父親
次は二宮の父親、二宮良治と話をすることにした。
二宮に働いてもらうようになってから、すぐに親権者の同意書を貰いに行った。
本来、16歳以上なら法律上は同意書が不要だ。
しかし家事もこなしている二宮が親に黙って働くのは、彼女にとって負担になる。
その時に会いに行ったのは、俺ではなく外面の良い園田弁護士だ。
今回は俺も立ち会って父親に会うことにした。
二宮がバイトを終えて帰ってから、自宅で夕食の準備を終えるまでの間に、俺の店へ仕事帰りに立ち寄ってもらった。
娘の職場見学も兼てというところだ。
父親の反応が良ければ、一緒に二宮の家まで行って話の続きをするつもりだ。
「こんばんは、園田さん。そちらは湊河さんですね。娘がお世話になっています」
園田弁護士が俺を紹介する前に、二宮良治は俺に話しかけてきた。
「こちらこそ、娘さんにはお世話になってます。よくお分かりでしたね」
「娘から色々と聞いておりましたから」
「やはりこの傷ですか。目印は」
そう言って俺は、自分の頬にある傷を指した。
「いえ。傷のことを娘が話したことはありません。聞いていたのは人柄とか雰囲気です」
「それで一目で分かりますか?」
「それこそ、耳にタコができるほど聞かされましたから」
そういうと、二宮良治は俺に穏やかな笑みを見せた。
身長は平均的だが少し痩せていて、実直そうな印象だった。
「今日お話ししたいのは、言うまでもなく透花さんのことです」
「とうか? 確かにとうかとも読めますが、娘の名前はゆきかです」
ゆきか? そうなのか? ユキに似ている二宮の名前がゆきか?
「すみません。彼女を呼ぶのはいつも名字の方なので」
「いえいえ。父親としてはむしろ少し安心しました」
俺は二宮のため、彼女の父親に対して厳しい話をするつもりだった。
しかし俺は今、この人に娘の名前さえ知らない関係だと認識されてしまった。
そんな俺が説教しても素直に聞いてもらえるとは思えない。
「耳にタコと言われましたが、そんなに娘さんとお話しされているんですか?」
「しばらく前までは、ほどんど会話がありませんでした。私が学校でどんなことがあったかを聞いても、特に困ったことはないと言うだけでした。よく話すようになったのは、娘がこちらで働くようになってからです」
「というと、うちに来て何か困ったことがあったのでしょうか」
「とんでもない。逆に楽しい事ばかりのようです。年頃の娘なので親に何もかも話してくれるわけではありませんが。バイトを始めた最初の土曜は何かありましたか?」
いきなり鋭い質問が来た。
「特に問題は無かったと思いますが、どうしてですか?」
「前日に娘が、店のメニューを決めるため早く行くんだと言ってましたが、その日帰ってきた娘の話に、その話が出てこなかったので」
「ああ。ちょっと……、お金の話をしたんです。あまり他には話さない方がいいと言ったからでしょう。後でお父さんになら話していいと言っておきましょうか」
「いえ、それは結構です」
二宮良治と話しているうちに、俺は違和感を覚えた。
思ったよりずっと娘のことを考えている父親だった。
この問題は、最初に考えたほど単純ではないのかもしれない。
「そろそろ本題に入りましょう。今晩か、少なくとも数日のうちに娘さんが貴方の気持ちを確かめようとするはずです。それに対して真剣に応じて欲しいんです」
「どのような話か、お聞きしてもいいですか」
「娘さんは貴方に謝りたいと言ってます。彼女の妹さんが事故で亡くなった時、娘さんはその場にいたのに助けられなかった。娘さんは貴方にそのことを許して欲しいんです」
「許すも何も、あの事故は透花のせいじゃありません」
「本当にそう言い切れますか」
「もちろんです。あの子はまだ4つだったんですよ」
「常識で考えれば4歳だった彼女に責任を負わすことはばかげています。でも、人の心には割り切れない部分があります。彼女次第で妹さんは死なずに済んだんじゃないか。そういう気持ちが少しもなかったと言えますか」
二宮良治は俺の言葉を聞いてしばらく考え込んだ。
「……そう言われると分からなくなりました。あの時の私は冷静さを失っていたでしょうから」
「少なくとも彼女の心には、今でも貴方に対する罪悪感があります。それを間違いだと思うのなら、ただ否定するのではなく貴方が言葉を尽くして彼女に納得させてください」
俺がそう言うと、二宮良治は指を組み、中空を見つめたまま沈黙した。
やがてその視線が俺の方を向いた。
「触れまいとしたことが、間違いだったんでしょうか」
「彼女が事故のことを話した時、その時の自分をもう4歳だと言ったんです。彼女には大人が思うよりずっと周りの人の心が見えていたんでしょう」
「お話を聞きながら私も当時のことを思い出しました。あの頃は自分をごまかすために酒をずいぶん飲みました。酔って暴言を吐くようなことは無かったのですが、言葉ではなくその時の態度が、あの子を傷つけていたのかもしれません」
「わたしも勘違いしていました。貴方のことを、子供に罪悪感を植え付けたままにした、ひどい親だと思っていました。直接お話しして、それがわたしの思い込みだと気付かなかったら、彼女が貴方から聞けるのは自分の考えを否定する言葉だけだったでしょう。それでは彼女は自分が許されたと実感できない」
そう言った俺の顔を、二宮良治はじっと見つめていた。
「私と透花は幸運でしたね。湊河さんにお会いできたことに感謝しています」
「それは気が早すぎます。まず娘さんと話し合ってからです。彼女が話を持ち出すのが今日になるのかは分かりません。ちょっとした昔話とか、彼女が話しやすくなる状況を作ってあげてください」
この父親なら、俺を交えずに二宮と2人で話をさせた方がいいだろう。
もっと積極的になってもらうために、俺に頼らず自分で動いたという実感を二宮には持ってほしい。
二宮良治は俺に礼を言い、かなり離れてからまたこちらを向いて手を上げ、そして自宅へと帰って行った。
「驚いたよ」
隣にいた園田弁護士が俺に話しかけてきた。
「最初に会った頃とは、ずいぶん変わったもんだね。こんな風に他人に関心を持つとは思わなかったよ」
「二宮の影響なんだろうな」
「このまま彼女や、君の周りの気のいい人たちと、幸せになるって選択肢はないのかね?」
「ないな」
「……即答か」
園田弁護士は大げさにため息をついて見せた。
「そんなことになったら、そのうちあんたの物になるはずの金が、手に入らなくなるぞ」
「私は君が思うほど割り切れた人間じゃないよ。弁護士を目指していた頃は、本気で人を助けたかったんだ」
「まあ、俺が下手を打つとあんたまで火の粉を被るかもしれないからな」
「信じてもらえないか。まあ不徳の致すところだな」
父親が家に着く前に、俺は二宮に計画の変更を伝えた。
無責任だと怒られることも覚悟していたが、二宮は俺に礼を言ってから電話を切った。
その日の閉店後に住居の方のドアホンが鳴り、二宮が父親と共に現れた。
2人でわざわざ来たのだから、失敗でないことは確実だったが、二宮の表情とその行動を見てそれが予想以上の結果だったと分かった。
玄関のドアを開けた途端、父親の目の前で、二宮は両腕を開いて俺に抱き付こうとしたのだ。
とっさに俺は自分の両手で彼女の小さな手をそれぞれ握り、上に伸ばしてハイタッチ風の姿勢に変えた。
俺を見上げている二宮の笑顔に、戸惑うような表情が加わった。
「二宮のお父さん。わざわざ来ていただいてすみません」
「こんな時間にどうかと思ったのですが、娘がぜひにと言うので」
父親の存在を思い出した二宮が、慌ててその手を下ろした。
「ところでその鍋は?」
「筑前煮です。透花が湊河さんに食べていただきたいと言うので」
「ご夕食のおすそわけ、というわけですか」
「おすそわけというより、量でいえば家に残してきた方がおすそわけですね」
「ご夕食はまだなんですか。……よければ家で食べていかれませんか? わたしは豚の角煮を作ってみたんですが、量を間違えて食べ飽きてきたところなんです」
「それならあたし、他にも何か作ります」
二宮はそう言って家に上がると、店の方へ歩いて行った。
「店の冷蔵庫に残っている分で何か作れるか?」
「店で出さない物がいいですよね。出汁巻きとか、おひたしとか、豚汁とか――」
「豚汁は久しぶりに食べてみたいな。でも角煮も豚か」
「やはりそういう話し方の方が自然ですね」
楽しそうな声で二宮良治が言った。
「私にも同じように話していただけませんか」
「さすがにそれは……、二宮さんこそ、年下のわたしに気を使い過ぎではありせんか?」
「私は普段からこんな話し方なので、くだけた話し方の方が気を使うんですよ」
「あたしも店長さんには、普段と同じように話して欲しいです」
「……分かった。こんな話し方でいいかな」
あの事故以前の僕と違って、俺はかまわないと言われたら遠慮はしない。
「ええ。私はそういう話し方の若い人と会うことが多いんですよ。だから気になりません」
俺たちはそれから一緒に食事をした。
二宮の昔話を聞いたり、俺の昔話を聞かせたりした。
父親と一緒にいる二宮は、心の底から楽しそうだった。
「それではそろそろ失礼します。透花、鍋を持って来なさい」
二宮は台所の方へ歩いて行った。
「打ち解けられて良かった。あんたといる二宮は本当に楽しそうだった」
「私には、貴方がいるから嬉しくて仕方がないように見えましたが」
「いや。店ではさっきほど楽しそうじゃないんだ」
「貴方と2人だけではないからでしょう」
「今だって2人だけじゃない」
「透花も私になら気を使う必要がありません。空気のようなものですよ」
二宮が戻ってきたので、会話はそこで中断された
「これからも、透花をよろしくお願いします」
「よろしくしてもらってるのは俺の方だ。二宮、頼りにしてるぞ」
「はい。任せてください」
俺は道路まで出て2人を見送った。
道が曲がっている所で姿が見えなくなるまで、二宮はときどき振り返ってその手を上げた。