出会い - 二宮透花
葉山さんに連れられて行ったのは、高校から歩いて15分ほどの距離にあるノーブルという喫茶店だった。
隠すような場所に『準備中』の看板が置いてあったけど、葉山さんは気にせず中に入った。
レジとカウンターの間に置かれた椅子に男の人が座っている。
エプロンをつけていたので店員さんかと思ったけど、その人は店に入ったあたしたちに一言も声をかけなかった。
お客さんは結構入っていて、半分以上の席が埋まっていた。
ほとんどが高校生か、歳を取っていても大学生ぐらいに見えた。
学校の制服を着ている人には、少し着崩した格好の人が多かった。
そうやって辺りを見回していたあたしは、店内のあちこちに小物やマスコットが置かれていることに気付いた。
あたしはそれに気を取られて、葉山さんたちが窓際の席に座ったことに気付くのが遅れた。
急いでその席まで行ったあたしは、空いていた葉山さんの隣に座った。
そこにも思わず触りたくなるようなクマの人形が飾ってあった。
少しすると、さっきの男の人がやって来てテーブルの上に水の入ったグラスを並べた。
やっぱり店員さんだったようだ。
「ホット」
「あたしも」
葉山さんと黒川さんが注文をした。
テーブルにメニューが見当たらず、どうしようかとあたしが迷っている間に、店員さんは店の奥へ行ってしまった。
あたしはまたテーブルに置かれた人形に視線を戻した。
手に取ってよく見たけど、どこにも商品名やメーカーを示すものはついてなかった。
手作りだとすると趣味のレベルを超えている出来だった。、
「……なの?」
「……え? 何?」
人形に気を取られていたあたしは、葉山さんに話しかけられていたことに気付くのが遅れた。
「こんなのが好きなのかって聞いたのよ!」
「あ……、うん」
「ふ~ん」
「見るのも好きだけど、作るのも好きなの。あっ、あの、預かってもらったやつ。もう少しで完成なの。返してもらえないかな」
「捨てたわよ。校則違反でしょ」
「えっ!? ……そうなんだ。そうだよね」
あたしがそう言うと、葉山さんはむっとした顔になった。
「そうだよね、じゃないでしょっ。怒んなさいよ!」
「でも、校則違反だから」
葉山さんは怖い顔になってあたしを見た。
目の前のグラスをつかむと、葉山さんは中の水をあたしの頭にかけた。
水滴が周りに飛び散った。
どうすればいいのかあたしが困っていると、いきなり誰かがあたしの腕をつかんで席から立たせた。
店に入った時にレジの近くに座っていた店員さんだった。
並ぶと背はあたしより30センチ以上高くて、あたしの腕をつかんでる手はとても力強かった。
見上げた顔は整っているけど怖い感じもして、その右の頬には大きな傷痕があった。
「何よ!」
葉山さんの言葉を無視して、店員さんはあたしをカウンターの近くまで引っ張っていった。
カウンターの中からタオルを取り出すと、それをあたしに投げ渡した。
「拭け」
それだけ言うと、店員さんはあたしが座っていた席の所に行った。
手には布とモップを持っている。
店員さんは無言のまま、まず布で水がかかった座席を丁寧に拭いて、続いてモップで床の水を拭き取った。
それが終わって店員さんがカウンターの所へ戻ってきた時、あたしはまだタオルを頭に被っていた。
「肩が濡れてる」
あたしはタオルのまだ湿っていない部分でブラウスの肩を拭いた。
クシャクシャになった髪を指ですいて整えてから、タオルを店員さんに返した。
「ありがとうございました」
お礼を言ったあたしの顔を、店員さんはじっと見つめた。
「あたしの顔、何かついてますか?」
「いや、何でもない」
そう言うと、店員さんはまたカウンターの中に入り、食器棚からコーヒーカップを取り出した。
「困るよ。この店じゃマナーを守ってもらわないと」
「誰よ、あんた」
後ろから葉山さんと誰かの会話が聞こえた。
振り返ると、あたしたちと同じ学校の制服を着た男子に葉山さんが話しかけられていた。
学年章が赤だから3年生の先輩だ。
その先輩は腰をかがめると、さっきより小さな声で葉山さんたちに何かを言った。
それを聞いた葉山さんは怪訝そうな顔になった。
先輩は持っていた小型のタブレットを操作して、それをテーブルの真ん中に置いた。
「あの動画か」
店員さんがボソッとつぶやいた。
タブレットに何が映っているのか、ここからでは分からない。
しばらくして、それを見ている3人の顔に怯えるような表情が浮かんだ。
「入れたぞ」
その声に振り向くと、カウンターの上にコーヒーの入ったカップとミルク入れが置いてあった。
あたしが自分を指差すと、店員さんは小さくうなずいた。
ミルクを入れてコーヒーをすする。
正直に言って、飲めなくはないけど美味しくもない。
「ひっ!」
5分ほど経った時、辻野さんの小さな悲鳴が聞こえた。
葉山さん以外はタブレットから目をそむけた。
葉山さんはまだ画面を見つめているけど、その顔はこわばっていた。
「この辺でいいかな」
そう言うと、先輩はテーブルからタブレットを拾い上げた。
そして葉山さんに向かって小さく手を上げると、元々いた席の方へと戻っていった。
3人は互いに会話もしないで、固まったようにじっとしている。
いったい何を見せられたんだろう。
あたしが時間をかけてコーヒーを半分ほど飲み終わった時も、まだ3人は無言のままだった。
時々店員さんの様子をうかがうようにこっちを見るけど、すぐにその視線を戻してしまう。
他の2人はともかく、小さい頃から知ってる葉山さんのこんな様子は今まで見たことがなかった。
お代わりを注文する声が奥の席から聞こえた。
店員さんはコーヒーの入ったフラスコを持ってその席へ歩いて行った。
すると黒川さんと辻野さんがあわてたように席を立ち、入り口の方へ歩き出した。
葉山さんも席を離れてその後を追った。
それに気付いた店員さんは、急いだようには見えなかったのに3人より早く入り口へ移動した。
立ちふさがれる形になった3人の顔からは血の気が抜けていた。
葉山さんは、明らかにおびえた表情の2人の前に立って、店員さんをにらみつけた。
でもその手は震えていて、目は少し涙ぐんでいるように見えた。
「お勘定」
その言葉を聞いてからしばらく間を置いて、黒川さんが慌ててテーブルに置かれた伝票を取りに行った。
葉山さんが財布から千円札を出して店員さんに渡す。
「一緒か?」
葉山さんがうなずくと、店員さんはレジ台の前からレジの機械に手を伸ばた。
ボタンを何度か叩いてから、お釣りとレシートを取って葉山さんに渡す。
あたしが慌てて自分の分のコーヒー代も払おうとすると、店員さんは身振りでそれを止めた。
「注文はされてない。俺が勝手に入れた」
財布にお釣りをしまった葉山さんが、あたしに声をかけた。
「二宮さん。帰るわよ」
「こいつはまだ飲み終わってない」
遮るように言った店員さんを、葉山さんはまだ緊張の抜けていない顔でにらみつけた。
少し迷うような素振りを見せた後、他の2人に続いて店を出て行った。
「あの……、悪い人じゃないんです」
あたしがそう言うと、店員さんはまたあたしの顔をじっと見た。
「向こうは頭に血が上ってた。放っておくともっと面倒なことになっただろう」
「ありがとうございます」
「水が染み込む前に、椅子を拭いておきたかっただけだ」
そう言うと、店員さんはカウンターの方へ戻っていった。
あたしもその後を追ってコーヒーカップが置かれた席に戻った。
飲みかけのコーヒーを飲もうと手を伸ばした時、その手に当たってミルク入れが倒れた。
中のミルクがテーブルの上にこぼれた。
あたしが焦っている間に、店員さんが素早くミルク入れを持ってテーブルを拭いてくれた。
『ごめんなさい』と言おうとしたけど、やっぱり言えなかった。
店員さんはあたしの顔をじっと見つめていた。
「二宮、だったな。お前は『ごめんさない』が言えないのか?」
店員さんからその言葉を聞いて、あたしはなおさら声を出せなくなった。
「ちょっと立ってみろ」
あたしは急いで席から立ち上がった。
「姿勢が悪い。もっと背を伸ばしてあごを引け。手は体の前で組む。そして背中を伸ばしたまま頭を下げる」
言われた通りにした。
「いいだろう。口で言えないなら仕草で示すんだ。言葉のない分だけ丁寧にやればいい。だが、ミルクをこぼしたくらいでそんな深い角度のお辞儀はいらないな」
ああ、こんな風に謝ってもよかったんだ。
そう思うと、今まであたしを縛っていた失敗を恐れる気持ちが軽くなった。
「コーヒーは好きか?」
「あ、はい」
「何でまずいのか、あんたに分かるか?」
「まずい……ですか?」
「淹れ方だよ。まとめて作り置きするのが良くないのは分かってる。でもそれだけじゃないようだ。あんたにそれが分かるか?」
店員さんはあたしの目をまっすぐに見て言った。
そう言われたあたしは驚いた。
「どうしてあたしに?」
「さっきコーヒーを口にした時、微妙な顔になっただろ。こんなモノでも気にならないやつはいるんだが」
まさか喫茶店の店員さんにコーヒーの淹れ方を聞かれるとは思わなかった。
あたしが学校で頼まれるのは、誰もしたがらないことだけだ。
こんな風にあたしだからと言って頼まれたのは久しぶりで、あたしは少し嬉しくなった。
「淹れるところを見せてもらっていいですか?」
あたしがそう言うと、店員さんは残り少ないフラスコのコーヒーを別のカップに移した。
そして改めてコーヒーを淹れ始めた。
ロート内のコーヒーがフラスコに移り終わったところで、店員さんがあたしに尋ねた。
「どうだ? 遠慮なく言ってくれ」
「気になったのは、ですね」
あたしは店員さんの手つきを頭の中で再現した。
「まず、ロートをセットしたときにまだ十分沸騰していません」
「そうか」
「それから、上がってきたお湯と粉をへらで混ぜるとき、ちょっと混ぜすぎています」
「なるほど」
「火を落とした後に、またへらで軽く混ぜた方が良いと思います」
それを聞いた店員さんは、もう一つのフラスコに入っていたコーヒーを全てポットに移した。
「手本を見せてくれないか」
「いいんですか? あの、調理師免許とか持ってませんけど」
「俺も持ってないよ。飲食店には食品衛生責任者が1人いればいいんだ」
今までのあたしだったら断っていただろう。
でも謝り方を教えてもらったあたしは、積極的に何かをしたい気分になっていた。
あたしはいつも家でやる通りに、サイフォンを使ってコーヒーを淹れた。
いつもより大きなサイフォンだったので、ちょっと勝手が違ったけど、粉はきれいなドームになった。
店員さんは、自分で淹れたコーヒーを一口飲んだ。
それから、あたしが淹れたコーヒーを口にした。
「旨いな。比べる必要もなかった」
少しだけ笑みを見せて、店員さんはそう言った。
あたしはその言葉が、自分でも不思議なほど嬉しかった。
「学校が終わるのは何時だ? 部活とかやってるのか?」
「掃除が終わるとだいたい3時40分ぐらいです。それと、部活には入ってません」
「良かったら、しばらくここに通って淹れ方を教えてくれないか」
「教える? あたしが……ですか?」
「俺はあんたの淹れるコーヒーが気に入った」
店員さんはそう言うと、さっきよりはっきりとした笑みを見せた。
学校では、よく掃除の当番を代わってくれと頼まれる。
あたしが掃除をしない日の方が少ないぐらいだ。
そういう時に『二宮さんじゃないとダメなの』と言われることがある。
もちろんそれは、別にあたしでなくてもできることだ。
嫌なこと、面倒なことを引き受けるのがあたししかいないということだ。
でも店員さんは、本当にあたしだから頼んでいる。
あたしが必要とされている。
もしかすると、家族以外では小さかった頃のサキちゃん以来かもしれない。
そのことにあたしは少し感動していた。
「人には好みがありますから、お客さんがあたしの方を美味しいと思うかは――」
「いいんだ。ここは俺の店で、俺が旨いと思ったんだから」
あたしは店員さんの申し出を受けることにした。
「そうか。ありがとう、二宮。よろしく頼む」
店員さんが手を差し出したので、あたしもおずおずと手を出した。
店員さんはあたしのその手を力強く握った。
次の日から、葉山さんたちはあたしに声を掛けなくなった。
話しかけなくなったのは葉山さんだけじゃなかった。
いつも嫌なことを言ってくる人たちが、あたしに関わろうとしなくなっていた。