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砕身

 湊河家では、みんな自分の感情を他の家族に隠そうとはしない。

 周りに誰もいないときと同じように、遠慮なく喜怒哀楽を露わにしている。

 それを見た他の家族が無暗に干渉することはない。


 例えば誰かが悩んでいても、その理由を聞き出そうとはしない。

 手を貸して欲しい時や共感して欲しい時には遠慮なくそう伝える。

 それまでは基本的に放置するのが、湊河家の暗黙のルールだ。


 ユキはときどき悩んでいること自体を隠そうとするが、僕から見ればバレバレだ。

 毎日一緒にいる相手を関心を持って見ていれば、何か変化があればすぐに分かる。

 僕も父さんや母さんからはこんな風に見られているんだろう。

 それに気が付くと、家族に気持ちを隠すのは無駄だと思うようになった。


 男女を問わず友人の多いユキは、バレンタインになるといつも、幾つものチョコを家に持って帰ってくる。

 最初にチョコを持って帰ってきた年に、僕はちょっと大げさに悔しがって見せた。

 するとそれから、毎年僕にチョコを見せて自慢げな顔をするようになった。

 悔しい気持ちはあるが、自分の弟がそれだけ好かれているというのは僕にとって自慢でもあった。


 ところが僕が告白されて真剣に悩んでいた年には、ユキはチョコを僕に見せなかった。

 父さんは酔っている時に、僕に好きな相手ができたかとは聞かなかった。

 自分の悩みで頭がいっぱいだった僕は、ずいぶん後になってからそのことに気付いた。


 もちろん僕は家族に自分の悩みを話していない。

 悩み始めたのがバレンタインだったから、2人はなんとなく僕の事情を察したんだろう。

 僕たちはそういうことが自然にできる家族だった。





 脱出作業を始めてわずか数分後には、僕は自分に失望していた。

 僕がどれほど力を込めてもシートはビクともしなかった。

 体や脚を思い切りひねったり、狭い空間で反動をつけたり、肘や肩や頭を背もたれに叩きつけてもダメだった。

 全力を出し続けられたのがたったの数分だった。

 僕の筋肉はもう最初の時の力を出せなくなっていた。


 このままだとユキは死ぬ。

 それが分かっているのに、僕は脚を抜く程度に助手席を動かすことさえできない。

 こういうとき、人は火事場の馬鹿力を出せるものだと僕は思っていた。

 座席が動かせないなら、自分の脚を削ってでも引き抜けばいい。

 何故それができないんだ。

 僕がユキを、事故に遭っている家族を本当に大切に思っているならできるはずだ。

 できないのは、僕の思いが足りないからじゃないのか。


 僕はシートの布地に噛みついた。

 シートの中がどうなっているか分かれば、何か動かすためのヒントが見つかるかもしれない。

 簡単には破けなかったから、歯を軋らせて布を磨り潰し、頭を振って布を引っ張った。

 何度も繰り返すことで、ついに布の破片を噛み千切ることに成功した。

 開いた小さな穴に指をねじ込むと、腕を無茶苦茶に振って裂け目を大きくしていく。


 僕の膝を押さえつけていたのは、直径1センチほどの金属の棒だった。

 棒の左右の端はそれぞれ頑丈そうな金属の枠にはめ込まれている。

 僕の力で押したり引いたりしても、この棒を曲げらないことは分かっている。

 しかし左右の枠の間隔を少しでも広げることができたら、棒は枠から抜けるんじゃないだろうか。


 右腕を勢いよく振って肘を金属の枠に叩きつける。

 僕はその行為をひたすら繰り返した。

 繰り返すことで椅子へのダメージが蓄積していけば、どこかが壊れて枠が動くかもしれない。

 僕に期待できることはそれだけだった。

 脱出を諦めることなどできなかった。

 苦痛を訴え続けるユキの声が、僕の体を動かし続けた。





「大丈夫だ……、大丈夫だ……、大丈夫だ……、大丈夫だ……、ユキ……、大丈夫だ……」

「……泣いてるの? 兄ちゃん」


 どれだけ叩き続けたのか分からなくなった頃、ユキがかすかな声で僕に話しかけた。

 いつの間にかユキは悲鳴を上げるのを止めていた。

 ユキの言葉を聞いて、僕は自分の口から嗚咽が漏れていたことに気が付いた。


「ユキ……。ユキ!」

「もう、あんまり痛くない。……痛くないよ。……泣かないで。……痛くないから」


 僕はユキの手を握って言った。


「大丈夫だ。もうすぐ助けが来るから。もう少しだけ待ってくれ。僕が――」


 ユキは僕の言葉に答えなかった。

 ささやくような声で、『痛くない、痛くない』とつぶやき続けていた。


 麻痺しかけていた僕の心に激しい感情が湧いてきて、僕は声をつまらせた。

 ユキの手を握るだけの静かになった環境で、僕の耳にふと車のエンジン音が聞こえた気がした。

 最初は空耳かと思ったが音は徐々に大きくなっていく。

 これは間違いなく車が近付いている音だ。


「ほら! 車だ。車が来た。聞こえるか、ユキ!」


 カーブでガードレールが突き破られていれば、通りかかった運転者は間違いなくそれを見つける。

 近くに事故多発注意と書かれた看板もある。

 もう少し待てば、電話で通報するために車が止まるはずだ。


 だけど僕のその期待は裏切られた。

 音が止まることはなく、だんだん小さくなっていった。


「何だよ! 何で止まらないんだ?」


 警察へ電話するなら、法律に違反しないよう車は止めるだろう。

 ……いや、まてよ。走りながらでも同乗者がいたら電話はできる。

 その考えに希望を見つけた僕の耳に、またエンジン音が聞こえてきた。

 さっきとは明らかに違う大型車のエンジン音だ。


 考えてみれば、あの道には少ないながら車が走っていた。

 レストランの駐車場を出てから事故に遭うまででも、すれ違った車は軽く10台を超えていた。

 改めてスマホを見ると時刻は10時27分。

 事故の後に現場を通った車は何十台にもなるはずだ。

 一人くらいはもう通報してくれただろう。


 その時僕は矛盾していることに気が付いた。

 僕の考えが正しいのなら、すでに救急車が来ているはずじゃないか?


 僕の考えが間違っているのか。人間はそんなに薄情なのか。

 この上の道を通った人たちにとって、電話の1本さえ面倒だと思うほど他人の生死は軽いモノなのか。

 父さんなら間違いなく110番か119番に電話をかける。

 そして車を安全な所に止めてから、落ちた車と乗っている人がどうなったのか確認しに行くはずだ。


 そうだ。父さんだ。

 車と一緒に落ちたのならこの近くにいるはずだ。

 大声で呼べば目を覚ましてくれるかもしれない。


「父さん! いるんだろ! 起きてよ!

 ユキが、ケガしてるんだ。大変なんだよ!

 父さん! 父さん! 父さん! 父さん! 父さん!」


 父さんからの声は聞こえない。


「……誰か! 誰か来て! 誰か! 助けて!

 あああああっ! 誰か! 救急車! 呼んで! 早く!

 何で誰も助けてくれないんだ。死んじゃうんだよ!

 このままじゃ、ダメなんだよ! 誰か!

 わあああああああああああ! ユキ! 死ぬな!

 こんなの……、こんなのウソだ! 何でだよ!

 抜けろ! 抜けろ! 抜けろ! 抜けろ! 抜けろ! 抜けろ!

 抜けろ! 抜けろ! 抜けろ! 抜けろ! 抜けろ! 抜けろ!

 抜けろ! 抜けろ! 抜けろ! 抜けろ! 抜けろ! 抜けろ!

 抜けろ! 抜けろ! 抜けろ! 抜けろ! 抜けろ! 抜けろ!

 抜けろ……。

 抜けろ…………。

 ………………抜けろよ――」


 脚さえ抜ければユキを助けられる。母さんや父さんも助けられる。

 でも僕の脚はまだ挟まれたままだ。

 どうして僕にはこの足を抜けないんだ。自分の体なのに。

 僕ができないとみんな死ぬ。少なくともユキは助からない。

 死んでも仕方がないと思ってるから、普段は出せない本当の力を引き出せないのか。

 こんなに精一杯やったんだから、仕方がないと思ってるのか。

 僕はみんなを見捨てるのか。

 体を動かすのを止めたのはそういうことなんだな。


「違う! 全然違う!」


 だったら諦めるな。

 諦めるのはみんなを殺すということだ。

 体を動かせ 誰かに気付いてもらえるように声を出せ。


「誰かああああああああああああああああああああぁぁ

 ああああああぁぁぁ……

 ぐっ! げふっ!

 くそっ! くそおおおおおおっ!

 わあああああああああああああああっ!

 こんな脚が! どうしたら……。

 あっ! ああっ! そうだ! 切ればいいんだ! 脚を!

 切るもの! 何か! ガラス!」


 砕けた窓ガラスの粒が僕の周りに落ちていた。

 僕はそのガラスをつまむと、膝を抑えている金属棒に沿って、切るように何十回もこすった。


「切れろ! 切れろ! 切れろ! 切れろ! 切れろ! 切れろ! 切れろ!」


 でもズボンの布さえ全く切れなかった。

 指で触ってみても、こすった跡は分からなかった。

 ガラスにこすられた金属棒がキーキーと鳴っただけだった。


 金属棒の方にはかすかだが傷がついていた。

 ガラスはナイフで傷つかない。

 ガラスは鉄より脆いけど硬い。


「知ってる! TVで見た! だから何だ!」


 ハンカチか何かにガラスの粒をまとめて乗せるんだ。

 それで金属棒を包んで擦ったら、やすりみたいに削れるんじゃないか。


「ホントか? ちょっと待て……。

 これで……擦るぞ!

 ……鳴ってる! キーって鳴ってる!

 キー! キー! キー! キー! キー! キー! キー!

 キー! キー! キー! キー! キー! キー! どうだ!

 ……ほらほらっ! 表面がザラザラになった! よし!

 削れろ! 削れろ! 削れろ! 削れろ! 削れろ! 削れろ! 削れろ!」



 僕は叫びながら金属棒をこすり続けた。

 疲れて動かしにくくなると、左右の腕を交代させた。

 続けているとキーキーという音が小さくなってきた。ガラスの角がすり減ってきたんだろう。

 僕はハンカチのガラス粒を捨てて、別のガラスを拾い集めた。

 拾っている間は僕も叫ぶのをやめた。

 僕の耳に、自分の呼吸音と心臓の音が聞こた。


 ドッ、ドッ、ドッ、ドッ、ドッ、ドッ、ドッ、ドッ


 その音に混じって、より小さく、少し違うテンポで別の音が聞こえていた。


 トッ……トッ……トッ……トッ……トッ……トッ……


 これはユキの鼓動だ。僕はそう思った。

 これが聞こえている間は、僕のやっていることは無駄じゃない。

 ガラスを集め終えると、僕はまた金属棒をこすり始めた。

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