めた。
『オリオトコ、フレームアウトスタノ?ニィケタノ?』
意味はわからないが、おそらくメイは文句を言っているのだろう。この群れの代表者に、スアハの指導を求めているのだ。
〈・・・・・・・・・・・・・・・・まあ、とりあえず、魚のガキ、お前に聞きたい事がある〉
〈ヴヴヴヴ、ヴヴヴヴ、〉
〈海の部族は海長の言葉に従うはずだ。お前、長から許可を貰っているか?〉
〈ヴヴヴヴヴヴヴヴ・・・〉
〈海長は、お前の出国を認めたのか?〉
突き付けられた質問に、美しい蛇魚の子供は目を逸らし、海を眺め始めた。その態度に、ヴェクトのこめかみに青筋が浮き出る。
〈聞いてんのかガキ!ウォラ!!グルァッ!!!〉
答えられない質問、明らかにやましい余所見。言うことを聞かない子供に怒りを吐き出したヴェクトだが、男とも女とも分からない中性の蛇魚の子供は、生意気に筋力の乏しい胸を張った。
〈ヴェクトはスアハに暴力するの?スアハまだ、変異前の子供なのにっ!!、スアハかわいそう!、ヴェクトは、・・・・情けな。〉
後半小声で呟いた悪口に、ピクリと動いた大獅子の耳。大獅子にも畏れずに、飛竜にも歯を剥き出す蛇魚の子供。真存在の戦士としての見込みはあるが、今は伴わない過剰な実力の主張に、他部族の長の教えを疑問視する。
〈・・・クソガキ、お前は本当に海長の言葉を聞かないのか。海長は、お前に真存在としての教えを怠ったのか?〉
〈・・・・・・・・海長?、海長は、わりとうるさく教えてくれるよ〉
部族の長の言いつけは守らなければいけない。大人の小言を聞かない子供は多いが、長の言い付けは真存在の者には重い縛りとなる。今回、無人の少女と共に、南大陸を出ると駄々をこねたスアハには、それは駄目だと海長から厳しく言い付けられていたはずだった。
〈ならば自分の長の、教えに従え。お前は海長よりも、弱いだろう〉
〈だって海長に、スアハがついて行かない間に、メイをヴェクトに取られたらどうするのって、聞いたの。そしたら、刻が来ればわかるって、よくわからない言葉を言ったの〉
〈?〉
〈だから、スアハは言いつけを守って、皆がお船に乗るのを海長と見ていたの。どんどんどんどん、お船が遠くなって、悲しくなって、スアハは海長に、刻って何なのか聞いてみたのよ。そしたら海長、メイが見えなくなって、お船が見えなくなったら、スアハの心にどうしたいか聞いてみなさいって。またよくわからないことを言ったの〉
〈・・・・〉
〈海長、なんて曖昧〉
頭の上から平坦な声が落ちた。それにも苛立ちは募るのだが、目線は蛇魚から外さない。
〈だからお船が見えなくなったから、スアハはスアハにメイを追いかけようって聞いてみたの。もちろんスアハは〔うん〕て言ったの、だからここに来たのよ〉
〈・・・・・・・・・・・・〉
〈まあ、海長・・・、スアハの両親がすごく苦手そうだもんねー。曖昧な言葉で、その場をやり過ごそうと、したのかなぁ?、まだ成人していないその蛇魚、こっちに責任丸投げしたのかも。ププ、〉
〈俺は蛇魚なんてどうでもいい。こいつが俺の邪魔にならなければな?オイ、わかってんのか?ガキ、ならお前は、別大陸では俺に従うんだな?〉
〈・・・・〉
重要な話を聞き流して、また余所見をした。これにヴェクトは怒りを隠さず、小さな者へ苛立ち喉の奥を鳴らす。
〈・・・・・・・・あ、グザさんだ〉
ーーぱしゃん!
〈!?、〉
大切な説教の途中だが、ヴェクトの答えをはぐらかしたスアハは、海の中に仲間を見つけて飛び込んだ。
〈あーあー。あれはさすがに、ダメだよねえー〉
〈・・・・・・・・・・・クソガキ、〉
無意味に過ぎ去った刻。乾きはじめた頭髪と衣服。降り注ぐ陽射しに苛立ちを目を瞑ってやり過ごす。
〈ヴェクト、頑張って!〉
〈グルァッ!!ウルセエ!!〉
笑うフェオの微塵も心にも無い余計な声援に、ヴェクトを癒していた陽射しの効力が薄まった。支柱に寄り掛かり人を馬鹿にする鳥族、苛立ちの矛先を空に変えようとしたヴェクトだが、再び頭から大量の水飛沫がバシャンと振ってくる。
〈・・・・、・・・・、〉
〈キャハハハ!キャハハハ!〉
〈・・・クソガキ、そこから一歩も動くなよ、〉
またもや水浸しで飛び込んできた分別の無い子供に、ヴェクトはこの群れの長として、根気強く何度も子供に注意を言い聞かせてみた。
だが、それは全く通じることは無く、スアハは何度も同じ事を繰り返してしまったのだが、ヴェクトはそれを、初めて南大陸から外に出た興奮だと、大目に見ることにした。
***
ーーー帆船の支柱の上。
〈・・・なんだ、つまらないな。意外と冷静だね。ヴェクトがスアハの指導の失敗をして、蛇魚の両親に追いかけられるの、見たかったー。ププ、〉