便意と向き合う
朝食を食べる。
僕は専らトースト派だ。トーストと一言で言っても目玉焼きと焼いたベーコンがサラダと共にお皿に盛り付けてあって、そこからフォークでトーストに乗せるもよし、そのまま食べてトーストを齧るもよしというような何処のオシャレ家族か分からない羨ましい朝食ではない。
スーパーで1斤6枚スライス150円の食パンの上に、4パックで1セットになっているベーコン1パックを並べて上からマヨネーズをかけ、オーブントースターで3分焼くだけのぞんざいトーストだ。まあたまにチーズなどを乗せるとコクが出て普段のトーストに比べれば美味しくなるが、それでも別枠でカリカリに焼いたベーコンの旨みには1歩届かない。
時間に追いやられている現代人にもれなく僕も入っているので、旨みや美食を追求する時間があれば睡眠の時間に充てがいたい。
ん?そうだ、そうだった、時間だ。今回の問題は時間だった。
朝食を食べる。
みんなそれぞれ様々な朝食を食べるだろう。そして、それは朝に食べるから朝食という。朝ということは今までは夜であったということで、夜ということは大半の人は寝ていただろう。
今まで寝ていた人がいきなりご飯を食べると体は驚く。胃も腸も寝ていたところにいきなり、「仕事しろ!」と食べ物を放り込む行為であるから当然だ。そして、寝起きに無理をするから仕事に支障が出たり、そもそも仕事をこなせなかったりする。
つまり、朝はゆったりとした時間を過ごすことが人間の営みとして自然であると僕は述べたい!
「そう思わない?」
「早く出ろ。」
僕は普段からよくお腹を壊す。今日も朝の忙しい時間に腹痛を起こしてトイレに閉じこもっていた。
そして、トイレの前で空くのを待っている妹に向かって、毎日続くこの人生の命題に対する僕の見解を語って同意を求めたのだが、命令形で軽いダブルミーニングを投げかけられた。
もちろん常時なら僕の後のトイレなんて使いたがらないしさすがにこんな高圧的でもない。妹も切羽詰まっているのだろう。
「はい、空いたよ。」
バタン、とドアが閉まると同時に消臭スプレーの音が中から聞こえてきた。切羽詰まっているにしてもそこは一線を画しているみたいだ。
まあ、「お兄ちゃんの使った後のトイレの臭い大好き!」という妹は気持ちが悪くて仕方ない、これが普通だろう。
それはそれとして、実は、僕はまだ便意を抱えていると宣言しておかなければならない。妹に命令されたからといって僕の胃腸がいきなり勤勉に動き出すわけじゃない。どちらかといえば禁便だ。
妹に急かされている状況で、そんな頑なに出てこなさそうなものと戦える時間はもう残されていなかったから、とりあえず出ている分で終わらせて奥にある便意は一旦保留にしたわけだ。
しかし問題なのはここからで、今から僕は学校に行かなければならなかった。
ところで、学校に行か『なければならない』などという言い方があること自体、日本人の児童・生徒・学生は恵まれていると思わないだろうか。
学校とは学ぶところで、学ぶことは自分の糧になっている。それだというのに嫌なこと、やりたくないことのように忌み嫌い、忌避することができるのは、それが当たり前に存在しているからだろう。
人はどんなにありがたいことでも沢山あるとありがたくなくなる。それは漢字で見たら分かりやすい。
そこに有ることが難しいから『有難い』のに、沢山あるということは有ることが易しい、言うなれば『有易い』になってしまっている。
しかし、現在『有易い』のは先人たちが血の滲むような努力の末に教育制度をしっかり敷いてきたからであって、決して自然発生的に教育制度ができたわけではないということを肝に銘じておいてほしい。
と、持論が一区切りしたところで学校が見えてきた。僕は学校まで自転車で5分のところに住んでいるので、教育について思いついたまま語っていれば着いてしまう。
まあ教育関係に親戚がいるわけでも教職を目指しているわけでもないので、偉そうなことを言っていても中身はない。
言いたいことはとりあえず、学校に到着したということだ。
さて、先ほどは脱線してしまったが問題なのはここからだ。まず状況を整理しよう。
始業時間は3分後、トイレにこもって便意と戦う時間はない。
ふむ、なるほど。
それならば授業中に行くか。
1時限目は国語で担当教師は穂積先生だ。教員の中で穂積先生は生徒に寛容なほうだ。
多少のヤンチャも本来校内持ち込み禁止のスマホも見逃してくれるし、授業も堅苦しくなく柔軟性があると思う。…しかし、ダメだ。
なぜか穂積先生は体調管理だけには異常に厳しい。
以前、ある生徒が風邪をひいていて、鼻をかみたいからティッシュを机の上に置いていていいか聞いただけで、なぜ風邪をひいたか、どうすべきだったか、これからどうしていくか、と30分ほど問い詰めていたシーンを目撃してしまったのだ。
僕が「お腹が痛いのでトイレに行ってもいいですか。」と言おうものなら授業丸々2つ分問い詰められるだろう。それは避けたい。いや、避けなければならない!
だから、1時限目は我慢。
2時限目は美術、担当教師は斎賀先生だ。斎賀先生は作品をしっかり仕上げれば他のことには割と無頓着と言っていいだろう。とはいえ何も言われないかといえばそうでもないので、できれば間の休み時間でトイレに行きたいが移動教室の上、今日の便意はなかなか手強い。
…いや、待てよ。それでもなんとかなるかもしれない。
今日の美術は居座り系授業じゃない。デッサンの授業で、教室内ならそれぞれが描きたい場所に移動して描いていいことになっている。
そして、描けた人から提出するシステムを採用しているので、入れ替わり立ち替わりがある。
その中でならトイレから戻ってきても自然に授業に馴染めるし、お咎めもない。
よし、1時限目が終わればできるだけすぐ美術室の近くのトイレに移動して便を出し切ろう。
・・・今は3時限目の数学の時間だ。
始業前に考えたプランでは、もう僕の便意がキレイさっぱりなくなってるはずの時間である。しかし、僕はまだ便意を抱えていると本日2度目の宣言をしなければならない。
それというのも、ある悲劇が開幕したからなのだ。その悲劇の幕は2時限目美術の授業前に上がった。
朝、プランを立てた後、僕は教室に行き1時限目の国語の授業を受けた。やはり朝に多少なりとも出してきていたからか余裕を持って授業に参加できた。
そして、1時限目が終わるとともに美術の授業の用意を持って颯爽とトイレに向かった。
もちろん、颯爽と、というのは周りからの印象であって、このときの僕の頭を占める割合は便意が100%だったので颯のようであっても爽やかではなかった。
さらに、便意に占められた頭だったので僕はスッキリできることに何の疑いも持っていなかった。
しかし、トイレがある廊下への角を曲がった瞬間、明らかに異質な光景が目に入った。
ーーー自然界には威嚇というものがある。
例えばカマキリが鎌を持ち上げる動作やエリマキトカゲが襟巻きを広げる行為だ。
他にも植物などには、毒々しい色という表現があるように派手な色で自分には毒があると訴えているものもある。
それと同じように蜂によく見られる黄色と黒色の縞模様は心理学的にも警戒色となっていて、危険を知らせる目印になっている。
よく工事現場などでマンホールの蓋がない場合、その周りを囲っていたり、先に道がない場合、通行禁止にしたりするのに黄色と黒色の縞模様で色付けされたバーを使っているだろう。
まさにそのバーがトイレの前にオーラを纏いながらふんぞり返っていたのだ。
その光景を目の当たりにした僕は、視界が明滅し、立ちくらみに襲われ、膝から崩れ落ちそうになったが、ここで気を抜いてしまえば肛門括約筋が弛緩され、その結果ここからの学校生活が惨憺たるものになってしまうと直観し、なんとか踏みとどまった。
何の理由でそのバーがあったのかは知らないが、僕にとって重要なのはそこのトイレが使えるのかどうか、ただ1点だけだった。
(どうやらこのトイレは使えない。なら次だ。切り替えていこう。)
ショックが強すぎたのか一時的に便意を頭の外に放り出すことに成功していた僕は、自分の頭の中でここから最短のトイレを検索した。
(もともと美術室は特別棟にある。したがって1つ下も特別棟で、授業で来ない限り生徒はいない。来ているとしても教室棟のトイレよりは倍率が低いだろう。)
というわけで階段をゆっくり降り、下の階にたどり着いた。トイレに向かうと入り口は塞がれていなかった。
良かった、と安堵したことで便意がぶり返してきたので、無駄のない動きでトイレの入り口まで進み、トイレのスリッパに履き替え、小便器を通り過ぎ個室に向かった。
ここで何か違和感があった。
(何だ?便意で頭がうまく働かないせいか分からない。)
今思うと、このときの僕はすでに自分がどういう状況に陥っているかを正確に理解していたが、現実を直視することを避け、問題を先延ばしにしていたのだ。
個室のドアを見ると、しっかりと閉じられ鍵穴の上に赤いマークが浮かんでいた。
ーそう、個室は閉まっていた。
個室が閉まっていたのだ。
このトイレに1つしかない個室が閉まっていた。閉じていた。開いていなかった。空いていなかった。
個室は、空いていなかったのだ。
「うおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」と、満月を見た狼男のように叫びたくなったが決して叫ばなかった。それは、個室に入っている先客や廊下にいるかもしれない生徒に聞かれるのが恥ずかしい、などといった理由ではない。
叫ぶことで腹に力が入り、それによって生んでしまう悲しみを未然に防ぎ、これからも恙無く学校生活を送りたいからだ。
キーンコーンカーンコーン、と授業開始のチャイムが鳴った。
この個室が空くのを待つこともできたが、僕は美術室に向かった。
なぜ待たなかったのかというと、先客が便意と30分以上の激闘を繰り広げるかもしれず、そうなった場合、スッキリして美術室に戻り課題を提出という行程を20分未満で済まさなければならないというリスクを回避したからだった。
そんなこんなで僕は現在、数字とにらめっこをしている。とても辛い。
今まで何とか理性的に語ってきたけれど、そろそろ何もかもかなぐり捨ててトイレに駆け込みたい衝動に襲われている。
数学の垣谷先生はいわゆる普通の先生なので、トイレに行きたいと伝えれば行かせてくれるだろう。
今さら他の生徒の視線なんて気にならないし、この忍耐を続ければ神になる権利をやると言われても全くなびかない!むしろ神になる権利を譲ればトイレに行かせてやるという条件すら飲む勢いだ!
…ここは行っておくべきだ。行こう。よし、行こう!
「先生、お腹が痛いのでトイレに行ってもいいですか?」
僕は4時限目の世界史の授業を受けている。そして、世界は輝いている。
いつも眠気を誘うだけで話が入ってこなくて、試験前に自分のことは棚に上げ恨みを向けてしまう板谷先生の読経のような授業も愛おしく思える。
そう、僕はついに便意から解放された。
朝から便意に支配されていたからか気付けなかったけれど、今日は雲ひとつない快晴で教室に日差しが入っていた。
その光がキラキラと教室に反射して、教室にいるクラスメイトや机、椅子なんかが輝いて見えた。
ただ、少し後悔しているのは3限目と4限目の間の休み時間に、嬉しさのあまり手当たり次第ハグをしたのがまずかったのか、クラスメイトからの視線が痛い。
完全な自業自得なのだが、キャラにない行動をしてしまうぐらいあのときの開放感が嬉しかったのだ。
これほどまで便意と向き合う経験は今までしたことがなかった。だから、うん、仕方ない。いや、嫌われても仕様がない、かな。
今日はおかしかったということで明日謝ろう。
ところで、今朝僕はよく腹を壊すと言ったけれど、それは裏を返せば便意が溜まる前に出すということだ。だから排泄を我慢する機会がそうそうないのだ。
そう考えると、便意とは不思議だ。排泄は体にとって必要なことで、だから排泄時には快感を感じるように人間は出来ている。
だというのに、便意があることで排泄に猶予を与えているのだ。すぐにでも排泄した方が良いにもかかわらず、トイレに行く時間を作ることができる。
これはヒトに限らない。犬や猫もトイレをする場所を覚える。ということは排泄したくなったからトイレに行っていることになるので、便意があるということだ。そして、猶予がある。
さらに言えば、少しでも排泄を我慢したことがある人は分かってくれると思うが、我慢し続ければ便意がなくなることがある。便意には波があるのだ。
排泄は体の余分なものを体外に出す、必要で重要なことなのに、我慢することができ、なおかつ便意がなくなることさえある。
なぜ便意はここまで謎に満ちているのか。おそらく今授業をしている、連綿と語り継がれ書き継がれてきた世界史にもこれよりも謎に満ちたことは起こらなかったと思う。
数年後のノーベル生理学・医学賞は是非とも便意研究者が新発見をしてとってほしい。
まさか便意だからという理由でイグノーベル賞に回されることはないだろう。
ただ、朝から昼前まで、おそらくアニメ映画なら2本見終わっている時間、便意とともに過ごした僕の意見をここで言わせてもらうなら、便意とは生物が生物らしく生きていくバロメーターだということだ。
排泄を我慢しているときは正常な判断力を失わせるし、ずっと我慢した後に解放されると自分ではない自分が出てきてしまう。
だから便意を催したらできる限り早く排泄してほしい。それが君のためであり延いては社会のためである。
つまり、便意に素直になるということは常に自分らしさを保てるということだ。
こうして、長い戦いを終えて本当の僕を見つけた僕は帰路に着いた。戦いを経て自分の考えがハッキリしたことで心持ち体が軽かった。決して物理的に軽くなったからというわけではない。
自転車を漕いでいるとひらひらと、何か落ちてきた。そう、言っていなかったが今は4月半ば。
校門を出てすぐの桜並木は新しい僕を祝福してくれていた。
新しい季節になってすぐ新しい自分を見つけることができた僕はまずまずのスタートを切れたんじゃないだろうか。
よし、このまま夏休みまでの目標でも立てようか。
とりあえず明日やることは決まっている。
早起きをしてゆっくり便意と向き合ってやる。