すべてはプリンから始まった
「ああもう!」
私は道端にあった小石を見つけるたびにえいっと蹴り飛ばす。たまたま通りすがった野良猫が、迷惑そうに顔をしかめていたが、知るもんか。お前の運が悪かっただけだ。
「くそ兄貴の、ばっかやろう!!」
╳ ╳ ╳
事は数十分前にさかのぼる―――
「なんで食べちゃったの?!」
私は勢いに身を任せ、リビングに駆け込むや否な怒鳴りつけた。
相手はそう、ソファで寝ころびながら、大音量で見てもいないテレビをつけっぱなしにし、スマホをいじる兄である。
怒りで肩を震わす私を、兄は煩わしそうに見上げた。
「ああ? 何をだよ」
「プリンだよプリン! 私の!」
「…プリン?」
思い当たる事があるのか、兄は少し口元を歪ませると、視線をスマホへと移した。
「別にいいだろ、プリンの一個や二個」
「いやいやよくねーよ?!」
あれ限定品だぞ限定品! この季節にしか売ってない、しかも開店早々に売り切れるという幻のプリンだぞ! わかってんのか?!
夏休みに入り、四時起きでお店の入り口に座り込んで待った結果、やっと手に入れたブツである。犬の散歩をしていたおじさんが、不審そうに私を見てきたのは、ちょっとしたトラウマであるが。
「返してよ! プリン!」
「食っちまったもんは返せねーよ。吐けってか?」
「現物で返せよ?!」
音が出るほど握りしめた拳を、兄の頬にめり込ませてやりたくなった。
くっそ、こいつ舐めてやがるな。妹だと思って舐めてやがるな。まだまだガキだと思って舐めてやがるな。
だいたい私はガキではない。
私こと有坂春子は、今年で二十歳を迎える立派な大学生である。大人なのである。
…まあ、とはいっても、食べ物一つでギャーギャー騒ぐ私は、傍から見ればガキなのかもしれない。しかも童顔で小柄、先ほどから私が怒鳴る度に元気に飛び跳ねるポニーテール。中学生と間違えられたことも何
度かある。
しかし、しかしだ。私だって朝飯でお気に入りのおかずを取られたとしても、ここまでは騒がない。
今回は別なのである。
電子レンジでチンすれば手に入るから揚げではない。苦労して手に入れたプリンなのである。
「大体さあ! お兄ちゃんももう二十三歳でしょ! 大学にも通わないで家でだらだらしてさ! 働けよ!」
「うるせーよ、お前には関係ないだろ」
あるから言ってんだろが!
こっちは必死にバイトしてんだぞ!
そう言いたいのをなんとか抑えて、ズカズカと兄の元まで足を進め、ソファの手前で仁王立ちした。
「この間だって朝まで帰って来なかったときあったじゃん。昨日だって夜遅くまでいなかったし!」
「……」
「何やってたのさ!」
その瞬間、珍しく兄がたじろいた。今まで何を言われても動じなかったのにである。これは、怪しい。怪しすぎる。
というか、無愛想なくせに顔だけはいい兄貴である。しかも中学・高校とこの辺を牛耳る不良であった。今までも何十人もの女を遊んでは捨てていたという噂を聞いたこともある。
だとすれば――
「女か…」
思わず口にすると、兄はぴくっと眉を震わせた。
え、なんだよ。やんのか。
反射的に身構えたが、私は兄と殴り合いをする気はない。というか、したら逆に殺される。私はただプリンが食べたいのだ。
そんな私の心境を知らずか、兄はムクリを起き上がると握っていたスマホを床に落とした。ガシャンっと乱暴な音が響くが、相変わらずつけっぱなしにされていたテレビからはバラエティー番組の愉快なBGMが流れていた。
背の高い兄に、見上げる形となってしまった私は、後ずさりたくなる足を、全力で踏ん張り耐えていた。
なななななんだよ。キレてんの? え、キレてんの? なんであんたがキレんの?!
にじみでる兄の気迫に負けまいと、精一杯その顔を睨み付けた。
そもそも、なぜ兄を怒らせたのか分からなかった。ただ「女か…」と呟いただけである。理不尽だ。理不尽すぎる。
抗議の声を上げようかと思ったその時、兄は無言で私の肩をつかむとぐっと顔を近づけてきた。
え? なに頭突き?! 頭突きなのか?!
身の危険を察知した私だが、肩を兄につかまれたままであったため、動けなかった。ぎゅっと目をつむり、衝撃に耐えようとした。
「あのさ」
しかし、耳元で聞こえてきたのは兄の声である。吐息がかかるくらいに、近い。何を言われるかと内心ビクビクしていると、
「たかがプリンだろ」
その瞬間カッと血が頭に上った。
「たかがじゃねえよ!!」
私は兄を力の限り突き飛ばした。ついでに蹴りもいれてやる。
ふらふらっとよろめいた兄は、驚いたように私を凝視した。
すうっと息を吸い込むと、ありったけの声で叫んだ。
「お兄ちゃんなんて嫌いだ!」
だっと玄関まで走り出し、スニーカーをコンマ一秒で履くと、外へ飛び出す。
「おいハル!」という私を呼び止める声は、聞かなかったことにした。
╳ ╳ ╳
――そして、現在に至るわけである。
家を飛び出したのは、まさかの夜の9時すぎであって、あたりは薄暗く静まり返っていた。
私はぷんすか怒りながら住宅街を歩く。
なんだよなんだよ。なんで私がこんな子どもみたいなことしなくちゃならないんだよ。まるで親に怒られて家出してるみたいじゃないか。
そんなことを考えてなんとなく羞恥心が芽生えたが、家に帰るつもりはさらさらない。
「別に私が悪いわけじゃないのに」
兄貴が悪いのに。
そう呟こうとしたがやめた。なんだか悲しくなってきたのである。二十歳にもなった者が何をぐじゅぐじゅしているのだ。うん、やめたやめた。どうにでもなれってんだ。
やけくそ気味で夜の街へと進もうとするが、ピロロリララ~♪ っと携帯の着信音が鳴り響き、足を止めた。まさか、兄から?
戸惑いながらパーカーのポケットから携帯を取り出すと、誰なのか確認した。その名前を見たとたんホッと安堵の息を吐く。
なんてことない、大学の友人・真由からであった。
「もしもし?」
『あ、ハル? 私だけどさ~、あんたメール見た?』
メール? 何のことだ。
今日はプリン騒動で忙しかったのである。メールなどいちいち見てられなかった。
「見てないかも」
『やっぱりねー。まあ別にいいけど』
「ごめんごめん、で、どうしたの?」
『ん? まあ大した用じゃないけどさ、今度の日曜ヒマ? どっか行かない?』
日曜か…。たしか特に用事はなかった気はするが、しかし…。
「ごめん、ちょっとやめとく」
『えー、なんでさ』
「今そんな気分になれなくて」
『気分? どうしたのさ、なんかあったの?』
問われて少し躊躇するが、真由ならいいか、と今までのことを簡単に説明した。とたん、弾けたような笑い声が携帯からあふれ出す。
「な、何がおかしいの」
『あ、あの、勇馬さんが、妹とプリンで喧嘩って…くくっ…、あの負け無しの不良がプリンでっ! お腹痛い…っ』
そんなにおかしなことだろうか、私にとっては大事件なのだが。
『しかもあんた…去り際に「お兄ちゃん嫌い!」って言ったんでしょ…くくくっ…勇馬さんもかわいそうに…最愛の妹から…嫌いって…っぷくくくくく』
最後の方はもはや何を言っているのか聞き取れなかったが、あまりにも長々と笑い続けるため、切ってやろうかとも思った。
「笑い事じゃないよ。もう今日私、兄貴がいる家に帰りたくない」
ふて腐れてひとり言のように吐き出した。
そうじゃん、このあとどうしよう。さすがに野宿はいやだなー…。しょうがないからビジネスホテルにでも行くかー…。
今持っているお金どんだけだったかなと、考えを巡らせていると、
『ふーん、じゃああたしの家来るー?』
天使だった。
私の友達は天使だった。
「いいの?! え、ホントに?!」
『もっちろん、大事な親友が困っているものねー』
「真由……」
私の涙腺が思わず緩んだ。
ああ、幸せだ。こんなに幸せなことあっただろうか。やっぱり持つべきものは友である。
私は感極まりながら、お礼の言葉を口にしようとした。が、その時。
――ピーンポーン
電話越しにインターホンが鳴り響いた。
『ん? あれ、誰だろ、ちょっと待ってて』
わかった、と言いながら私は嫌な予感がしていた。こんな時間に宅配便は来ないし、真由は一人暮らしである。帰ってくる家族もいないはずなのだが。まさか。
『はい、どちら様? ……あ!! ソータくんじゃん! いらっしゃーい! ――ごめーん、ハル! 彼氏来たから泊めてやれなくなっちゃったー。 まあ、ハルなら大丈夫でしょ! 頑張ってねー! じゃあまた今度ねー!』
「え?! あ、ちょ、待ってよ! 話しが違う…って、おーいもしもーし!」
ツー、ツー、ツー、と無機質な音が鳴る。切られてしまった。
――くっそ、女の友情なんてこんなもんだよ! 何が大事な親友だよ! 彼氏を優先しやがって、リア充が爆発しやがれってんだちくしょー。
いつか私を見捨てたこと、後悔させてやるからな。
乱暴に携帯を閉じ、再びポケットの中にしまい込んだ。
「あーあ、もうやってらんねーよ」
大きく空を仰ぐと、ぽつぽつと、小さな星たちが見えた。ここは、空気が澄んでおらず、町のテカテカとした明かりのせいであまり星は見られないが、それでも今日はなんとなく見える星の量が多い気がする。
昔は兄や父と一緒に、山奥まで行って天の星を見上げたものだ。それに比べると貧相なものであるが、それでも苛立った私の気持ちを落ち着かせるのには十分だった。
「いっそのこと、あの星くらいの遠い世界へ飛び立ってしまいたいなあ…」
冗談交じりにそう呟いた。そんな夢物語みたいなもの、あるはずがないのだが。
と、そんなことを思ったのだが。
「え…?」
今一瞬見つめていた星の一つが、深く煌めいた気がした。驚いてごしごしと目をこすり、もう一度それを凝視したのだが、今度は何も起こらなかった。
気のせいか、と前を向いて歩き出そうとしたが、それはあっけなく遮られてしまう。
背後から猛スピードで走行してきた車に気づかなかった私は、次の瞬間意識を手放した。