横浜駅西口で
僕の元にそのメールが来たのは丁度出勤前だった。僕はさっと目を通したが、その意味が最初、よくわからなかった。その文面は次のようなもので始まっていた。
「お久しぶりです。私は涼介君と静香さんの友人の佐藤咲耶です。良和君に以前にお目にかかったのは、もう六年前でしょうか…」
その文面はありきたりの、だがしかしそんな丁寧な文体だった。ちなみに、涼介というのは僕の父、静香というのは僕の母の名前だ。また僕は佐藤咲耶という人にも覚えがあった。ごく普通の、少しだけ気位の高い中年女性、という感じの人で、実際、六年前に何かの拍子で、両親と一緒で、四人で食事した事があった。その時の佐藤咲耶さんの印象は、僕には別に強いものではなかったのだが。
僕はそのメールを、下にスクロールして読んでいった。すると、そこに佐藤咲耶さんから、一つ妙な提案があった。それをここで取り上げてみよう…。
「実は私の娘は今年の春に、Y大学の芸術学部、写真専攻コースに入学したんですが、良和君もまたY大学を出たという事に最近思い至り、その事もあって、娘があなたと一度会ってお話したい、と言っているんですけれど、一度、会ってお話しする事はできないでしょうか?。娘は大学に入ってまだ間もないので、ぜひとも大学の先輩としての良和君の話をお聞きしたいという事らしいです。ちなみに娘の名前は佐知と言います」
僕はそんな内容のメールを読み終えると、とても奇妙な気持ちになった。…僕はもう二十八だし、大学を卒業してから何年も経過している。それに、僕が大学の先輩として喋れる事などしれている。僕はあの大学ではほとんど何もせず、ただだらだら過ごしただけだし…それに、そんな事を聞いてどうしようというのだろう?。
だから、僕はそのメールに次のように返信した。
「咲耶さん、お久しぶりです。メール読ませていただき、提案の方、理解しました。ですが、正直に言うと、僕などのような劣等生の話が娘さんの大学生活にお役に立てるとはとても思えないのですが。僕は大学でまともに勉強していなかったし、それに卒業して何年も経っているので、大学の方でも色々変化あったでしょう。ですから、多分、僕が佐知さんとお話したところで、佐知さんのお役に立てないと思うのです。…ですが、どうしても、と言うのであれば、その旨、また返信の方お願いします」
僕がそのように「どうしても、と言うのであれば」などとメールの最後に書き込んだのは、単なる僕の気まぐれからだった。それは本当に気まぐれで、僕はその「どうしても」の答えが返ってくる、などとは思いもしなかった。要は、僕は先方からの提案をやんわりと、そして静かに拒絶しているので、それに相手も気付くだろう、という算段だった。つまり、その箇所は僕からすれば、社交辞令のつもりだったわけだ。僕はそのメールを送信してから、近くの仕事場に出かけた。急がないと、遅刻してしまう。
だが、僕が仕事の休憩中に再びスマートフォンの画面を開けた時には、そこには咲耶さんからの意外なメールが帰ってきていた。
「佐知は是非どうしてもお会いしたい、と言っています。もしよろしければ、可能な日にちを連絡してくださるようお願いします。こちらでできる限り調整いたしますので」
僕はそのメールが来て驚いたが、しかしこの申し出を断る事はもうできそうにないな、と悟った。僕は気分が進まないながらも、そのメールに、自分の空いている曜日を記して返信した。返信は、翌日の午前に帰ってきた。
「では今度の日曜日、横浜駅西口十五時待ち合わせでいかかでしょう」
そうやって、僕はその未知の、佐知というまだ十代の女性に会う事になった。それは急転直下に決まった事であり、僕の淡々とした生活の中では考えられない異変の一つと言えた。なにせ、僕には友人とか彼女とか、そんな人間関係はロクにないのだから。今、僕はただ一人孤独に生きる二十八才のフリーターだった。そしてそれが、僕といううらびれた人間のアイデンティティの全てだった。
※※※
待ち合わせの時間に、僕はユニクロのハーフパンツにユニクロのシャツ、という極めて凡庸な出で立ちで現れた。横浜駅西口は入り組んでいてわかりにくい。彼女は人目で僕に気付くだろうか、と心配していたが、それは杞憂だった。僕が大きな柱に背をもたせかけて、ウォークマンで音楽を聴きながら彼女を待っていると、階段を上がってくる彼女が見えた。彼女は青のショートパンツに白のブラウスという服装で、胸元に軽く金属物が光っていた。そしてそのきれいな太ももは世界に向かって露わにされており、彼女の髪は茶に染まっていた。その出で立ちはいかにも今時のキャピキャピした女子大生、といった感じだった。彼女は僕に、すぐに気づいた。僕は自分がどんな服装をしていくのか、あらかじめ彼女の方にメールしておいた。そして彼女がどんな子かというのも、メールで聞いていた。彼女は、小走りで僕に近づいてきた。
「あの…神谷さんですか?」
と、彼女ーーー佐藤佐知は僕に尋ねた。僕はイヤホンを外しながら、
「そうです」
と言った。
「じゃあ、佐知さんでーーー」
「あ、そうです。佐知です」
そうやって、僕と佐藤佐知は型通りの挨拶を済ませた。どうも、今日はわざわざありがとうございます、いえいえこちらこそ、等々。人と人の関係の間に必要な潤滑油。僕達は型通りの挨拶を互いに済ませた。
「じゃあ、どっかでお茶でもしながら話しますか」
と僕は言った。佐藤佐知は僕の顔を見て、一つ頷いた。その時、彼女は、僕という人間の人となりを探るような目つきをしていた。無理もない、と僕は思った。相手は二十代後半の男である。十代の女が、相手の男に危険性があるかどうかを見極めようとするのはごく当然の事だろう、と僕は思った。その時の僕はそんな風に、あくまでも単純に考えていた。
「どこのお店にしますか」
と言いながら、僕達は居酒屋などのある方に歩いて行った。だが、彼女は居酒屋はダメだろう。まだ十代だし、それにまだ昼だ。僕がその辺りの事を説明しながら、どういう店にすればいいだろうかと尋ねると、彼女は手近の喫茶店を指さした。喫茶「マスターコーヒー」。凡庸な名前。そして古めかしく、いかにも「喫茶店風」な喫茶店。これも凡庸。「じゃあ、そうしましょう」と言って、僕達は喫茶店に入った。「マスターコーヒー」は冷房が入っていて涼しく、店内には三、四の客がいた。僕達は窓際の席に座った。そして出てきた白髪の中年女性にアイスコーヒーを二つ頼んだ。やれやれ、と僕は思った。こんな所で、若い女の子とデートして、どうしようっていうんだ。金もないのにさーーー。僕はこの会見を基本的に無意味なものとみなしていた。…だが、彼女の方はそうではなかった。彼女の方から、僕に話を切り出してきた。
「神谷さんはうちの大学の出身なんですよね?」
と佐藤佐知は念を押すように言った。
「そうだよ」
と、僕。
「それで、確か、文芸学科でしたっけ?」
「そう」
と、僕。
「文芸学科ってどんな事やったんですか?。…やっぱり、文学とか芸術の事について、真剣に討論したりしたんですか?」
と、佐藤佐知は僕の目を見て聞いてきた。僕は目を逸らした。僕は目を合わせて話すのが苦手なのだ。そしてこの癖のせいで、人見知りな性格だという事がすぐにばれてしまう。…まあ、ばれても特に問題はないのだが。
アイスコーヒーが二つ運ばれてきて、僕は運んできた女性に軽く頭を下げる。その白髪の中年女性は、その動作をおそらく何万回と受けてきたのだろう。そして彼女は、おそらく何万回と発動されてきた微笑を僕の方に軽く振り向けてから、カウンターの方に戻っていった。
「いや、そんな事しないよ。ただ、『そういう態』をしてるだけ。誰も、芸術の事なんか考えていない。だって、僕の所のゼミの先生は、ゼミの中の一番かわいい子と付き合っていたからね。それで、その女の子は、その子のいたテニスサークルの部長とも付き合っていた。何というか、そんな感じだったよ。全体的に」
おいおい、いきなり初見の可愛らしい大学生に余計な事を言ってしまったよ…と、僕は言ってからすぐに後悔した。何してんだ、僕は。若い女の子と久しぶりにしゃべるので、舞い上がってしまったのかもしれない。僕は急いで、手元のアイスコーヒーに手を付け、自分のその発言をごまかそうとした。…こういう事は人と人の関係では言ってはいけないのだ。それは、知っている。しかし、この今、僕は急にそんな事を言ってしまった。これは、間違いなく失態だった。
だが、佐藤佐知は、そういう不躾な事を言われた一般人とは、少しばかり違う反応を見せた。彼女は急に手元のコースターを見つめ、そしてじっと考えこむ様子を見せた。僕の場所からは彼女の長い睫毛が見えた。あれはつけまつげだろうか?、と僕はふと考えた。…多分、そうなんだろう。だとしたら、素顔は、今見せている顔とは全然違うのだろうな。
佐藤佐知は手元のコースターを見つめ、考えこむ素振りを見せると、今度は急に顔を上げ、そして僕の目をきっと見つめてきた。その表情は、少しばかり普通の表情とは違う、何か、意志のこもったものだった。
「神谷さん、実は私が神谷さんとこうして二人で話したいと言い出したのは実は…母から、神谷さんの話を聞いたからなんです」
「咲耶さんから?」
と、僕は言った。佐藤咲耶…あの人が僕について語るどんな事があるというのか。向こうはほとんど僕の事など知りもしないはずなのに。
「ええ、そうなんです。なんでも…その…、神谷さんは、家に引きこもって、本ばかり読んでいるちょっと変わったーーー『ヘン』な人だって。それで、私は興味を持ったんですよ。そのほかにも、色々聞きました。要は…母は、あなたのご両親からそういう話を聞いていたみたいです」
ふうん、と僕は思った。僕の色々な話…しかし、どんな話があるというのだろう。僕の汚泥のような過去には、語られるべき特徴的なエピソードなどありはしない。僕は汚泥の中にじっと籠って、二十八年の年月を過ごしてきた。僕には、ありとあらゆる意味で、人としての『人生』など存在していない。僕に関する興味あるエピソードなど、僕のどこを探してもひとかけらもあるはずはないのだが。
僕はそう思ったが、そんな事は口に出さなかった。それで佐藤佐知の話を聞いた。
「私は色々、聞きました。でも、それは結構前の事です。なんでも、難しい本を沢山読んで、よく分からない事を言う人だって。それで、大学を出て就職せずに、ニートをした後にフリーターになったって。その話を聞いた時は、別に私は神谷さんの事をなんとも思いませんでした。その時は、特になんとも思いませんでした。でも、大学に入ってーーもう三ヶ月経ちますけどーー色々疑問が出てきて、それで神谷さんの事を思い出したんです。ああ、そうだ。あの人は私と同じ大学を出たんだって。それで、母に頼んであなたにメールを送ってもらったんです」
そこまで言うと、佐藤佐知はやっとコースターの上のアイスコーヒーに手を付けた。彼女はミルクとガムシロップを入れてかき混ぜて、それをすすった。その液体はストローを昇り、彼女の体内に吸収されていった。
「疑問って何だろう?」
と、僕は純粋な興味から尋ねた。その時にはもう、僕と彼女の関係とは、他人行儀なある線を、ほんのわずかに踏み越えた位置にいた。…それは後から振り返って、分かった事だけれど。
「普通の子が普通に大学に行って…何か、疑問になるような事があるのかな?。…それに、僕が答えられそうな事なんて、そうあるようには思えないけど。世の中には僕より人生経験豊富な人が沢山いるだろうし…」
でも、その時には、佐藤佐知は僕の話など全然聞いていなかった。これも、後で分かった事だけれど。
「先輩…先輩って呼んでいいですか?。神谷さんは0Bなわけだし。(僕は無言で頷く。)先輩、私はずっと思っていたんですよ。高校生の時から。…いや、『ずっと』じゃないかもしれない。でも、とにかく思っていたんですよ、私は。…つまり、大学に行けば、それも自分の行きたい大学に行けば、そこにはきっと、今のこことは違う、ちゃんとした人達がいるんだって。私は、芸術が好きでした。特に絵画とか写真とか、そういうのが好きでした。それで、例えばメイプルソープとか、そういうマニアックな写真なんかもこっそり見たりしてました。写真集は高くて、高校生の私には買えないので、よく図書館に行って、そこで見ていました。それで、私はずっと思っていたんですよ。大学に行けば、自分の望む大学に頑張って行けば、きっとそこには写真とか、その他色々な芸術に対して、真剣に熱く語り合えるような、そんな人達がいるんだって。そういう人達は、高校の時の仲間と違って、その場その場で生きているんじゃなくて、もっとちゃんとしたもの、もっと長く続けられるような大切なもの、あるいは偉大なもの、そういうものに対して一つの確かな哲学のようなものを持っているんだって。…だから、私頑張って受験勉強しました。勉強は嫌いでしたが。…でも、現実はそうじゃありませんでした。大学生達が考えている事はみんな、適当にさぼって単位を取って、遊ぶ事。恋愛したり、おしゃれしたり、ディズニーランドに彼氏と行ったり、それでその事をラインでほのめかして自慢してきたり…何というか、そんな事ばっかりなんです。男達は飲み会では、私達をどうやって連れて帰ろうかって頭の中で考えているのがバレバレだし…それをごまかすのがお酒、というわけです。ええ、私はまだ十代ですけど、お酒も飲みました。ほんとはダメですけど。でも、そんな事はどうでもいい。私、どうやら幻滅しているみたいなんです、大学に。それで…今日、先輩とこうして話をする機会を持つ事になったという事なんです」
そう一気呵成に言ってしまうと、佐藤佐知は急速に沈黙した。僕は何と言っていいのか、良くわからなかった。どうやら、この眼の前の女の子は、いかにも『女子大生然』とした普通の女の子とはすこしばかり違うらしい。そういう事を僕の頭は直覚した。
しかし、かといって、急に人生の先輩ぶるわけにもいかなかった。…いかないはずだった。なにせ、僕は単なるフリーターでしかないし。でも、その時、僕は自分の中に急速に、何かを話したい衝動のようなものを感じた。それで僕は、話した。
「言ってる事は物凄く良く分かります」
そう、僕は切り出した。僕は言葉を慎重に選び取ろうとしていた。
「でも、その類の事は誰しもが通る幻滅だと思うよ。僕は、そう思う。それは誰しもが通る幻滅。ーーでも、もしかしたら、本当は皆はそうじゃないのかもしれない。…どんな場所にも『雰囲気』っていうのがある。それは、ここにもある。でも、誰しもがその雰囲気に溶けていく事で、うまく生きていく事ができる。空気感、雰囲気、そんな中に誰しもが漂って生きている。周囲が勤勉なら、自分も勤勉に。そして、周囲がだらけていたら自分もだらける。人間ってそんなもので、まるでドミノ倒しみたいなものだ。でも、僕が間違っていた訂正して欲しいんだけど、君は、もし周囲が本当に芸術に対して、真剣に討論していたら、それに真面目に耳を傾けるだろうか?。本当に、そうだろうか?。…いや、僕は君の芸術的資質を疑っているわけじゃない。そんな事は僕には分からない。でもね、もし周囲がクソ真面目に芸術について議論していたら、それはそれで嫌気がさすんじゃないかっていう事」
僕がそう言うと、佐藤佐知は真剣に考えている様子を見せた。そしてストローでアイスコーヒーをかき混ぜながらぽつりと、「わかりません」と言った。
「それは、わかりません。でも周囲は真面目な方がーーーでも、少なくとも、芸術系の大学だから、きっと自分と同じように芸術を愛する人が集まっているんだと思っていました」
と佐藤佐知はまたぽつりと言う。僕はその時にはもう既に、自分の底から言葉が沸き上がってくるのを感じていた。
「そうだね。全く同じ事を僕は高校生の時に思っていた。…でも、現実は違った。でも、そうじゃない。現実はいつだって僕らの理想とは食い違うものなんだ。例え、東大に行った所で、それは僕達の理想とはいつも食い違う。僕はそういうものだと思うよ。この世界は広い、そして僕達の思いも寄らない事が待っている。君が写真をやりたいというなら君は多分、一人でやらなければいけないだろうね。どうしたって、そんな風になるだろうね。結局、多くの人にとって大切なのは自分の人生であって、芸術ではないのだから」
僕がそう言うと佐藤佐知は僕を見て、ぽかんとした顔をした。僕は普段、こんな事は誰にも言わないのだ。ーーー誰にも。
「君が理解しているかどうかはさて置いて、僕は今、自分の言いたい事を言わせてもらおう。…それこそ、『先輩』としてね。今から僕の言う事を君がどう考えるかは、全て君の自由だ。でも、僕は自分の言いたい事は言う。何故って、僕は僕だから。…僕はね、思うんだよ。結局、多くの人にとって、芸術なんていうのは趣味的なものに過ぎない。あるいはそれはただ、自分を高めてくれるなにものかに過ぎない。もっと言うと、例えば、僕の学科にニーチェの研究者がいた。でも、その人にとっては、ニーチェなんて結局どうでもいいんだ。その人にとって大切なのは、ニーチェという偉大な人を引用して、研究して、それで自分の地位が高められ、そして学生とか奥さんとか自分の飼っている犬に、それこそニーチェの威光を借りて、威張り散らす事。この手の研究者にとっては、そういう事が一番大切で、結局、ニーチェなんていうものはこの人にとってどうでもいいんだ。…それはさ、もちろん、ニーチェ研究者だから、僕よりはるかにニーチェの事には詳しいよ。でもね、『詳しい』っていう事と『理解する』っていう事はぜんぜん違う。その二つはね、全く違う事なんだよ。だけど、世間の人から見れば、『詳しければ』もうそれで十分なんだ。だから、そういう人間が初心者の為の哲学本なんかを書いて小銭を得る。そして世間の人も、まあ、哲学なんてそんなものだと思う。でもね、僕は思うんだよ。そこにはニーチェはいない。そんな場所ーーーつまり、学校とか大学とかいうアカデミックなものと、世間の良識とが互いに取引するような、そんな場所にニーチェはいない。存在しない。カントもいないし、ドストエフスキーもいない。ゲーテもいないし、誰もいない。その場所には誰も居ない。だけど、そこにはそんな取引だけがある。つまり、人々にとって知識というの結局そんな風な、いつまでたってもそういう趣味的なもの、あるいはアカデミックなものにとどまるんだ。僕は、そう思うね。そして、それがずっと続いてきた。いつの時代でも同じさ。…宗教でもね。だから、偉い宗教家はいつも、そういう事に対して反対してきた。わかりやすいのがルターだね。でも、今ルターはまた教義となって、小銭を得るための道具になっている。しかしそれは仕方ない事、避けられない事なのさ。…僕達が直面しているのはそういう問題だ。僕はそう思うけどね」
僕はそう言うと、喉を潤すためにアイスコーヒーを一口飲んだ。そしてまた喋り始めた。
「僕はそう思うけど。そういう事を僕は大学で散々見てきた。そう、あの大学でね。だから、君が今体感している幻滅というのはまだ、最初の一歩に過ぎないと僕は思う。君はこれからもっともっと人生について幻滅しなければならない。…まあ、僕は二十八才だから、そこまで年じゃないんだけどさ。でも、現実というのはそういう風になっていて、僕らはどうしてもそれに幻滅しなけりゃいけない。そして、幻滅する所から全ては始まる。僕はそう思うけどね。写真を…やりたいのかな?。佐知さんは?」
と、僕は急に佐藤佐知に話題を振った。佐藤佐知はこくんとうなずいた。
「…そうです。写真を、やりたいですね。私は…森山大道なんかが好きです。でも、私には『写真』というのは良く分からない…。例えば、私のクラスで、先生が『良い写真の取り方』を教えてくれたりもするんですけど、それがいい写真なのかどうなのかも私には分からない。要は、カメラ映りがいいとか、綺麗に取れているとか、そういう事と、芸術的に良い写真かどうかという事は、違う事実だと思うんですね。私は。でも、よくわからないんですよ。その辺りの事が…」
ふうん、と僕はうなずいた。そして僕はふと、窓の外を見た。窓の外にはいかにも用事ありそうな人達が、せわしない足取りでどこか確かな目的地に向かって移動している最中だった。
「そうなんだ。…でも、どっちにしても、君が何かをやりたいと言うなら、君は一人でそれをやらなければいけないという事になると思うよ。写真を取るにしても、何をするにしてもね。君は今、何らかの独自性を求めてるんだと思う。ーー僕はそう思う。それで、君は周囲とは違う自分というのを感じている。…いや、感じ続けてきた。だからこそ君は、今、僕の目の前にこうしている。元々、君は僕なんかに興味を持たなくて良かったはずだ。つまり、僕はーーー終わった人間だからね」
「終わった?」
と、佐藤佐知はきょとんとした顔で聞いた。終わった?。
「そうだよ。僕はもう二十八なのに、未だにフリーターで良い所は一つもない。社会的には何の価値もなく、毎日、自分の生活を支える事で精一杯だ。僕はこれまでの人生で少しばかりは本を読んだり、自分の頭で考えたりして、そうして自分の物の見方をつくってきたつもりだ。でも、そんな事はこの世界にとって虫けらか、ゴミみたいなものだ。世の中に通用するには、もっと一般的に通用するピカピカしたバッヂみたいなものを胸につけなきゃダメだ。みんなが人目で分かるような、そんなきれいな奴。でも、僕にはそんなものはない。…思えば、僕は人生を間違ってしまったんだ。僕は終わってしまった存在なんだよ。だから、君が僕に興味を持つという事はあまり良い兆候じゃない」
と、僕はそう言った。僕はそんな事を言っていて、そうして、そんな自分にうんざりした。どうして、こんな事を赤の他人に、しかも今日知り合ったばかりの他人に言わなければならないのだろうか。
しばしの沈黙。アイスコーヒーを互いにすする音。僕は再び窓の外を見て、そうして、僕はしばし、自分の間違った人生の道程を振り返ってみた。それは、泥沼の道だった。良い所は一つもなかった。
「…でも、そうじゃないと思います」
と、その沈黙を破るように佐藤佐知は言った。僕は彼女の方を見た。
「先輩はーーー終わってないと思います。私の周りの騒いでいるだけの大学生に比べれば、全然。…それに、私は知ってます。私の入っているサークルで、顔はかっこいいけど、後輩の女の子に手を出しまくっていた先輩(私も口説かれました)の、一番適当でふざけてる人が、誰よりも早く、大手の企業の内定が決まったっていう事を。その先輩は言ってました。『就活なんて簡単だ。要は、向こうが求めている人間像になりすませばいいんだ。本当の人間がどうかなんて事は向こうは知らないし、だいたい、そういう事はどうでもいい。嘘でもなんでも、付き続ければほんとになるんだ。それが就活の秘訣だよ』。その先輩はそう言って、笑ってました。その時、周りの人達は『ふうーん』なんてその話を聞いてましたけど、私は嫌な気分になっていました。世の中は理不尽だと思います。…私はそういう気が今、しています」
そこで、佐藤佐知は黙った。何となく、二人を重たい空気が包み始めていた。僕は何というか…家に帰りたい気持ちに襲われていた。しかし、どうなのだろうか、と僕はふと思った。この目の前の、一見普通の女子大生に見える女はこの先どうなるのだろうか。僕はそんな事を思った。…しかし、そんな事を僕は知るわけがなかった。僕達は皆、他人の運命をそんなに気にして入られない存在なのだ。
「ところで、石田先生ってまだいる?」
と、僕はふいに、さっきまでとは違う話題を振ってみた。何かしら今の、重たい空気を払拭したかったのだ。
「確か、あの人、必修教えてたと思うけど」
「あ、いますよ。あの人、変わってますよね…」
そんな何気ない会話から、僕達はまた別の会話の世界に入っていった。さっきまでとは違う扉を開けて。人は、ときには軽い話題も必要なのだ。人生そのものにそのような軽さが絶対不可欠なように。
※
僕と佐藤佐知はその喫茶店を出た。空は夕暮れ時を指し示していた。それでも、もう六時は過ぎていただろう。夏は陽が落ちるのが遅い。当たり前だ。…だが、僕はその事を何気なく、口に出した。
「まだ日が高いね」
「そうですね」
佐藤佐知は何か、もぞもぞとしているような、そんな感じがあった。僕達は喫茶店を出て、通りに二人立っていた。人々は僕達に目をくれる事もなく、僕らの前を順に通りすぎてく。
「もう一軒、どこか行こうか?」
と僕は隣の妙齢の女子に向かって声をかけた。それは、僕が彼女を『口説く』、その印のような言葉でもあった。…しかし、僕はそういう男女のくだらない駆け引きみたいなものに心底、うんざりしていた。彼らは一体、何を駆け引きしているのだろう。彼らは賢いのだろうが、しかし…。
とにかくも、僕はそんな風に声をかけた。すると佐藤佐知は顔を上げて僕を見た。
「どっか、お酒飲めるところでも?」
「え…、でも、私、未成年だし……」
「まあ、いいじゃないか。あのホールデン君も十六で飲んでたし」
「ホールデン?」
不思議そうな顔をして、佐藤佐知は僕を見た。僕は彼女を促して、夜に向かう横浜の街を歩き出した。様々な欲望の渦巻く街。人々の思いが、情念が交差する街。今こうして、僕と佐藤佐知は、一種の男女間の、その力学的関係の中にいる。僕は男で彼女は女で、そして、そこには年齢とか容姿とか社会的地位や金銭などの、様々なファクターが加味され、そうしてそれら全てが一つのポットに入れられ、そしてそこから一つの確かな解が生み出されてくる。そういう、現代人共通の数式。今もこの数式を、この横浜の街の何十パーセントかは懸命に解いているところだろう。僕はそんな風に考えた。男はセックスのために、女は男から引き出す事のできる利益の為に。そして、僕も佐藤佐知も、その集団の中の一人に過ぎない。…要するに、凡庸という事だ。
僕は、歩き出した。佐藤佐知という『妙齢の』女性を引き連れて。そして、僕は傍らの女性に向かって喋り始めた。
「…僕は思うんだけどね。君が、今、僕の事をどう考えているのか、それは僕にはわからない。多分、わからない。でも、多分、君くらいの年の、ある程度分別のある女性なら(分別がないのもいる)、君が僕とこうして歩いているこの今ーーー君は、僕を値踏みするポジションにいるって事だと思う。つまり、この人についていっていいのか。この人は今に『あそこのホテルで休憩していかないか』と言い出さないのか。どれくらい金を持っているのか。将来性。そして、僕自身のセックスアピール。…何というか、そういう事がごちゃまぜになって、そうやって値踏みされる、そういうポジションに僕はいるわけだ。もう、面倒なんで、僕は全部言ってしまうけれども。それで、一方の僕は、多分、君をどうやってホテルに連れ込むのかーーーそんな事を考えているのだと思う。要は、そういう駆け引きが今は普通になったという事だ。それで、世の中のそういう駆け引きしている人がいかに、立派そうな事を言っていても、それは結局は、いくらかの一夜のホテル代に還元される何かにすぎないんだ」
僕は歩きながら、そんな事を話し始めていた。僕は佐藤佐知の表情を見なかった。僕はまるでもう人形に一人喋るかのように喋っていたのだった。
「でも、そういう駆け引きが面倒だと、感じる人もいる。それで、僕はそういう一人だ。だから、僕はひとりぼっちになってしまう。すると、人は僕にこう言う。『そんな人生でお前は楽しいのか?』って。でも、僕はそれにはっきりと答える事はできない。…僕は沈黙する。すると人は嘲笑的な笑いを漏らした後、どこかに行ってしまう。僕は一人になる」
僕は佐藤佐知の気配を傍らに感じながら喋っていた。僕は自分が夢の中にいるような気持ちになっていた。何というか、全てがふわふわと浮いているのだ。
「でも、今、僕がこうして一人語りをしているのは、君にアルコールを飲ませて、やっぱり君をホテルに連れ込む為の、そういう口説き文句なのかもしれない。…でも、結局、口説き文句は口説き文句だ。口説き文句が真実を語る日は永遠に来ないだろう。世の中の男達はこれまでもこれからも口説き文句をずっと続けてきた。そこにはニーチェの引用もあれば、ゲーテの引用、村上春樹の引用もあった事だろう。『ゲーテが〇〇って言っててね…』みたいな。でも、そこに真実はない。真実はないんだ」
そこまで言うと、僕はふいに足を止めた。僕の横には、安っぽい大衆的居酒屋があった。そこは男女二人で入るような、そんなおしゃれな店では全然なかった。『おしゃれ』なんていうものに僕は心底辟易していた。うんざりだ、全く。…僕はその店の看板を指さし、「ここでいい?」と佐藤佐知に聞いた。彼女は「はい」とはっきりと答えた。僕らは扉を開けて、中から出てきた店員に「二人で」と告げた。店員は座敷の席に僕らを通した。僕と佐藤佐知は差し向かいに座った。彼女はハンドバッグを傍らに置いた。僕はメニューを取り上げた。
「さっきは勢いであんな事を言ったけど」
と、僕はメニューに顔をうずめながら言った。佐藤佐知がこちらを見るのが視界の隅で見えた。
「別にお酒頼まなくていいよ。さっきのは…冗談みたいなものだから」
と、僕は自分の優柔不断っぷりを披露してみせた。僕がメニューから顔を上げ、彼女に目を合わせると、彼女は何というかもう、普通の女子大生には見られないような真面目な表情を見せていた。
「いや、もらいますよ」
と、彼女はにっこりと笑って言った。
「女って化粧次第で年齢をある程度左右できるんですよ。知ってました?。今日は『お姉さんメイク』です」
佐藤佐知はそう言って、綺麗な歯並びを僕に見せた。僕も無理やり笑った。…僕は店員を呼び、それぞれにビールと、適当なおつまみを頼んだ。僕はその時多分、手慣れた様子を見せていたと思うが、実際居酒屋なんかに来るのは、一年ぶりだった。
「でも、やっぱり先輩は変な人なんですね」
と佐藤佐知は言った。僕は手元のおしぼりを弄んでいた。
「先輩みたいな人は私の周りにはいません。…変ですね。芸術系の大学だから、変わった人がいるかと思ったんですけど。でも、変わった人なんか全然いません。せいぜい、奇抜な服を着て、人と違うアピールをしている人くらいです。それくらいです」
佐藤佐知がそう言った時に、戸が開いて、ウエイターがビールを運んできた。中ジョッキ。大学生達は今でも、飲み会でこんな風にして『じゃあ、とりあえずビールで』なんて言っているのだろうか?。僕はそんな事を考える。多分、言っているのだろうな。多分。
「それじゃあ、乾杯しましょう」
と佐藤佐知はジョッキを持ち上げて、僕の方に差し出してきた。僕は一瞬、キョトンとした。乾杯?。
「何に乾杯するの?」
と、僕は聞いた。
「…さあ、なんでもいいじゃないですか。…例えば、『今日の出会いに』、とか?」
「……今日の出会いに」
僕はそう言って、ジョッキを差し出した。ガラスとガラスが宙でぶつかりあい、そしてまた別れた。それは現代に残る何かしらの儀式、風習だった。人と人とが出会ってはすぐに別れる、その一瞬の交点の象徴。…僕はビールをぐっと飲んだ。そんな、仕事あがりのサラリーマンのような事をするのは物凄く久しぶりの事だった。ビールは僕に簡単に吸い込まれていった。佐藤佐知もビールを飲んだ。
「私、アルコールには強いんですよ」
と彼女はジョッキを置きながら言った。
「そんなにお酒は好きじゃなんいですけど」
へえ、と言いながら、僕はこれからどうしようか、と考えていた。彼女と差し向かいで飲んで、適当な事を話せばいいのだろうか。それでいいのだろうか。…だが、そう考える前に、佐藤佐知が色々な事を話し始めた。大体、女性というのは自分の話を聞いてもらいたがっているものだ。それを例え男が一ミリ足りとも理解する気がなかったとしても。僕は彼女の話に適当に相槌を打ちながら、ウエイターが持ってきたつまみにぼそぼそと手をつけていった……。
※
僕と佐藤佐知が店を出た時には、外はもう暗くなっていた。
「暗いね」
と、僕は夏の夜の街に、無意味にそんな言葉を投げつけた。
「そうですね」
と、佐藤佐知は言った。彼女はもう少し酔っていた。それが傍目によくわかった。…本当はそんなに酒に強くないんじゃないか?、と僕は彼女の少しフラフラした調子を見て、思った。僕も酔っていた。そんな風に酔っ払うのは久しぶりの事だった。
「でも、まあ、あれだね。結局、全部どうでもいいというかーーー。君も多分、その内分かると思うけど、世の中、そんなに大したものはないんだと思うよ。例え、アフリカの端に行った所で、そこには同じような人間がいて、そして人間というのはいずれにせよ、皆せせこましい圏内に閉じこもっている。君は今、大学に不満を抱えている所だろうけど、そのうち、世の中全体がそんな風に、つまり、せせこましい大学みたいなもんだという事が分かるようになるーーと思うよ」
僕はそんな風にでたらめ言いながら、夜の街を歩いた。僕は駅の方向に向かって歩いているつもりだったが、確実な事はわからなかった。佐藤佐知も僕について、歩いていた。
「先輩は大人なんですね。そういう事が分かるっていうのは。でも、そういう世界観はちょっとペシミスティックですね。私、そう思いますよーー」
と、佐藤佐知は言った。彼女もその口ぶりからは、やはりかなり酔っ払っている事がわかった。
「でも、私、今みたいに『ペシミスティック』なんて言ったら、笑われちゃう。先輩は知らないでしょうけど、女の世界って凄くドロドロしてるんですよね。全部が生理的な好き嫌いで動いているから、時々、そういうの疲れちゃう。…先週まで親友だった二人が、急にお互い、物凄く嫌い合って毒づく仲になる。そしてその一週間後、また元通り。ーーーなんというか、疲れるんですよね。疲れるーー」
佐藤佐知はそう言い終わるかどうかというタイミングで急に態勢を崩し、僕の方にしなだれかかってきた。僕は思わず、彼女を受け止めた。彼女の温かい体が僕の肉に触れた。ーーそういう、ごく近しい、自分以外の誰かの体をこの身に感じたのは一体、いつ以来だったろうか?。…だが、僕は手を貸し、彼女の態勢を立て直してやった。彼女は「すいません」と小さく言いながら、なんとか垂直に立った。そして二人は歩き始めた。
そこから少し歩くと、そこはもうすぐ駅前だった。…結構、正確な方向に歩いていたんだな、と僕は思った。佐藤佐知は酔っ払ってふらふらとしていた。彼女は自分が駅にいる事にも気づいていないようだった。
「もうついたよ」
と、僕は佐藤佐知に言った。彼女は、ふわりと顔を上げた。
「もうついた、駅だよ」
と、僕はもう一度言った。佐藤佐知は顔を上げて、「そうですか」と言った。
「大丈夫?。ちゃんと家に帰れる?」
と、僕は子供をあやすように聞いた。佐藤佐知は何故か、僕をじっと見ていた。そしてその少し間の後に、
「大丈夫です」
とぼそっと言った。僕はーーー
「そう、大丈夫?。…なら、帰ろう。君は都内方面だろう。僕とは路線が違うから、ここでお別れだ。また、何かあったら、連絡してーーー」
「先輩」
と佐藤佐知はぼそっとした声で言った。何だろう。その声の妙なトーンが僕をざわざわとさせた。
「先輩ってモテないでしょう?」
その言葉は何故か、僕の胸にぐさりと刺さった。モテない?、そんな事何の関係がーー。
「先輩はモテないでしょう?。…多分。こんな事言って、ごめんなさい。でも、先輩、あなたはーーー」
「僕は?」
その時、佐藤佐知はフッ、と僕を鼻で笑ってみせた。あああ、と僕は思った。あああ。そしてそれ以外には何も思う事ができなかった。…佐藤佐知は言葉を吐き始めた。
「先輩、いやーーーじゃあ、今日はここで別れましょう。ねえ、先輩。一つ、教えてあげますよ。先輩は私より沢山本を読んでいて、人生の色々な事について詳しいでしょうが……でもねえ、先輩。こういう夜に、女にそんな態度じゃダメですよ。そうです、先輩はこう言わないと。『今日はもうちょっと一緒にいたいな』って。それだけで、女にはわかるんですよ。先輩、そんな事言った事ないでしょ?。…多分。そう言って、傷つくのが怖いんですか?。…もういい年なのに。フフッ。別に、傷ついてもいいじゃないですか。先輩、でも、今日はありがとうございました。ほんとに。私、嬉しかった。何というか、普段は誰にも言えない事が言えて良かったです。それじゃあーーー。でも、先輩、言うべき時は言わなきゃ駄目ですよ。…そうです。どこまでも、草食系じゃあ、駄目だと思いますよ…。ほんとに。ねえ、先輩、最後に一つ、いいこと教えてあげますよ。人は皆、お互いに距離を保って、牽制しあっているように見えてもーーいや、実際そうだとしてもーーそれでも、人はいつも誰かを求めているんですよ。先輩、だから、もしこの先、先輩が大切だと思える人が目の前に現れたら、ちゃんと言わなきゃ駄目ですよ。自分の正直な気持ちを。今日はそうじゃないらしいですがーーー。先輩、それじゃ、もう帰ります。私、向こうなんで。そうです。じゃ、今日はありがとうございました。今日は話せて、本当に良かった。本当に。それじゃあ、また。…また、メールしますね。…あ、それと、今日私が言った事は酔いに任せて言ったことなんで、鵜呑みにしちゃあ駄目ですよ。ほんとに、私は酔ってるんですから。ほんとに…。それじゃあ、先輩、さようなら。また今度、飲みに行きましょう。今度は、私が二十歳になったら、ね。それじゃあ、先輩、また。さようなら」
そう言って佐藤佐知は足早に、駅の奥の階段の方に向かって行った。僕はその姿をぼうっと見ていた。そして、彼女が階段の前でくるっと振り返って、こっちに手を軽く振るのが見えた。僕は機械的に右手を上げた。彼女は向き直り、階段を降りて、そうして僕の目からは見えなくなった。
僕は彼女の言葉によって、ショックを受けていた。酔いは今の瞬間だけで、急に覚めた。僕はどうして、自分が彼女に何かを教えられる、教師のような存在だと自分を思いみなしていたんだろう?。僕の頭にはそんな問いがよぎっていた。どうしてーー。だが、僕はその問いをそんなに長くは続けられなかった。後ろから来た通行人が、通路で突っ立っている僕にぶつかってきたからだ。通行人は僕にぶつかると、僕をにらみつけてから、どこかへと消えていった。僕もまた歩き出した。『パスモ』を取り出して、改札を抜けた。僕の頭にはさっきの問いがぐるぐると渦巻いていた。どうして僕はーーー。僕は、もうすっかり酔いの覚めた頭で、自宅への電車に乗った。僕は窓際に立ち、そこから外を見ながら、どうしてだろう?、とずっと考えていた。
どうして僕は自分が何でも知っていると信じ、そして彼女に何かを教えてやろうなどという態度を取ったのだろうか?
その問いは僕の頭の中でぐるぐると回り、そしてそのむしゃくした気持ちはアパートについても消えなかった。僕は思わず、アパートの前で「くそったれ!」と叫んだ。もし、隣人が部屋にいたら、さぞ驚いた事だろう。
「くそったれ!。なんだよ!」
僕は扉の前でそう叫んだ後に、部屋に入っていった。それで何もかもを吐き出し、すっきりとさせるつもりだった。だが、もちろんそんなにうまい事はいかなかった。悔恨というのはいつも皮膚の下でじくじくと、僕達の精神を蝕んでいるものだから。
※
佐藤佐知は別れ際に僕にメールをすると言ったが、彼女と別れてから二日たっても、三日たってもメールは来なかった。僕はそんな気はない、という風に、自分自身に対して装っていたのだが、しかし実際は佐藤佐知からのメールを心から待ちわびていたのだった。そしてそのメールに、今の自分を救うような、あの時の彼女の言葉を撤回し、そして僕自身を違う言葉で褒めてくれるような、そんな文章が書かれている事を期待して待っていたのだった。だが、そんな文面のメールはどこからも来なかった。それで僕は諦めた。僕は、あの事で、あれから二日、三日、とても屈辱に塗れた気持ちでいたのだった。
だが四、五日して、僕はこれでいいのだと思うようになった。多分、彼女も僕も成長しなくてはならないのだ。僕は二十八才で、彼女は十九才。彼女もーーー僕もまたーーーまだ若いと言える年だ。成長しなくてはならない、なぜだか、僕はそんな事を思った。
そして、佐藤佐知と再び会うのは僕達が共に成長してからでいいのだろう。…多分、その方がいい。それぞれに人生をくぐり抜け、何かを学ばなくてはならない。世界に唾を吐き捨て、そしてそこから立ち去るにはまだ僕達には時間が残されすぎている。僕達は老人ではないのだ。生きなければならない、この人生を。嫌悪あるこの人生という長い時を。そして僕達が再会する時は、僕達が人生という通路をくぐり抜けて、そして互いに一皮むけてからの、そんな時でいいのではないか、と僕は考えた。そんな時がいつ来るのかわからないし、あるいはそんな時は永久に来ないのかもしれないが、しかし、その方がいい。今は多分、一人になる時だ。一人に。
僕は一人でアパートに籠って、鬱々とそんな事を思った。そしてその思いが途切れたその日から僕は中断していた詩作を再開した。もう詩なんか書いても仕方ないと僕は考えていた。人から読まれもせず、また、自分でも手応えのない詩作ーーー。しかし、もう一度書いてみよう、と僕は考えた。結局、それは徹頭徹尾、自分のためなのだ。自分の為に、書こう。何らかの手応えが欲しい。人生だけでは得られない、何らかの手応えがーーー。
そうやって、僕と佐藤佐知とのたった一度の邂逅は終わったのだった。あれから、一度も彼女からメールが来た事はなかったし、僕からメールを送った事も、一度もなかった。