ある絵本の一頁
翼の少女と竜の騎士のお話
二頁目。
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ーー青い大きな月が輝く夜空の下。
ーー力強く風が森の木々を揺らす。
ーー闇を裂き耳に響いた風鳴り音。
ーー思えば、あれは悲鳴であった。
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〈動いたぞ〉
夜は完全に更けて、周りが寝静まった頃。
音を立てないように忍び、兵舎の裏手へ歩いて行く者が一人。雲一つ無い夜空には、煌々と青い大きな星が輝いている。人影は青い星に向かい進む。そして兵舎から少し離れた木々の中へ足を入れると、慎重に辺りを見回し人が居ないことを確認すると木々の中へ踏み込んだ。
〈・・・・〉
〈・・・・〉
後を付けた者達は、気付かれないようにそれを追う。音も無く、眼で合図をし二手に分かれて回り込む。捉えた目標を確認し、木々の中、息を潜ませ様子を見張る。
後を付けられている事に気がつかない少女は、青い星の光が射し込む木々の切れ間で足を止めると、また、用心深く周囲を窺う。そして、自分を見つめる金の眼には一切気がつかずに、少女は木々の闇に向かって話し掛けた。
『ココダヨ・・・』
深夜の冷たい空気だけが木々を通り過ぎる。
『ココニィルヨ、ォトォサ、ォカーサ、ユン、』
それを二度ほど繰り返し、少女は両手で口元を覆うと声を殺して嗚咽を上げ始めた。
〈・・・・〉
暗闇からそれを見ていた二人は、辺りを確認するが少女が誰に接触しようとしていたのか、合図を送っていたのかは確認出来ない。暫く一人で肩を震わせていた少女は立ち上がると、振り返らずに元の道をたどり部屋の寝台へ戻って行った。
〈・・・・〉
閉じられた兵舎の扉、後を追っていた人影が青い星の下に二人。それに呼び寄せられる様に、辺りからは更に数人現れた。
〈周囲を調べましたが、誰も何も見当たりませんでした〉
一人の報告に、周囲の数人が同意を頷く。
〈どう見た?〉
上官の問いかけに、エスフォロスは少女の嗚咽を思い出す。
〈人質を取られているのかもしれない〉
〈妥当だな。更に確証を得る〉
ガーランド第三の砦に迷い込んだ黒髪の少女は、敵の間諜だと疑いをかけられていた。だが精霊を身に宿す稀有な天上人であるということがわかり、砦隊長であるオゥストロの婚約者として保護されることになった。
***冬準月、二十五日。
ーーー第三の砦。
〈何を探しているのだ?〉
梯子に登り四方を見回す。更に百段以上ある茫洋とした本棚を見上げたエスフォロスに、下から声がかかった。しかし救いの手のように聞こえる内容が険のある声色から、邪魔だから、早く出て行けとの意味であると理解できる。数段登っただけの梯子を降りると、苦手な上官に振り返ったエスフォロスは軽く敬礼した。
〈保護しました天上人の少女、メイ・カミナの、〉
不自然に途切れた言葉に、上官の青銀の瞳は眇められる。
〈・・・・続きは?〉
人を見下す上士貴族の目線。貴族の理不尽に威圧的な行動には、姉と共に反発心を持つエスフォロスだが、目の前に立つセンディオラ・エルトワナは別である。
血族が十世代王都に上士貴族として名を連ねると、上位五指が王都大上士貴族と呼ばれる。彼の一族はその五大上士貴族に連ねられ、アステス家に並び格を落とした事がない。更にセンディオラ自身は第三の砦に志願し竜騎士としての実力も備える事から、他の大五上士よりも格が高いのだ。
(俺、アラフィアほど上士貴族に偏見はないんだけど、この人はなんか、苦手・・・)
センディオラは尋問官の中で重責を持つ情報分析官だ。更には上士貴族に多い守備隊ではなく、迎撃隊としてオゥストロに認められている。竜騎士としては非の打ちどころがなく、貴族としては人を見下すことは当たり前の常識としているのだ。線は細く、王族の血を引く証しである銀色の髪も、眼鏡をかけた青銀の瞳も全体的に冷たい雰囲気を纏う。そのセンディオラは彼の情報分析官という役柄のためか書庫での遭遇率が高いのだが、隊員共用のはずのこの場に踏み込んだだけで、エスフォロスは追い出されそうになっていた。
〈言語の、〈あの者の言葉の教育に関しては、私が一任されている〉
〈・・・・はあ、そうなんですが、その、いえ、そうではなく、〉
〈歯切れが悪いな〉
先に終止符を打たれた。この場に用が無くなったのなら出て行けと、全てを語る前に言葉を遮られ被せられたのだ。だがエスフォロスは、急かされるがその場に留まった。
〈彼女の言語教育の事では無く、その、俺が天上人を学ぼうかなと、〉
〈天上人を学ぶ?〉
〈はい。その方が情報も引き出せるかなと。メイの母国語が気になりまして。音は北方に近いものもありますし、もしかしたら、西の方かなと、〉
〈確かに、文字は北方で見たことがある角張った癖がある。だがあれは北方語のものではない。西方語でもない。・・・仮に天上に国があるとしたら、その言葉だろう〉
〈天上、天にですか・・・〉
〈いずれにせよ、それも私の管轄だ。お前が関与する事では無い〉
〈はい、あの、ですが、教えたいんじゃなくて、俺が覚えたいんです。なので天上人の、経典を読んでみようかな、と、〉
〈・・・・〉
眼鏡の内から涼しい目線がエスフォロスを捉えたが、センディオラは軽く顎を上げると書棚の中腹を示した。そこには数冊が不自然に抜けた穴がある。
〈教会の、天上人に関するものは全てそこにあった。先客が居たようだな〉
面白くも無さそうに背を向けた上官に、それを嫌味と受け取った。棚を見上げたエスフォロスは、終わった昼休みの合図にため息を吐いた。
**
数日後、砦隊長の執務室の前で、エスフォロスは緊張に息を詰めた。姉からよく話しを聞くが、実際話したことは殆どない。憧れの砦隊長の元へ、運び忘れた書類を届けるように命令されたエスフォロスは、息を吸い込み扉を叩く。
〈失礼致します〉
敬礼し、キビキビとした動作で入室すると、所定の場所に書類を置く。身をただして再び敬礼したエスフォロスは、退出に扉に手を掛けたところで呼び止められた。
〈あれは、どうしている?〉
オゥストロに〔あれ〕と言われた対象は、今はアラフィアの管理下にある。何故か問われた言葉に、ガーランドに迷い込んだ初日、少女が森で震えていた姿を思い出したエスフォロスは〈問題ありません〉という定型の返答を躊躇った。
〈元気は、・・・無いようにみえました〉
手にした書類から顔を上げた。黒い瞳に射抜かれたエスフォロスの背には冷や汗が流れたが、形だけでも少女の婚約者の名乗りを上げた上官に真実を告げようと胸を張る。
〈現状に適応しようと虚勢を張り、日々を空元気に笑っているように感じます。・・・俺は、天上人の事はよくわかりませんが、〉
〈・・・そうか。インクラートの話しでは、天上人の巫女は天上の国から来るらしい〉
〈・・・はい。俺も子供の頃、教会で学びました〉
〈だが我が国の上空に、目に見えて他国は存在しない。宗教が、聖人や英雄を作り上げる事は常套手段だ〉
〈はい。同意です。空から舞い降りるとは、何かの比喩であると思います。・・・ですが、メイが青い星を見上げている姿を見ると、もしや星を故郷に見立てているのではと、・・・〉
報告書に記したのは、少女が森で誰かに語り掛けたこと。そして青い星の下で泣いた事実。暗闇に語り掛けた〔ここに居る〕という存在の主張に、間者として送り込まれた可能性が強まったのだが、語り掛けた先には誰も、何も存在しなかった。
〈もしかして、青星が天上なのでは、〉
〈・・・・・・・・〉
荒唐無稽、唐突な部下の意見に沈黙したオゥストロ。彫像のように黙り込んだ上官に、エスフォロスは自分が愚かな事を言ったと我に返った。
〈申し訳ありません、その、今のは、〉
〈青星に天上の国があったとして、それが空中楼閣のような物だとは理解出来る。だが天上人という者が存在し、メイがそうだとするのなら、この地で子を産めるかどうかは実例がないのだろう?〉
〈・・・・は、そうですが・・・え?、〉
話が大きく逸れた事にも戸惑うが、その内容に内心で二度見する。
ーー(???!!!子供!!!???)ーー
上官は現実的に、天上人の婚約者との子供を想像し、それを会話の着地点とした。
(まじか、隊長、まじでか?あいつとの、子供?)
〈医療班の者たちは、彼女の身体は我々と変わりがないと言っていた。・・・敢えて言えば、体力は子供より低いだろう〉
〈子供、・・・・はい。そうですが、〉
会話が全然頭に入ってこないエスフォロスには、姉が上官に抱いていた不信感が駆け巡る。アラフィアは、見た目が十歳に見えるメイとオゥストロの婚約を不審に見ていた。
〈・・・それに、天上人というものの生態記録が無いのであれば、我々とは成長の速度が違うかもしれない〉
〈は?、はい、確かに、?、〉
人々の憧れの象徴、完全無欠と思っていた上官が、ぼんやりとした希望的観測を言った。
(成長の、速度?)
〈実際に天上人が存在し、天上があるのであれば、だがな。興味深い〉
戯れ言だと上官は笑い、そこで会話が途切れた。改めて腰に手を当て敬礼すると、踵を返して戸口に向かう。途中、書棚に平積みにされた本に目が落ちた。
(あ、これ、)
調べようと思った天上人に関する書物は、圧倒的に天教院によるものが多い。今まで興味の無かった経典や、子供に読み聞かせるための絵本。未知なる者の情報を、まずはそこから得ようと書庫に立ち寄ったが、その部分だけがごっそりと抜けていた。
(センディオラ上士だと思ったのに、)
書庫の管理人かと思うほど、遭遇率が高い上士貴族。神官に天上人と呼ばれる少女に言語を教えている上官が、資料を独占したのだと思っていたが、それがオゥストロの執務室に積まれていた。
〈なんだ?〉
立ち止まった不審な部下に低い声が落ちる。肩を跳ね上げて振り返ったエスフォロスは、しどろもどろと本棚を指さした。
〈あ、いえ、その本、俺も見ようと思った物で、〉
〈そうか。なら全て持っていけ。用は済んだ〉
〈は、〉
同僚が怪訝と振り返る中を歩き去り、兵舎に戻ってきた。両手に抱えた経典を寝台に並べると、それに絵本が混ざっていたことに失笑する。子供に経典を学ばさせるために、読み聞かせる天上人の絵本。それは羽ある天上人が、竜騎士と恋に落ちる物語。翼を怪我した天上人の少女が空から落ちてきて、国一番の速さを誇る竜騎士が救うのだ。
ーーあるところに、青年兵士がおりました。
その青年兵士の相棒の竜は、国一番の速さをほこる竜なのです。
〈そういえば、今の最速って、誰だっけ?〉
戦場以外、速さだけを競うのならば、上官の黒竜が意外にも一番ではない事を思い出した。
〈あー、たしかエメリエドんとこの隊長、名前、なんだっけ?あの人、〉
軍学校の友人のエメリエドは無骨で無愛想だが、真面目で熱心に仕事を熟す。だがそれゆえに要領が悪く、面倒事を押し付けられたと風の噂で聞いた。
〈あー、そうだ、第五砦の、〉
つまらない五大上士貴族の名を思い出した。恥ずべき貴族は国で最速の飛竜を相棒に持つが、仕事を友人のエメリエドに押し付けて、日がな一日寝て過ごすことも風の噂で聞いている。刻の無駄だと頭の隅にそれを追いやり、エスフォロスは久しぶりの絵本に集中した。
〈ーーある日彼らは、空から落ちてきてきた、一人の少女を救いました、〉
エスフォロスは、オゥストロが努力の果てに第三の砦を手に入れた事を誇りに思っている。名の通らない平民の親の元に生まれたオゥストロに後ろ盾は無く、本人の努力と実力によって軍学校を卒業し優秀な成績を維持して貴族の地位を手に入れたのだ。
努力を惜しまない上官が、何を思って絵本まで資料としたのかは分からない。だがエスフォロスは、オゥストロの少女に対する邪推を改めた。ペラリと捲られた次頁には文字が少なく、丸く大きな青い星が一面に描かれている。その中央には、青星に照らされて陰影となった竜騎士に、翼が千切れた少女が抱きしめられていた。
〈ーー思えば、あれは悲鳴であった、〉
風を引き裂いて、風に翼を引き裂かれた少女。濃い青色で塗りつぶされた可憐な姿には涙が零れている。エスフォロスはこの一説に、小さな少女の姿を思い浮かべた。
〈思えば?・・・そうか、今思えば、あれはあいつの悲鳴だったのかもな〉
目に見えない天上に、少女の帰りたい国があるのならば、その想像と、声を殺して泣いていた姿が重なった。心に残った悲しい呼びかけ。けして大きな声ではなかったが、あれはメイの心からの悲鳴だっ〈おい、お前、何を真剣に読んでんのかと思えば、絵本を朗読してんじゃねえよ。気持ち悪いな〉
〈・・・・・・・・・・・・・・・・、〉
誰も居なかったはずの自室。背後から覗き見ていた姉の蔑んだ金の瞳。無神経な言葉に疲労したエスフォロスは、軽く頷きやり過ごす。
〈なんだ?無視?ますます気持ち悪いな。お前、それ、外でやんなよ。頭ワイテルと思われんぞ〉
〈・・・・・・・・〉こくり。
薄く微笑んだ弟に、アラフィアは眉を顰めた。
〈姉の優しさだぞ?他人はな、お前が空で恋文を大声で朗読しても、見ないフリして終わんだよ。内心は、アイツはヤベエと線引きしながらな。ワカッタカ?姉の、ヤ、サ、シ、サ。〉
〈・・・・・・・・〉コクリ。
もう一度、力無く頷いた弟を残し、姉は〈感謝しろ〉と捨て台詞に部屋を出る。ため息を吐いたエスフォロスは、絵本を閉じて重い腰をあげた。