第三章 裏本 神皇正統記
「正規の神皇正統記は、イザナギノミコトとイザナミノミコトの話から後は、天照大神や須佐之男命の話になり、その後神武天皇へと続いて行くのですが、この裏本は全く違います」
さっきまでと全く違って、大吾は非常に真面目な顔で話し始めた。藍は眉をひそめて、
「それはどんな話なんですか?」
と尋ねた。大吾は藍を見て、
「とにかく、読んでみて下さい。最近いろいろな偽書と呼ばれる古代史の書物が出回っていますが、これもそのうちの一冊に過ぎないかも知れません。内容の真偽は、貴女自身でご判断下さい」
「はァ・・・」
大吾の言い方は、「答えたくない」という響きがあるように藍には思えた。彼女は神皇正統記を手に取り、
「これ、お借りしていいですか?」
「もちろんです。そのためにこうしてお持ちしたのですから」
大吾はニッコリして答えた。そして急に、
「それより、今日仕事が終わったら、飲みに行きませんか? いい店知っているんですよ」
「はっ?」
「おい!」
剣志郎は、やっぱりこいつ藍を口説きに来たんだ、と思い、二人の間に割って入った。
「お前な、県庁の仕事はどうしたんだ? 確か、茨城県の職員だったよな?」
「ああ、有給休暇を一週間とって来たから、何にも心配入らないよ、竜神」
剣志郎は、あまりに調子のいい大吾に返す言葉がなかった。
「どうです、藍さん?」
「お前、馴れ馴れしく名前で呼ぶなよ!」
「じゃあ何て呼べばいいのさ、お前の彼女を?」
大吾が嬉しそうにそう尋ねた。剣志郎はギクッとして、
「あのな、この人は俺の彼女じゃないよ。何度言ったらわかるんだよ」
と言い返した。彼は藍の反応が気になり、チラッと彼女を見た。しかし藍はそのことにはまるで関心がない様子で、
「今日は無理ですね。明日はどうですか?」
「へっ?」
剣志郎は藍の返答に耳を疑った。
「うお、話が分かる人だな。どうしてこんないい人が、竜神みたいなつまらない奴と付き合ってるのか、わからないな」
大吾の暴走はまだ続いていた。藍は苦笑いして、
「連絡先を教えて下さい。電話します」
「はいはい」
と大吾は内ポケットから名刺を取り出して、
「この携帯に連絡して下さい。そうすれば藍さんの携帯の番号もわかるし」
「ハハハ」
藍は軽く流して笑ったが、剣志郎は心穏やかではない。しかし、彼女でもない藍に、
「こんな男の携帯なんかにかけるなよ」
とは言えない。もどかしい思いで苛つきながら、剣志郎は大吾を睨んだ。すると大吾は彼を見てニヤッとして、
「おい、竜神、ちょっといいか?」
「何だよ」
剣志郎はムッとして、大吾と共に応接室を出た。
「何よ、二人して」
藍は突然部屋を出て行ってしまった男二人の行動に呆れていた。
「何だよ?」
剣志郎はドアを閉めるなり、大吾に言った。すると大吾は剣志郎の腕を掴んでドアから離れ、
「バカだな、お前。お前も来るんだよ」
と小声で囁いた。剣志郎はその言葉にキョトンとした。
「俺は、お前の煮え切らないところがもどかしくてさ。お膳立てしたんだから、感謝しろよ」
「えっ?」
大吾はクスクス笑って、
「応援してるぜ、竜神」
と言うと、手を振りながら廊下を歩いて行ってしまった。
「おい・・・」
剣志郎は嵐のようにやって来て去って行った大吾に、呆然としてしまった。
「あら、北畠さんは?」
藍が応接室から出て来て尋ねた。剣志郎は不覚にもまたビクッとしてしまった。
「あ、ああ、帰っちゃったよ。全く勝手な奴だよ」
剣志郎はドキドキしながら答えた。すると、藍は意外なことを言った。
「あの人、何か変なのよね」
「えっ?」
剣志郎は藍を見た。藍は大吾が立ち去った方を見て、
「貴方、北畠さんに私の事をどこまで話したの?」
「いやその、巫女をしている同僚がいるって、この前の飲み会で言っただけだよ・・・」
と言いかけて、剣志郎はハッとした。
「あっ、あいつ・・・」
「あの人は、黄泉津大神と私の関係を知っているような発言をしていたわ。妙だと思わない?」
藍の言葉に剣志郎も大吾が立ち去った方を見た。
「あいつ、一体・・・」
「どういうつもりで私にこの本を渡したのか、内容をよく読んでみるしかないわね」
藍が神皇正統記を開いて言うと、剣志郎は、
「あのヤロウ、今から追いかけて、何を考えているのか問い質してやる!」
と走り出そうとした。
「待ちなさいよ。そんなことしても、謎は解明できないわよ。このまま、あの人がどう出て来るのか、見守るしかないわ。だから、あの人の誘いにも乗ったの」
藍はそう言って剣志郎を止めた。剣志郎は仕方なさそうに思いとどまって、あっと声を上げ、
「あいつが藍の事、俺の彼女だと思い込んでいるの、俺がそう言ったわけじゃないからな。それだけは誤解しないでくれよ」
と実に言い訳がましく言った。藍はクスッと笑って、
「そんなことわかってるわよ。それよりさ」
「えっ?」
剣志郎は藍を見た。藍も剣志郎を見た。
「そんなに私が彼女だと思われるの、迷惑なの? それって、酷くない?」
「えっ?」
剣志郎は卒倒しそうなくらい驚いた。しかし藍はそんなことを言ったのを忘れてしまったかのように、
「ああ、もう次の授業に行かないと」
と走り出してしまった。剣志郎も我に返り、
「ああ、俺も!」
と走り出した。
その頃、椿は仁斎との話をすませて、藍の家を出るところだった。
「とにかく、こちらからも奈良の分家に問い合わせてみるから、お前もしっかり確認してくれ。吉野山が乱れると、あの一体の均衡が崩れてしまう」
仁斎は真剣な顔で椿に言った。椿は頷いて、
「はい。先日の豊国一神教の一件で、大阪と京都は随分と気が乱れてしまいましたから、これ以上の混乱は、あの一帯に甚大な影響を与えると思われます」
「そうだな。丞斎には、わしが近いうちに会いに行くと伝えてくれ」
「はい」
椿は深々と頭を下げると、藍の家を出た。仁斎はしばらく椿の歩いて行く姿を見ていたが、やがて引き戸を閉じた。
「またいるの? 本当は私の事が気になるの?」
椿は鳥居をくぐって通りに出るなり、辺りを見回して言った。
「そんなつもりはない」
と雅が目の前の空間から現れた。椿はニコッとして、
「冗談よ。今度は何?」
「吉野山に妙な男がいた」
「えっ?」
椿は雅からの意外な話にピクンとした。雅もそんな椿の反応を意外に思い、
「何か思い当たる事があるようだな?」
と尋ねた。椿はフッと笑って、
「私も藍ちゃんと同じで、感情が顔に出やすいのかしら?」
「何を知っている?」
雅の声が大きくなった。椿は雅を見て、
「吉野山の気が乱れていると奈良から話があったのよ。その話を今仁斎様としたばかりのところへ、貴方のその話だったので、ちょっと因縁を感じてしまったわ」
「奈良の小野家も異変に気づいているのか」
雅は目を瞑って考え込んだ。椿がそんな彼の顔を覗き込み、
「妙な男って、どんな男なの?」
雅は目を開いて椿を見た。
「小野奇仁と名乗った。しかし、小野一門にそんな名前の男はいない。しかもそいつは陰陽道を使った」
「そう」
椿は顎に手を当てた。
「俺はそいつと舞のバアさんとの繋がりを疑ったが、そいつはバアさんのことを知らないと答えた。その言葉に嘘はないようだった」
「舞と? 彼女が陰陽道を使ったから?」
椿は雅を見た。雅は椿に背中を向けて、
「あまりにも偶然が重なり過ぎの気がするが、吉野山はこの前の舞のやろうとしていた事より遥かに恐ろしい結果を生み出す存在だ。放置する事は出来ない」
「貴方は貴方で動くという事?」
椿が歩き出した雅の後を追った。雅は根の堅州国に消えながら、
「そうだ」
と答えた。椿は立ち止まり、
「小野奇仁、か・・・」
と呟いた。
放課後、誰もいない社会科教員室で、藍は大吾から受け取った神皇正統記を読んでいた。
( 確かに正規の神皇正統記と違うわ。黄泉の国からイザナギノミコトが帰った後、イザナギノミコトの話ではなく、黄泉の国の話が続いている )
藍はあまり熱心に読んでいたので、剣志郎が入って来て声をかけたのにも気づかなかった。
「あの本を読んでいるのか?」
「キャッ!」
藍は思わず悲鳴のような声を出した。覗き込んでいた剣志郎もびっくりして後ずさりした。
「何よ、急に背後に立って。びっくりしたわ」
と藍は剣志郎を睨んだ。剣志郎は苦笑いして、
「悪かったよ。一応呼びかけてから近づいたんだけど、聞こえなかったみたいだな。そんなに面白いのか、その本?」
「面白い、という表現は正しくないけど、とても興味深いわね。黄泉の国の話が、延々と続いているのよ。どうやってイザナミが黄泉の国の最高神である黄泉津大神になったのかね」
「なるほど。俺にも読ませてくれないか」
剣志郎が手を差し出したので、藍はニヤッとして、
「でもこれ、かなり難解な文章よ。読める?」
「バカにするなよ。俺だって、日本史の教師だぞ」
剣志郎は藍が差し出した本を引ったくるようにして受け取った。そして表紙を捲り、読み始めた。
「わっ・・・」
確かに藍のいう通り、何が書いてあるのか、さっばりわからない。しかしそんな簡単に降参するわけにもいかず、
「借りていいか? アパートでじっくり読んでみたいんだ」
「いいけど、何が起こっても責任持てないわよ」
藍の言葉に剣志郎はギクッとした。
「どういう意味だよ?」
「その本から、妙な妖気を感じるのよ。何か仕掛けられているんじゃないかと思ったの」
「えっ?」
剣志郎は思わず本を放り出した。藍はクスッと笑って、
「それは冗談だけど、とにかくしばらく私に預けてよ。いろいろと調べたい事があるし、家に帰ってお祖父ちゃんに聞いてみたい事もあるから」
「ああ、そうか」
剣志郎はこれ幸いとあっさり承知した。藍は剣志郎が放り出した神皇正統記を手に取って、
「この中に、とても気になる言葉が書いてあったの」
「気になる言葉?」
剣志郎が鸚鵡返しに尋ねた。藍は剣志郎を見て、
「後醍醐天皇は、死の寸前まで、三種の神器の一つである草薙の剣を手放さなかった。それは、太平記に記されているわよね」
「あ、ああ、そうだな」
剣志郎は太平記なんて読んだ事がないのだが、そんなことはオクビにも出さずに言ってのけた。藍はそんな剣志郎の焦りを見抜いたのか、クスクス笑いながら、
「でも、その後で、北朝方が本物を持っていたと記されているわ。では後醍醐天皇が放さなかった草薙の剣は、単なるまがい物だったのか、というと、そうではないらしいの」
「どういうことだ?」
剣志郎は藍に顔を近づけて尋ねた。藍は神皇正統記に目を落として、
「この本には、太平記にも、正規の神皇正統記にも記されていない事が書かれているわ。後醍醐帝の手にしていた草薙の剣には、恐ろしい秘密があったと」
「秘密?」
剣志郎がまた鸚鵡返しに尋ねた。藍はその声に応じて振り向いたが、剣志郎の顔があまりにも近くにあったので、危うく「キス」してしまいそうだった。剣志郎も藍が急に振り向いたので、真っ赤になって藍から離れた。藍は軽蔑の眼差しで、
「もう、セクハラで理事長に言いつけるわよ」
「やめてくれよ、そんなこと」
藍の冗談に本気で焦る剣志郎は、ある意味哀れだった。藍は再び神皇正統記を見て、
「この本には、後醍醐帝が持っていた草薙の剣は、『血染めの草薙の剣』だったと書かれているわ」
「血染めの草薙の剣? 何だ、それは?」
今度は剣志郎は近づかずに尋ねた。藍は振り返らずに、
「貪欲、憤怒、愚痴の三つの剣が人の生き血を使って研がれ、一つになった時現れる、この世ならざる魔剣だと記されている。黄泉路古神道の使い手達がよく手にする黄泉剣より強力な魔剣のようね」
「そうか・・・」
すでに剣志郎にはチンプンカンプンな話になり始めていた。
「陰陽道の儀式とかが出て来て、私の知識では何の事なのかわからない箇所が多いの。お祖父ちゃんか、椿さんなら、何か知っているかも知れないし」
「椿さん? ああ、あの親戚の女の人?」
剣志郎が妙ににやついた顔で言ったので、藍はムッとして、
「何であんたが、椿さんの名前を知ってるのよ?」
「名刺もらったんだよ。ほら」
剣志郎はキョトンとした顔で椿の名刺を藍に差し出した。藍はそれを受け取って、
「これ、携帯の番号があるじゃない? 何やってるのよ、全く!」
と立ち上がって剣志郎を責めた。剣志郎もムッとして、
「何で怒るんだよ? 椿さんがくれたんだぞ。俺が欲しがったわけじゃないからな」
「これだから男っていうのはもう・・・」
藍は呆れ顔で椅子に戻った。剣志郎は赤くなって、
「べ、別にやましいことはしてないからな。あれほどの美人が、俺なんか相手にしてくれるわけないし」
「それもそうね」
藍が皮肉めいた口調でそう言ったので、剣志郎はカチンと来て、
「そんな言い方ないだろう? 俺だって、ホントはモテるんだからな」
「へーっ、初耳ね。高校時代からあんたを知ってるけど、女子の中であんたのこと好きだった子なんていないわよ」
「お前が知ってる子だけじゃないんだからな。バカにするなよな」
もう何を言い合っているのか、ワケがわからない状態だ。藍は剣志郎の顔を見ずに、
「それってもしかして、武光先生のこと?」
「えっ?」
剣志郎の全身からドッと冷や汗が噴き出した。藍はそんな剣志郎の変貌を見ずに、
「さてと。もう帰ろっと」
と立ち上がり、荷物の整理を始めた。
「お、お前、武光先生から何か聞いているのか?」
剣志郎は顔を引きつらせながら尋ねた。藍は剣志郎を見ながらカバンを手に持ち、
「何の事?」
「えっ?」
藍は剣志郎を押しのけて、社会科教員室を出て行った。
「おい、藍!」
剣志郎はすぐに藍を追いかけたが、彼女はもう廊下にいなかった。
「何だよ、もう・・・」
剣志郎はポツリと呟いた。