貴腐人の旅立ち
照りつける灼熱の太陽が肌を焼く。
大地の熱さが足の裏を焼く。
次々と噴き出す汗が肌を伝い、しかしその汗も直に乾いて僅かな粘りを肌に残すのみ。
それでも誰一人としてその場を動こうとはしない。
暑い、そして熱い。
八月、真夏の太陽すら圧倒する熱気がそこに在った。
見渡す限りの列をなす人の群。
期待と興奮と、何より欲望を胸にその時を待つ人の群。
それは戦士の群。
待ちに待った決戦の日に、胸を高鳴らせる戦士の群だ。
その中に、彼女はいた。
彼女は幼き頃より数々の戦場を渡り歩いてきた。
古の都で
商人の街で
鎮西の砦で
蝦夷の地で
そして帝都で
己の求めるもののためならば、西へ東へ北へ南へどこへでも駆けつけた。
戦場の大小を問わず、欲望のままに戦い続けた。
時に他人に謗られ、時に他人に嘲笑われようとも。
彼女の求めるものがそこにしかなかったからだ。
しかし時は流れ、彼女の足は戦場から遠退いた。
生活の糧を得るため、戦場へ赴くための軍資金を得るため日々雑事の追われるようになった。
年齢とともに衰えた体力が、日々の忙しさに負けて戦場に赴く枷になった。
何より時代が変わり、
(通販とか投稿サイトとか、便利なもんができてそっちばっかり使ってたからなぁ)
呟き機能のアレとかで簡単に、しかも匿名で同志と繋がれるし。
パソコンや携帯やスマホを使えば、無料で同志の作品が読めるし。
もちろん自分の作品を読んでもらうこともできる。
技術の進歩とは何と素晴らしいことか。
雑誌の文通希望欄で知り合ったペンフレンドと、単色のグラデーション印刷の便箋で文通しなくてもいいのだ。
こそこそと家から遠いコンビニで、原稿をコピーして自分で製本しなくても作品を見てもらえるのだ。
いや、それだって環境に恵まれている方だった。
最初は自由帳に一人で妄想を書き殴って満足していたのだから。
彼女が小学生の頃は。
そう、あれはもう30年ほど前のことだ。
佐藤裕子、42歳。
彼女は歴戦の、貴腐人という名の戦士である。
(また会おうビッグサイトよ!)
裕子は熱い思いを胸に、その逆三角形を二つ連ねた様な屋根の建物を後にした。
通称カラコロと呼ばれるキャリーバッグと背中のリュックの中は、戦利品が目一杯詰まっている。
もちろん戦利品はこれだけではない。会場から、既に自宅へ向けて何箱か発送済みである。
余談だが、サークル参加でなくてもちゃんと発送できるので、機会があれば利用してほしい。
箱は購入可能。鋏やガムテも借りることができる。
(あ~やっぱ旬のジャンルは凄いわ)
裕子が数年ぶりに参戦を決意したのは、長年はまっていたジャンルに加え、最近立て続けに旬のジャンルに嵌ったことが原動力となったからだ。
それはいくつかの、スポーツものの少年漫画だ。
若い頃は暑苦しいと思っていたのだが、最近ではその暑苦しさが良くなってきたのだ。青春の甘酸っぱさとか、友情とか努力する姿とか。
努力が実らず苦しむ姿には涙を誘われるし、ユニフォームは萌えるし、男子高校生って響きには興奮する。
寮生活とか合宿なんて聞くともう、もう、
(く、お風呂上がりとか可愛過ぎるだろ!)
いつもきっちり髪をセットしている先輩が、お風呂上がりに髪を下ろしている姿が存外幼かったりして堪らないのである。
最初はいけ好かないと思っていたハーフの三年生捕手が急に可愛く思えたのも、色々複雑な事情を抱えていることが明らかになったからだけではなく、髪を下ろして寮の部屋で勉強している姿にときめいたからだ。
大人びた人が急に幼くなるって、凄く興奮する。
でも元々ショタ属性の二年生リベロが合宿で髪の毛ぺちゃんってなってる姿も、ますます幼くてハスハスしてしまったけど。
(おっと!)
ホームに電車の到着を告げるベルが鳴り響く。
それが目当ての電車であるのに気づき、裕子は電車とホームの間の段差に備えてキャリーバッグを抱え上げる。
電車に乗り込む時、バッグが段差に引っ掛かってもたつくようなことがあっては他の乗客に迷惑だ。
ぐいっと身体の前へ持って来た時、後ろから人の波が押し寄せた。
裕子と同じ電車に乗ろうとした客が、前の方に詰めてきたのだろう。
それは何と言うことも無い、よくあるできごとだった。
ただ、彼女が重いキャリーバッグを抱え上げていなければ。
(あ・・・・・・・・)
持ち上げた荷物の重さと、背中の荷物の重さ。そして背後からの圧力。
バランスを崩し、二歩三歩と前へ押し出される。
目の前には、ホームへ入ってきた電車。
視界が電車の色で一杯になる。
高校の時、似たような事故で電車が遅れたのを聞いたことがある。
あれは確か地下鉄でのこと。人波に押された乗客が、ホームに入ってきた電車と接触したのだ。
(嘘でしょ・・・・)
走行中よりスピードが落ちているとはいえ、轢かれるよりマシとはいえ、こんなスピードの鉄の塊に撥ねられて無事に済むわけが無い。
結局あれは死亡事故になった。
(私も?)
死ぬ?
電車にはねられて?
何も悪いことなんかしてないのに?
(大量の同人誌持ってえぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!?)
ちょっとマジですか!?
このキャリーバッグとリュックの中には、山程同人誌が入ってるんですよ!?
男同士であんなことやこんなことをしてる、ズコバコ祭でわっしょいわっしょいな代物が!
いや、自室にも似たような物がたんまりあるけど!?
18禁のBLゲームソフトとか、某武将のおしりマウスパッドとか!某サイトに上げるつもりでメモ帳で書いてたアレな小説とかもPCに保存されてるけど!?
あぁ!PC見られたら腐った発言満載の呟きアカウントとかもバレる?
それに遅くとも二日後にはダンボール数箱分の戦利品が家に届いてしまう!
何より
(まだ戦利品読んでない!!!)
嫌だ。
裕子は絶叫する。
魂の底から。
あのサークルの新刊も!
あの待ちに待った再録本も!
推しカプのアンソロだって!!
まだ一冊も読んでない。
買ったばかりの同人誌を、一冊も読めていない。
なのにそれを置いて死ぬなんて
(嫌だぁぁぁ!絶対いやーーーーーーーーー!!!)
十代前半で目覚めて早三十数年。
こんな悔しいことがあるだろうか?
(こんなところで終わるもんか。絶対、絶対私は・・・・・)
終わらないから