夜中の散歩
受験が終わった中学生が、そのまんまのテンションで書いてしまった短編です。
すいません。
時計の秒針の動く音が静かに響く部屋で、机に向かう中学生。机上の明かりは、もう深夜となり暗くなった外とは対照的に、煌々と机を照らしていた。
机の前の椅子に座った中学生は、シャーペンを握り、目の前の問題集と対峙していた。時計の音と、シャーペンを動かす音の中、空気が重い。
中学生は、時折空中を見つめては、また視線を問題集へ落とす。
そんな事を数回繰り返した後、中学生は近くに置いてあった携帯を手にした。
素早く指を滑らせ、画面が切り替わる。画面は明るく、中学生の顔を照らしている。
憂鬱そうな目で画面を見つめる中学生は、携帯を閉じると、立ち上がった。椅子の音が響く。
携帯は、問題集と一緒に机の上に置かれたまま、明かりに照らされている。
暫くして机の前に戻った中学生は先程とは変わり、黒いコートを着込み、暖かそうな格好をしていた。
中学生は、もう一度携帯の画面を確認すると、一つだけ溜め息を落とし、携帯をコートのポケットに入れた。そして、そのまま手はポケットに入れ、玄関へ足を向けた。音はほとんどなく、布の擦れる音だけが、中学生の動きに合わせて響く。
中学生は、静かに、出来るだけ音を立てないようにドアを開けると、外に出た。
外には、深夜の星空が広がり、夜の静寂が立ち込めていた。冬に似合った、乾いた冷たい空気が充満する中、中学生はまた溜め息を落とした。
溜め息が白く変わり、空気に馴染んでいく。
不意に向かいの家のドアが開いた。靴を足に合わせるため、コツコツと爪先を地面に当てながら出てくる人影があった。その人影は、星が散りばめられた空を見上げた。
人影は、ポケットに手を入れたまま、中学生に近付き、口を開いた。
「こんばんは」
中学生は微笑みながら、挨拶を返した。
「行こう」
人影が言う。中学生が頷く。まるで夜に憑かれたように輪郭がはっきりとしない人影は、ぎこちなく片手を中学生に差し出した。
差し出された手だけは、光に照らされているようによく見える。
白くて長い指だ。中学生は、更にぎこちない動きでその手を取る。
二人は、夜の静寂の中に溶け込んでいった。
それから暫くすると、二人は元居た場所へ戻ってきた。数時間は経っている。
相変わらずはっきりと見えない人影は、再度口を開いた。
「こんな時間に散歩してる人なんて、僕達の他にはいないだろうね」
少し笑みを含んだ口調だ。
「うん。まだ、夜は明けないみたい」
中学生も楽しさが滲む声だ。その後、更に人影が問う。
「ねぇ、今、どんな顔してるの?」
少し間が空いた。中学生は、何かを言いたそうに口を開けては、諦めたように閉じ、笑った。
「笑ってるの」
「本当に?」
疑うような声。
「本当だよ。私が嘘なんて吐くはずないじゃない」
中学生はそう言うと、人影の両手を取り、自分の頬に触れさせた。中学生の頬に当てられた手は、愛しそうに頬を撫でた。
人影は言う。
「泣いてるよ。なんで笑いながら泣くの?」
中学生の頬は、暖かい涙で濡れていた。
中学生は静かに涙を流す。その涙を、人影が優しく拭う。
「嬉しいとね、泣いちゃうの」
中学生の声は、細く震えていた。
人影は、中学生から手を離した。
「僕が泣かせたね。僕が死んじゃうから泣いてるんでしょ?」
少し大人びた、泣きそうな声で発せられる疑問。
それに応える声には、嗚咽が混じっていた。
「違うよ。一緒に居られて嬉しいの」
途切れ途切れの声。中学生は、絶えず微笑みながら泣いている。
「ねぇ、僕と一緒に逝こう」
決心したような言葉に、中学生の嗚咽が一瞬止まる。中学生は、ゆっくりと首を横に振った。
「駄目だよ。私はまだ生きられるもの」
それでも人影は繰り返す。
「僕と一緒に逝こう。僕は君と一緒にいたい。君は僕とはいたくない?」
戸惑い、答えられない中学生に人影は更に重ねる。
「君だって苦しんでるんでしょ。僕と来れば、苦しいのは一瞬だけだよ」
人影は、少し、二人の間を詰めた。
「おいで」
中学生は、少し後退り、小石に躓いた。
フラっと傾く身体。そのまま、コンクリートの上に倒れるかと思われたその瞬間、人影が中学生の手を掴んだ。そのままの勢いで抱きしめる。驚いた顔の中学生は、脱力したように人影にもたれ掛かった。
その背中を、白い指が撫でる。
そうしているうちに、中学生の思考は傾いていた。
「……でも、怖いよ」
それを聞いた人影は、ふっと微笑んだ。
「大丈夫。僕と一緒だよ。大丈夫」
大丈夫、大丈夫と繰り返す声の主は、抱きしめた背中を、安心させるように優しく包み込んだ。
その間にも、星空は瞬き、月明かりはぼんやりと二人を照らした。
中学生の思考は靄がかかったように、はっきりとしなかった。
この人に抱きしめられているからかもしれない、と中学生は思った。
そう思うと、この人と一緒ならば、何でも出来るかもしれないと思えた。
「本当に苦しくない?」
中学生は、確認の意味を込めて、また、貴方と一緒にいたいという意味を込めて、問う。
その全ての意図を察してか、中学生を抱きしめる手に力が入る。
「うん。僕と君が一緒なんだよ? 出来ない事なんてないよ」
人影が、抱きしめていた中学生を、少し自分から離し、キスをした。
はっきりと見えないはずの人影の唇は、優しく、柔らかく、中学生の唇と重なった。
中学生は、それを拒むこともなく、二人は暫くそうしていた。
夜は相変わらず静かで、二人の息遣いだけが響いていた。
不意に、人影が中学生から離れ、再び手を差し出した。
「最後のお散歩。もうここには戻って来ないよ」
そう言って差し出された手は、中学生には、少し魅惑的に見えた。
そして、手を繋いだ二人は、先程よりもゆっくりと、冷たい空気の中を歩き始めた。
歩きながらも、二人の会話は途切れない。
「君に会えて良かった」
「私も、貴方と会えて良かった」
「もしも、あの世があるなら、天国があるなら、また会いたいな」
「その時は、幸せになりたいね」
「うん。僕はね、僕を殺そうとする大人が家にいないなら、幸せ」
「私はね、学校に行ったときに、自分のものが何も無くなってなければ、幸せ」
二人は、湖の前に辿り着いた。
澄んだ水面には、手を繋いだ二人の姿が映った。冬とは言えど、まだ氷は張っていない。しかし、この水の中に沈めば、恐らく助からないだろう。
「もう一度。最後」
人影はそう言って、中学生の肩に手を置き、キスを落とした。
それは、幾度か続き、中学生の息が切れ始めた。
人影はそれに気付くと、中学生に微笑んだ。
「……それじゃあ、行こうか。一緒に」
二人は、強く手を繋ぐと、決心する時間を持った。しかし、あまり時間をかけると、決心が揺らいでしまう。
二人は、更にきつく手を握ると、最後に目を合わせ、湖の中に入った。水の音が夜にこだまする。
水は身を切るように冷たかったが、水の中に沈んだ二人にはあまり感じられなかった。
麻痺する感覚。遠退く意識。不思議と、そこに恐怖は無かった。苦しくもない。
天国での幸せを願って、二人は意識を手放した。
二人は、自分の身体が水より冷たくなるまで、互いの手を離しはしなかった。
最後に水の中に響いたのは、気泡の音に混じった、どちらの声とも取れない、またね、という声だった。
二人がこの世から消えてしまった後の湖は、何も無かったかのように、波紋の一つもないまま、朝を迎えた。