原因
周囲は深い霧で包まれたように何も見えない。
その霧は僕の頭の中にもかかっているようで、ほとんど何も思い出せない。
一体いつからここにいるのか、どうしてここにいるのかさえ僕には分からなかった。
僕と家族との記憶、そして僕が家族を助けられなかったという記憶だけが、鮮明に頭の中に残っていた。
どこからか僕に問いかける声が聞こえた。
「父さんと母さんとユキを、どうして助けられなかったんだ?」
またこの質問だ。僕には答えることのできない質問だ。
「……分からない」
「どうしてみんなは死んだんだ?」
「分からない」
「死ななければならない理由があったのか?」
「……」
「意味もなく死んだのか?」
「……」
「お前はそれで納得できるのか?」
できるわけがない。
僕の自分に対して失望していた。
僕は自分のできる限りを尽くして家族を救おうとした。
みんな僕にとってかけがえのない存在だ。
あれ以上のことはできないと断言できるほど力を出し切った。
何か選択を誤ったという覚えもなかった。
それなのに僕は、何一つ意味のあることをできなかった。
僕はその程度の人間だった。
自虐的な感情からではなく、僕は冷静にそう認識した。
失望されるような者が生き残って、それより遥かに大切な人たちが死んでしまった。
こんなことは許されるはずがない。
でも僕はその結果をどうすることもできない。
だからこのまま何もしないのか。
僕にできることが何かあるんじゃないか。
またあの質問が聞こえてくるまで、僕はそのことを考え続けた。
僕が何かをできるとしたら、それは結果ではなくその<原因>に対してだ。
結果には必ず<原因>がある。
許されない結果には、許してはいけない<原因>があるはずだ。
僕から家族を奪った<原因>は、今どうなっているのか。
<原因>をこのまま放っておけば、また誰かにこの災いが降りかかるかもしれない。
家族の死によって、僕は<原因>の存在を知った。
<原因>がいかに大きな悲劇をもたらすか、それを一番よく知っているのが僕だ。
その僕が<原因>を消せば、それは僕の家族の死に意味を与えることになる。
次に<原因>が引き起こす悲劇を、僕は絶対に食い止めなければならない。
それこそが家族を助けられなかった僕の生き残った理由だ。。
そのために僕が最初にしなければならないのは、<原因>を見つけ出すことだ。
僕は<原因>を探し始めたが、どれだけ探しても見つからなかった。
その時に僕がいたのは、僕が自分の中に作り出した世界だった。
やがてそのことに気付いた僕は、外の世界へ<原因>を探しに出ることにした。
それには、ただ出たいと願うだけでよかった。
そこは白い人のいる白い場所だった。
僕はその人に<原因>のことを尋ねてみたけど、僕の言いたいことは相手に伝わらなかった。
『君の言葉は通じないよ』
そう言ったのは、いつの間にか現れたもう一人の僕だ。
『どうして?』
『君は色々と欠けてるから』
どうやら僕は、話しかけてきた僕より何かが足りないらしい。
『じゃあ僕の代わりに聞いてくれ』
『僕の姿は他の人には見えないんだ』
『どうして?』
『僕が臆病だからかな』
僕はその言葉に続けて、もっと詳しく説明してくれた。
僕に記憶がほとんど無いのは、自分自身を壊してしまうような強い感情を抑えるためらしい。
らしいというのは、僕も全てを知っている存在ではなく、話はあくまで推測だったからだ。
人の感情は、経験によってより強くより複雑になっていく。
その経験を記憶ごと封じたことで、僕は感情を赤ん坊並に、つまり自分の心を壊せない程度に退化させた。
普通ならこういう場合に失うのは、僕と家族との記憶、僕が家族を助けられなかったという記憶の方だ。
それが制御できない感情を生み出している根源だからだ。
でもその記憶にしがみついて放さなかった僕は、僕が『おかしな具合に壊れた』という僕になってしまった。
僕に話しかけた僕は、別人格というやつらしい。
僕の記憶を持ってるが、あくまで第三者として眺めているだけなので、感情移入することはない。
そのためか、主体として僕の体を動かすことはできない。
僕から聞いた説明では、この白い場所は『病院』で、白い人は『医者』だそうだ。
僕が探している<原因>のことを『医者』は知らないようだ。
僕は僕と相談して、人ではなく本を探して調べることにした。
見つけた本は全て最初から1ページずつ読んだ。
言葉の一つひとつは読めても、それが集まってどんな意味になるのかというと、僕には分からないことが多かった。
そういう時、僕は僕に質問した。
するとおしゃべりな僕は、聞いていないことまで僕に話した。
しばらくすると、僕から<原因>を探したいという気持ちが弱まっていった。
どうやらそうなるように、僕が僕を誘導していたようだ。
それが絶対に嫌だった僕は、<原因>を消すという意思だけを残した。
そして新しい自分に俺と名付けた。
時間をかけて色々な本を少しずつ読み進めた俺と僕は、ついに<原因>を見つけることができた。
『しゅうかんし』という、色々な人間同士の関係を文章や写真で記録してある本の中に、その情報はあった。
俺たち家族の名前と共に、探していた<原因>のことが書いてあった。
<原因>が存在しているのは、俺たちのいる『びょういん』の外、『しゃかい』と呼ばれる世界だった。
その『しゃかい』に出るには、俺は『医者』にその資格を認めてもらう必要がある。
そのために俺は、一度切り離した現実とのつながりを、封じていた記憶を、元に戻す必要がある。
そのために俺は僕を、自分の中に取り込むことにした。
方法は僕に聞かなくても分かっていた。
心の中のことなら、本当に強く願えば叶うはずだ。
だけど臆病な僕が、俺と1つになることを嫌がった。
家族を失ったことによる激しい苦しみが甦ることを恐れていた。
だが<原因>を消すという目的こそが俺の存在理由だ。
俺の強い意志は僕の抵抗を上回った。
そして俺は、不完全だが正気を取り戻した。
思い出せなくなっていた記憶のほとんどが甦り、凍り付いていた色々な感情が一気に溶けだした。
それらの感情は、家族を失ったことで心に生まれた巨大な穴に、激流となって流れ込んだ。
その中で最も強かったのは怒りだった。
家族を助けられなかった自分と、家族を殺した<原因>に対する怒りだ。
やがて<原因>への怒りがもう一つの怒りに勝った。
俺はもう<原因>を消すと決めていたから、その激しい怒りを制御することができた。
俺にとって犯人の死は、絶対に変えられないことだった。
犯人にどんな事情があったとしても、人を殺した者はその報いを受けなくてはならない。
不完全なのは精神だけではなかった。
俺の体からは痛覚が消えていた。
最初に気付いたのは、定期検査のために注射をされた時だった。
「少し痛みますよ」
医者にはそう言われたが、俺には針先が触れたという感覚しかなかった。
何故か頭の中でユキの声が再生された。
最後にユキがつぶやき続けていた『痛くない、痛くない』という声だ。
ユキが俺の体から痛みを持ち去ってしまった。
何の根拠もなかったが、俺にはそれが真実だと思えた。
事故現場から助け出された時の記憶は、未だに思い出すことができない。
後から教えてもらった事故の経緯はこうだった。
犯人は勝手に親の車を持ち出した俺と同じ16歳の少年だった。
事故の後、乗り捨てられた車を発見した警察が父親に連絡したが、犯人はまだ家に戻っていなかった。
友人に説得された犯人が警察に出頭して、その犯人から話を聞いた警察官たちは現場に急行した。
俺たちの車が見つけられた時には事故から5時間が経っていた。
生き残ったのは俺だけだった。
発見された時の俺はまだ金属棒をこすり続け、かすれた声で何かをつぶやき続けていた。
指先の皮が破れてハンカチは血でまだらに染まっていた。
止めようとした警官に、俺は抵抗し続けたそうだ。
父さんは即死だった。母さんは事故から1時間ほどは生きていたらしい。
救助が到着した時には、ユキもすでに冷たくなっていた。
ユキを死なせたのは背中に受けた傷だった。
衝突で車の荷室が押し潰された時、そこに置いてあった折り畳み傘が座席の背もたれに刺さった。
傘の最も頑丈な中棒は、背もたれを突き抜けてユキの背中に刺さり、内蔵深くにまで届く傷を作った。
俺が最後までユキの鼓動だと思っていたのは、ウインカーの出す電子音だった。
本来ならカチッ、カチッと鳴る音が、事故でスピーカーが歪んだためにあんな鈍い音になったのだ。
一緒に点滅する光を見ていれば気付いただろうが、車体のターンランプは壊れていた。
そのことが僕に分かったのは、ウインカーを止めた途端に、僕の警官への抵抗が止まったと聞いたからだ。
母が移植を受けた身だったこともあり、家族の全員がドナーカードを所持していた。
心肺停止から時間が経っていた家族の体は、誰の命も救えないまま全て火葬場の灰になった。
犯人が自供するより前に警察への通報はされていた。
事故の直前に犯人の車に追い抜かれた人が衝突音を聞いていて、すぐに電話をしていたのだ。
十数分後に到着したパトカーが事故の状況を確認していたが、俺たちの車が崖下に落ちていたことには気付かなかった。
ガードレールが傷ついていただけで破れてはいなかったからだ。
犯人の車は2トン近い外車のセダンだった。
俺たちの乗った軽自動車は、その車に時速100キロを超えるスピードで追突された。
大型車の衝突にも耐える頑丈なガードレールは、俺たちの車がぶつかっても破れなかった。
背の高い軽自動車は、跳ね返された衝撃で車体の片方が浮き上がり、そこに犯人の車が再度ぶつかったため、ガードレールを乗り越えて崖に落ちた。
警察はガードレールの傷を犯人の車だけがぶつかった跡だと考えて、同時に他の車もぶつかっていたとは思わなかった。
俺たちの車は、60度の傾斜がある崖を30メートル近く落ちていた。
道沿いに生えた灌木がじゃまで、昼間でも見つけるのが難しい場所だった。
ずっと後で現場検証に立ち会った俺も、見つけられなかったことを警察のミスだとは思わなかった。