暴力
俺が食料の買い出しから帰る途中で、いきなり脇道から車が飛び出してきた。
アメリカのドラマや映画によく出てくる、ピックアップトラックというタイプだ。
かなり古い車で、ぶつけた跡が修理されていない。
すぐに右折したその車に、追突しそうになった通りがかりの直進車が急ブレーキを踏んだ。
飛び出した方の車は、20メートルほど走るとすぐに急ブレーキで停車した。
直進車はまた急ブレーキを踏まされて、怒ったようにクラクションを鳴らした。
するとピックアップトラックから男が降りてきた。
かなり鍛えられている、がっしりとした体つきだ。
クラクションを鳴らした車の運転席に近付くと、大声で怒鳴り出した。
俺は買い物袋を通行のじゃまにならない場所に置き、その男に近付いた。
それに気付いてこちらを見た男の顔を、俺は思い切り殴りつけた。
僕はこめかみを狙ったのだが、男がわずかに避けたので、実際には頬に当たった。
人を殴ったのは初めてだった。
続いて、よろけた男の腹を殴った。
他人の腹を殴ったのももちろん初めてだが、予想より強い反発力を感じた。
初見で判断した通りに鍛えられているようだ。
男は俺の腹を殴り返したが、感じたのは衝撃だけで痛みはやはりなかった。
殴られたことで体に痛み以外の異常がないか、それを確認するために俺はしばらく動きを止めた。
自分のパンチが効いて動けないと思ったのか、男はニヤッと笑った。
もう一度、同じ場所を殴ってきたのでそのまま殴らせた。
そしてほぼ同時に、無防備な男の顔を殴った。
前かがみになった男の頭をさらに肘で強打すると、男は倒れて動かなくなった。
俺は男を車に轢かれない場所まで引きずってから、買い物袋を拾って家に帰った。
他人を害するような運転をする者がいれば、とりあえず危険ではない状態にしておく。
それは俺にとってごく自然な行為だった。
自分が実戦でどのくらい体を動かせるのかを確認したいという気持ちもあった。
手加減なしで人を殴った手は、後になってかなり腫れた。
誰かに対して暴力を振るうことに躊躇する気持ちはあった。
その気が無くても人を殺してしまったら、それがどんな相手だろうと俺には生きる資格が無くなる。
犯人は許せなくても自分なら許せるという考えは、俺の中に全く無い。
ネットで調べてみると、その意思のある相手と素手で闘って、意図せず相手を殺してしまった例は非常に低かった。
検挙されたケースで数十万件に1件、警察沙汰になっていない場合も含めるとさらに数十分の1だろう。
この痛みを感じない体はユキから与えられたモノだ。
俺が目的を果たすまで、そんな奇跡のような確率のことは起こらないだろう。
もし起こったとしたら、それは家族を助けられなかったことに対する天罰ということだ。
半月ほど後にも同じような状況に出会い、俺は同じように行動した。
人も車も別だったが、ピックアップトラックという車種は同じだった。
蹴りも試してみたが効果的には使えなかった。
この時は相手の無力化に失敗して、その男は車に乗り込むと罵声と共に去っていった。
後で思い出したことだが車には同じステッカーが貼ってあった。
後見人の園田弁護士に頼んで、そのステッカーについて調べてもらった。
レッドストーンという名のチームのステッカーだった。
スポーツのチームではなく、反社会的集団の予備軍みたいなものだ。
このチームはいわゆる武闘派で、互いの上下関係をケンカの強さで決めている。
あの暴走行為は、他のチームや個人にケンカを売るための手段だった。
レッドストーンのケンカは基本的には1対1だが、無関係の相手とその状況に持ち込むのは意外と難しい。
その点、1人で運転している所を狙えば挑発は簡単で、普通なら他からじゃまが入ることもない。
その一週間後に、また同じような場面に出くわした。
俺は前の2回の実戦で、日常の訓練をどうすれば実戦に生かせるかが分かってきた。
逆に訓練もより実戦を想定したものになって、相手の攻撃をある程度は避けることができるようになっていた。
やや一方的な闘いになった時、突然俺は背中に強い衝撃を受けた。
別の男がいつの間にか後ろにいて、その男から蹴られたのだ。
どうやら今回は車に2人乗っていたようだ。
俺を狙った罠だったのかもしれない。
複数を相手にするのは、予想以上に難しかった。
優勢ではあったが、結局パトカーのサイレンが聞こえるまでに決着はつかなかった。
男たちの車は逃げていき、俺は初めてパトカーに乗った。
取調室で刑事らしい人と話をしたが、特に厳しい口調ではなかった。
しばらくすると園田弁護士が来て俺を警察から連れ出した。
数日後、レッドストーンのメンバーが俺の店を訪れた。
身構えた俺にその男は言った。
「ここで暴れるつもりはねえよ。ケーサツも近いからな」
そう言うと男はカウンターの上に1枚の紙を置いた。
その紙にはこう書かれていた。
『7月28日、午後10時、第二埠頭』
7月28日は、来週、浜手の地区で祭りが行われる日だ。
第二埠頭は神社から少し離れた場所で、毎年のように暴れたい人間とそのギャラリーが集まってくる。
ここで何かするつもりなら見物客には事欠かないだろう。
「要件が書いてないな」
「……話し合いになるかそうじゃないかは、お前次第だ」
「そうか。解った」
俺がそう言うと、男は店を出て行った。
あの連中の意図はおおよそ見当がついた。
大勢のギャラリーの前で俺を叩きのめすか土下座させるかして、チームの汚名を返上したいんだろう。
この前は2人がかりで俺に負けたから、もう1対1にはこだわっていないはずだ。
次は3人かそれ以上で待ち構えて確実な勝利を狙ってくるだろう。
俺はこの件を上手く利用できないかと考えた。
俺がその何人かを病院送りにできれば、告訴されて実刑がつく可能性は十分にある。
そうすれば、出所まで待たずに収監先の犯人に出会えるかもしれない。
犯人を憎みながらただ待ち続ける時間は長かった。
家族を見殺しにした自分の無力さを呪う日々から、少しでも早く解放されたかった。
俺にもできることがあると早く証明したかった。
殺すわけにはいかないから手加減の難しい刃物は使わない。
それに刃物を持っていれば、殺意があったとみなされて刑期が長くなる。
犯人と同じ刑務所に入れなければ、大人しく待っているより犯人に会う日が遅くなる。
俺の年齢で初犯から実刑を食らうのはなかなか難しい。
素手のケンカで相手に致命的なダメージを与えないという条件ならなおさらだ。
たとえ相手にケガをさせても最後に負けたのではダメだろう。
勝負には勝って相手を無抵抗にした後で、さらに痛めつける必要がある。