事故
山上のレストランで食事をした帰りだった。
外食のときに運転するのは、お酒があまり好きじゃない母さんの役目だ。
僕たち湊河家の4人は、その日も母さんが運転する軽自動車で家に帰るところだった。
助手席に父さん、運転席の後ろに弟、そして助手席の後ろに僕が座っている。
もちろん全員シートベルトは着用している。それを確認してからでないと、母さんは車を動かさない。
僕は身長が182センチあって、家族の中では一番背が高い
母さんが車を選んだ時は後席の座り具合を確認するため僕も試乗についていった。
そうして選んだこともあって、この軽自動車の後席は足元が狭くない。
単に前後の方向に広いだけじゃなく、座面の長さや高さも普通車と変わらない。
アルコールが入ると口数の多くなる父さんは、僕が今まで何度も聞いた話をまた繰り返している。
僕よりもずっと聞き飽きているはずの母さんは、いつも通り機嫌よく父さんの言葉にうなづいていた。
「お父さん。その話を聞いたの37回目」
「ユキ。いつも思うけど、本当にその数覚えてるのか?」
ユキというのは弟の貴幸だ。名前の一文字目が僕と同じなので、いつもユキと呼んでいる。
「この前より数が増えてるから本当に覚えてるみたいよ。貴弘」
母さんが僕にそう言った。
僕は小さい頃、母さんからタカちゃんと呼ばれていた。弟が生まれてからはお兄ちゃん、そして最近は貴弘になった。
「この前は40を超えてたはずだけど」
「それはお母さんが道を間違えた話だよ。37回目はガス欠の話」
「……聞き流してると思ってたけど、意外にちゃんと聞いてるんだな、お前」
父さんの話は母さんが主役になっていることが多い。
ほとんどが失敗談なのだが、何故か最後には惚気話になってしまう。
親のそんな話を聞かされるのは、高校生の僕には結構つらいものがあった。
もうしばらくすると、父さんは僕に誰かつき合っている子はいないのかと聞くだろう。
生まれてから16年間、僕にそんな相手がいたことがなかった。
僕がいないと言うと、次に誰か気になっている子はいないのかと尋ねてくる。
健全な高校生としてはさすがに全くいないわけじゃないが、特定の人の名前が出てくるほどではなかった。
そういう相手を作るチャンスが、これまでの人生でなかったわけじゃない。
中学の時には女子から告白されたこともある。
どちらかといえば好意を持っていた相手だったけど、結局その子とはつき合わなかった。
僕の優柔不断なところとか、友人がその子を好きだったりとか理由は色々とあったけど、一番大きな原因は僕の家族に対する考え方だ。
家族から反対されたというわけじゃない。
僕にとって両親は、一番理想に近いと思う男女関係だ。
その子と両親のような関係になれるかと考えたときに、僕にはそう思えなかった。
家族というのは、僕にとって自分自身と同じくらい特別なものだ。
僕には、他の家族も全員がそう思っていると断言できる。
両親は僕にそれを言葉だけでなく行動でも証明し続けてきた。
小さい頃はそれが当然だと思っていたけど、世の中にはそうではない家族も多いと今は知っている。
その人が喜んでいれば自分のことのように喜べる。
自分が苦しいときには何も言わなくても気付いてくれる。
そして頼めば惜しみなく力になってくれる。
家族というのはそんな関係だ。
そうじゃない家庭もあるというのは、僕にはひどく寂しいことに思えた。
曲がりくねった山沿いの下り道を走っていると、どこからかタイヤの滑る音が聞こえ始めた。
時間が経つにつれて音は段々大きくなっていく。
振り返った僕の目に、見え隠れするヘッドライトの光が映った。
乱暴な運転をしているドライバーがいるようだ。
母さんもそれに気付いたのか、車を道の端に寄せると走る速度を十分に落とした。
僕たちの車は右曲りのカーブに入った。奥の方でカーブがきつくなるため事故が起こりやすい場所だ。
そのきつくなったカーブで突然、僕たちの車はヘッドライトの強い光に照らされた。
その直後、僕は轟音と共に激しい衝撃を受けた。
「タカちゃん……、ユキちゃん……」
朦朧とした状態で、僕は絞り出すような声を聞いた。
その声は時々途切れながら、何度も繰り返されている。
意識がはっきりしてくると、掠れていても僕にはその声が母さんだと分かった。
聞いていると胸がつまるような声だった。
周りは真っ暗でほとんど何も見えず、鼻には火薬が燃えたようなきつい臭いを感じていた。
「母さん?」
状況が理解できず、僕は問いかけるように母さんを呼んだ。
「……タカちゃん」
母さんの声は相変わらず掠れていたけど、さっきの悲痛な感じは薄れていた。
僕は何かでこぼこした物の上に横たわっていて、手で探るとそれが自動車のドアだと気付いた。
車は僕が座っていた左側を下にして横倒しになっているようだ。
そこでようやく、僕は自分たちが車の事故にあったことを思い出した。
「タカ……ちゃん……、だ、じょ……」
声が小さくてよく聞き取れなかったが、大丈夫かと聞かれたのだろう。
そう考えて僕は、腕や脚を順番に動かしてみながら、自分の体に異常がないかを確認した。
一番痛みを感じているのは左の足首だが、意識して動かさなければ我慢はできる。
他にも痛む場所は幾つかあったが動かしても支障がない程度だ。
両脚は膝の辺りが何かに挟まれていて、力を入れても全く動かない。
「大丈夫だよ。母さんは?」
聞こえた声の調子から考えると、母さんの体に問題がないとは思えない。
それに僕のことを貴弘ではなく昔のようにタカちゃんと呼んだ。
僕が問いかけに母さんからの答えは無く、聞こえるのは苦しそうな呼吸音だけだ。
感じている不安がどんどん強くなっていった。
僕がもう一度声をかけようとした時、大きく息を吸う音が聞こえた。
「タ……カ……、あ……が――」
その続きはいくら待っても聞こえなかった。
気が付くと呼吸の音も聞こえなくなっていた。
「母さん!? 母さん!」
何度呼んでも返事はなかった。
どうしよう。どうすればいい?
落ち着け。そう、まず救急車を呼ばないと。
僕は自分の体を探って、見つけたスマホを取り出した。
闇に慣れた僕の目にはディスプレイの光が眩しかった。
待ち受け画面の青い光が周囲を照らしたので、僕はようやく車内の状況を確認することができた。
すぐ目の前に助手席のヘッドレストがあった。
助手席がスライドできる範囲を超えて僕の方へ移動していた。
その背もたれと僕が座る後席の座面との間に、僕の両脚は挟まれていた。
助手席を少しでも前に動かして脚を自由にできないか。
そう思って、助手席の背もたれの肩に手をかけた時、僕の指がシートと一緒に何かの布をつかんだ。
父さんが座っているはずの場所に何かが被さっていた。
引っ張ったその大きな布は、反対側がダッシュボードの隙間に入っている。
これはしぼんだエアバッグだ。
ダッシュボードとその先の割れたフロントガラスが、車内に侵入していた。
車体が前から押し潰されていて、助手席のドアは無くなっている。
エアバックの布がじゃまでよく見えないが、ダッシュボードは助手席のすぐ前にまで来ていた。
そこに人が居られるようなスペースはない。
たぶん父さんは、事故の衝撃で開いたドアから外へ放り出されたのだろう。
僕にはそうとしか考えられなかった。
「父さん! どこ! 返事してよ!」
大きな声で呼んだが父さんからの返事はなかった。
さっきまでの僕のように気を失っているのだろうか。
お酒をたくさん飲んで寝てしまった父さんは、揺さぶって声を掛けたくらいでは目を覚まさない。
スマホの画面を見ると時刻は9時46分だった。
レストランを出たのが9時ちょっと前だったから、事故が起こってからでも30分以上は経っている。
それなのにまだ救急車が来ていない。
僕たちを崖に落とした車のドライバーはどうなったんだろう。
電話のできない状態なのか、無事だったがそのまま逃げてしまったのか。
左手で支えて上体を起こすと、運転席とそこに座っている母さんが見えた。
車が倒れているため横向きの重力がかかり、母さんの上半身は半分ほど背もたれからはみ出していた。
頭はこちらを振り向いた状態だったので、僕にはその横顔がはっきりと見えた。
目は閉じられていたけど、その表情に痛みや苦しみは感じなかった。
しかし、さっきの母さんの様子を考えると、すぐにでも医者に診てもらう必要がある。
電話をかけるためにスマホに目を戻した僕は、そこで初めてディスプレイの圏外の文字に気付いた。
手の届く範囲でスマホの位置を変えてみても、圏外の文字は消えなかった。
ここはおそらく崖の下だ。そして車の床や天井は電波を通さない。
電話をかけるためには車の外に出る必要があるが、僕の脚は座席の間に挟まれたままだ。
僕はスマホの自動消灯時間を最長の10分に変更して、床に……ではなくドアの上に置いた。
そして自分の両脚を自由にするための作業を開始した。
まず現状を確認する。
助手席の背もたれは、その一番下の硬い部分が僕の膝の上に被さっている。
そして膝の裏を、僕がいる席の座面に押し付けている。
その時僕は、助手席の位置に違和感を覚えた。
助手席が単純に後ろへ移動したのなら、その背もたれは僕の脛に当たっているはずだ。
車は前から潰れただけでなく、床が『く』の字になる形で折れ曲がっていた。
脚を引き抜こうとしても、膝の皿とふくらはぎがシートに引っかかって動かない。
両手で助手席の背もたれをつかみ、渾身の力で押したが、助手席と後席との隙間はまったく広がらない。
横から脚を抜けないかと試してみたが、背もたれの左右は座面との隙間がさらに狭くなっていた。
脚を90度回したらどうだろうか。
つまり膝の前後ではなく左右が挟まれている状態にすれば、抜けるんじゃないか。
そのためには、体全体を横に向ける必要がある。
そう思って体をひねった時、左の足首に激痛が走った。
思わず息を詰まらせた僕は、その姿勢のまま痛みが治まるのを待った。
我慢できるぐらいの痛みになったので、とりあえず右脚から抜くことにした。
座席が膝を挟む力は、前を向いていたときより強くなっている。
「ぐ……ぐ……あああああっ! くそっ!」
脚は動く気配もない。
無力感を感じながら、まだ隣で気を失ったままのユキを見た。
ユキは腰をシートベルトに支えられて、左腕だけが僕の方に垂れていた。
運転席は助手席よりかなり前にあり、ユキの脚が挟まれている様子はない。
起こせば、ユキにも僕と同じ不安を味わわせることになるが、この状況ではしかたがない。
念のため右手でユキの首筋に触れると、脈拍はしっかりと感じられた。
ユキの肩に手を当てて、体を軽くゆすぶった。
「おい、ユキ。起きろ」
「ん……、ぐっ、ギャッ!」
突然ユキが悲鳴を上げた。目はこれ以上無理なほど見開かれている。
「うぐっ……、え、あ? ……痛い、痛い痛い!」
ユキが叫び始めた。僕には何が起こったのか分かなかった。
「ユキ! どうした!?」
「痛いよ。ああ、痛い! 痛いよ。んんっ……痛いっ!」
ユキが苦しんでいる。激しい痛みを訴えている。
でもその理由が分からない。
その体を見回しても、傷ついているような場所は見つからない。
「ユキ! 何処が痛いんだ!」
そう呼びかけても痛みに叫び続けるだけだ。
さらによく見ると、着ている黒っぽいシャツの脇腹が周囲より黒ずんでいた。
シャツの色は濃いオレンジだったはずだが、スマホの青い光のためにそうは見えなかった。
手のひらで、そのより黒く見える部分にそっと触れると、ぐっしょりと濡れた布の感触があった。
反射的に戻した僕の手に、赤黒い液体が付いていた。
手を近付けた僕の鼻に、エアバッグの火薬臭を上回る強さで血の匂いが届いた。
僕の脈拍が跳ね上がった。自分の鼓動が聞こえるほどだった。
このままだとユキの命が危ない。
腹からの出血を止めるには、傷口を直接圧迫すればいいはずだ。確か学校でそう習った。
僕はユキのシャツを捲り上げて、出血している場所を確認しようとした。
しかし胸の辺りまでむき出しにしても、その肌に傷らしいものは見つからない。
その間もユキは身をよじるようにして苦痛を訴え続けている。
早く手当てをしないとユキが死んでしまう。
父さんや母さんの場合と違って僕はそれをはっきりと理解している。
一刻も早く救急車を呼ばなくてはならない。
僕は自分の脚を自由にするため、今度こそ全力での脱出作業を開始した。