救出
目的のビルを前にして、俺の心はこれまでにないほど集中していた。
もうすぐ予定の時刻になる。
ここまで俺は、最悪の結果を恐れるあまり全てに全力疾走だった。
運良く順調にきたが、あせりは失敗につながりかねない。
小延が持っているあの遺書もどきには俺の名前が書かれている。
ビルに侵入した俺は、隠しようの無い体格から後で素性がばれるだろう。
公安の親を持つ二宮はともかく、俺は暴力団から身を隠すためこの街を離れることになる。
小延を殺すまで何年も機会を待つことになるかもしれない。
二宮が巻き込まれているこの状況では、俺は小延を殺せない。
今から行なう作戦に対して妨げになりそうな考えを、俺はわざと頭の中に思い浮かべてみた。
それが迷いとなって二宮の危険を増やすことにならないか。
その問いに対する答えはすぐに出た。
二宮を助けること以外に、今の俺の中に大切なことは無かった。
歩道の植込みの陰に火をつけた爆竹を置くと、スポーツバッグを肩にかけた俺はビルに入った。
帽子と襟の高い上着で顔を隠してエレベーターの前で待つ振りをする。
俺の置いた爆竹が鳴り始めると、ガラスの割れる音とともに驚くほど大きな爆竹の音が周囲に響いた。
俺はゴーグルと鼻と口だけを覆う小型のガスマスクを着け、一般客の入らない1階のドアを開けた。
防災上、このドアに鍵がかけられていないことは分かっていた。
中からは最初ほどではないが大きな爆竹の音と、咳の混じった怒号が聞こえてくる。
これだけ大騒ぎになれば、必ず警察が介入してビル内の捜索もするだろう。
二宮を連れて行った連中もこの状況なら、殺人の証拠となる死体を作ろうと思わないはずだ。
漏らされると致命的な情報を二宮が知っているのなら別だが、素人にそんな情報を教えるのは漫画やドラマの話だけだ。
たとえ俺が下手を打っても、二宮が助かる可能性は十分にある。
真っ先にこの階のブレーカーのある場所に行って全ての電源を落とした。
非常灯だけになった薄暗い屋内を歩きながら、俺は出会った人間の全てに催涙スプレーを吹きかけた。
相手は既にまともに目を開けていられない状態でダメ押しをするのは簡単だった。
暴力団関係といっても基本は経済活動を目的としたビルだ。
銃火器の類が用意してある可能性は低い。
手当たりしだいに部屋の中を確認していくと、それなりの立場に見える格好の男たちが居る部屋を見つけた。
全員が目を開けられない状態なので俺が入ってきたことにも気付いていない。
俺は手近にあった椅子を蹴り倒すと、爆竹の音に負けない大きな声で叫んだ。
「何だ! お前ら? おい、待て!」
俺はその場でバタバタと足音を立てて、さらに言葉を続けた。
「お前みたいなガキがどこから入ってきた? おい! 一緒にいた男は誰だ? ……誰か! この女のガキを知ってるやつはいるか?」
一番近くにいた男が、俺の呼びかけに対して何か言いたそうな素振りを見せた。
俺はその口に予備のガスマスクを当ててやる。
ガスマスクだけだから目は見えていないままだ。
「大丈夫か? 顔がよく見えねえが誰だあんた? このガキと連れの男のことを知ってるのか?」
この暗さの上に男の顔はガスマスクで半分隠れている。俺にこの男が誰だか分からなくても不自然だとは思われないだろう。
「ゲフッ! ゲフッ! ……そのガキっていうのは、たぶ、ゴフッ! ……船見が今日連れてきた奴らだ。どさくさで下から逃げてきたんだろ」
二宮がここにいることは確定した。
どうやら1階ではなく地下にいるようだ。
二宮がこのビルにいなければ、事情を知っているか知ることのできそうな男を1人連れ出すつもりだった。
俺は用の無くなった男を裸絞めであっさり気絶させた。
地下へ行くにはエレベーターと階段がある。
地下一階で止まっているエレベーターは、さすがに危険過ぎるので使えない。
階段の方は入り口のドアにカギが掛かっていた。
スポーツバックから2本の金属棒を取り出して繋ぎ、1メートル強の長さにする。
棒の端にある太い部分には、シリンダー錠に使われるキーの差し込み部分が、棒に対して垂直に固定されている。
この差し込み部分は、工作機械の刃の部分にも使われる超硬合金の削り出しだ。
溝はあるが歯の刻みは無いので、鍵穴に差し込んでも普通には回せない。
俺がてこの原理で強引に鍵穴を回すと、ベキベキと音を立てて錠が回転した。
ノブを回すとドアは開いたが、何かがドアの裏に置いてあるようで少ししか開かない。
渾身の力でドアの隙間を広げた俺は、そこから中に潜り込んで再びドアを閉めた。
思った通りそこには荷物が積み上げてあった。
ドア裏のサムターンには機械的に固定する器具が付いていたので、この場所は物置として使われている。
階段を使った地下への侵入は警戒されていないだろう。
導火線の長い爆竹の音が散発的に続いているから、足音をひそめる必要はない。
階段下のドアには、当然ながら鍵が掛かっていなかった。
ビル用の共通設備と駐車場を除けば、地下にあるのは3室だけだ。
通路に出ると、俺はスプレー缶のピンを次々に抜いて足元に並べ、そのまましばらく反応を待った。
通路の先を曲がった所にエレベーターがあるはずだが、そこから物音は聞こえなかった。
どうやら待ち伏せはなかったようだ。
地下にいる全員が部屋の中にいるのだろう。
どれも気密性のあるドアではない。
隙間から催涙ガスが侵入していくだろう。
咳き込む声がしてドアが開き、男が出てきた。
さらにひどく咳き込んでうずくまった男の顔に、追い打ちで催涙スプレーを吹きかける。
部屋の中には他に2人の男がいた。
咳き込む2人に近付くと、その片方にはやはり催涙スプレーだ。
相手が対策をとっていなければ、催涙スプレーの効果は絶大だった。
まともに抵抗できない残り1人の腹に、適度に加減したパンチを何度か打ち込む。
動けなくなった男の顔に予備のガスマスクをつけてやってから質問する。
「金井と大木は何処だ? 無事だろうな?」
「誰のことだ?」
「大学生ぐらいに見える男と、中学生に見える女だ」
こう言っておけば、後で二宮が報復を受ける可能性が少しは低くなる。
これだけ大騒ぎになった事件に関わったのが普通の女子高生だとは思い難いだろう。
あのふざけた遺書もどきも、でたらめな内容だと考えるかも知れない。
「お前の仲間か? ……ガキにしちゃあ変に落ち着いていて、頭がおかしいんじゃないかと思ってたが」
「何処にいるか教えれば俺はすぐにここを出て行く。ここにはこの3人しかいないようだな。警察が駆けつけるまでお前らを見張っててもいいぞ」
「警察? ……何モンだ、お前ら」
「ここで待っていた方がいいんだな?」
「……奥の鍵がかかった部屋だ」
「鍵は?」
「藤沢が、そこの男が持ってたはずだ」
「部屋には他に誰かいるのか」
「いや」
俺はその言葉を聞くと相手のガスマスクを外して、さらに催涙スプレーをかけた。
男は怒号を上げたが無視した。
悶えている藤沢に近付くと、その腹を蹴り上げて大人しくさせてから、体を探って鍵を取り出した。
奥の部屋まで行って、ドアに耳を当てる。
男と少女の咳き込む声が聞こえた。2人しかいないようだ。
鍵を開けてドアを大きく開き、念のため数秒待ってから部屋に入ってドアを閉める。
二宮がいた。
生きていた。
体の動きにどこかを痛めているような様子はなかった。
咳き込んでいる以外は無事なようだ。
「大丈夫か、二宮」
駆け寄ってガスマスクを着けさせ、目に予備のゴーグルをかけた。
「……店長さん?」
「そうだ、俺だ。目は見えるか?」
二宮は俺に力いっぱいしがみついた。
まるで俺を逃がすまいとするかのようだった。
俺も二宮を抱きしめ返した。
間違いなく、生きている二宮が俺の腕の中にいた。
俺はその暖かさをしっかりと感じた。
あの事故の時と違って、俺は無力ではなかった。
しばらく待つと、二宮は目をはっきりと開けられるようになった。
涙はまだ溢れているが、これは仕方がないだろう。
「ゴフッ、ゴッ、ゴフッ」
横から聞こえる咳の声がうるさくなってきた。
振り向くと小延智也がいた。
小延の目は閉じたままで、涙が流れている。
手で抑えた口からは咳が漏れ続けている。
その時、二宮が抱き付いたまま俺の体を小延から離そうとするよう押し始めた。
「二宮」
「ダメ! 小延さんを殺したらダメ!」
「俺が小延を殺そうとする理由は知っているんだな。……それでもお前は止めるのか?」
「小延さんを殺したら、店長さんも――」
二宮は言葉を詰まらせ、その体は細かく震えていた。
二宮がこんな無茶をした理由を俺はおおよそ気付いていた。だがそれでも、二宮から直に聞いた言葉は俺の心を大きく揺さぶった。
「二宮。今は殺さない。……俺の家族に誓う。小延にこれを着けてやれ」
そう言いながら、スポーツバッグから出した3セット目のゴーグルとガスマスクを二宮に渡した。
それを受け取った二宮はしばらく俺の顔を見つめ、振り返るとそれらを小延に着けてやった。
「それから2人ともこれに着替えろ。脱いだ服はこのかばんに入れるんだ。二宮はこのウイッグもだ」
二宮が着替えている間、俺は入り口を見張っていた。
小延はまだ目を開けられない。
小延の咳が治まるのを待ってから俺は2人に言った。
「ここから出る。ついてこい」
そして俺たちは、入ってきた経路を逆に辿ってビルの入口まで戻った。
その間、特にじゃまは入らなかった。
1階のドアに耳を当てると、外からは大勢の人の声が聞こえた。
おそらく階上から避難してきた人たちだろう。
ドアから出るとすぐに、人ごみに紛れてゴーグルとガスマスクを外させた。
近付いてくるパトカーのサイレンが聞こえた。
ビルの外にはいかにもという格好の男たちがいたが、俺たちには気付いていないようだった。
男たちから逃げるのではなく、わざとその近くを通って他人と共にビルから離れた。
俺は数十メートル離れたビルの非常階段に2人を連れて行った。
階段の周りは足がかりのない柵で囲まれていて、出入りするための扉には鍵がかかっていない。
最後に俺が中に入り、持参した大きな錠前でその扉に鍵をかけた。
これで誰かがこの上に昇ったとは思われないだろう。
暴力団員をさらい出した時には、ここで尋問する予定だった。
俺が二宮を背負い、駆け足で6階建ての屋上まで昇った俺たちは、ようやくそこで一息つくことができた。
俺は二宮良治に電話をかけてから、そのスマホを二宮に渡した。
父親と話している二宮の声は、涙声になっていた。
その様子を見ながら、俺は絶対に変わらないと思っていた決意が初めて揺らいでいるのを感じていた。




