プロローグ 『睡蓮』 クロード・モネ
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Canvas.Prologue
A New Story Stirs with Rain’s Gentle Ripple.
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「ちょ、ちょっとねぇキミ!大丈夫なの?」
それは、酷く耳障りな声だった。
誰かの声が、遠くで聞こえる。
だけど、自分の意識は、とうに地の底にいる。
降りしきる雨が、地面と自分を叩いている。
冷たい水たまりに頬が沈み、身体の芯まで凍えきっている。
もう、何もかもがどうでもよかった。
ただ、このまま意識が途切れてしまえばいい。
「ああ!もう!館までは遠いし……この辺だと、『あそこ』しかないかぁ……もう関わらないと思ってたのになぁ……」
うるさい。
もう、このまま眠らせてくれよ。
ボクは今、とても――酷く、眠いんだから。
「よいしょっ」
突然、身体が宙に浮いた気がする。
この、柔らかくて、暖かいものはなんだろう。
そして、その奥から香ってくる、甘い香りは……。
「軽っ!軽すぎ!キミ、ちゃんとご飯食べてるの?」
ごはん……?ああ、そうだ。
これは、姉さんが作る甘いパイの香りだ。
そして……母さんが得意だった、温かくて優しいシチューの……。
「死ぬんじゃないわよ! 私の目の前で、子供が不幸になるなんて絶対にさせないんだから!」
声が近くて、そして何もかもが遠い。
死ぬ……?何が?
自分はただ寝たいだけなのに――。
目が覚める。
ぼんやりと歪んだ空間は、徐々に輪郭をはっきりさせていく。
「よかった、気がついたのね」
視線を動かす。
そこに、彼女がいた。
静かで落ち着いた服をきた、若い女性。
柔らかな笑顔と、どこか心配そうな瞳をしている。
「え、あ、あの……ここは……? ボ、ボク、どうして――」
言葉が、うまく出てこない。
掠れた声で、なんとか言葉を絞り出す。
「覚えてないの? キミ、雨の中で倒れてたのよ?」
彼女はそう言うと、軽く首を傾げた。
「ここは、その連れ込……ええと、休憩専用の宿……みたいなところ? ま、ちょっと風変わりな宿屋と思えばいいわ」
「は、はぁ……」
ああ、あそこ、か。
別にそんなぼやかすことなんてないのに。
そこがどういう場所で、どういうことをするのかくらい、自分は知っている。
そうなんだ、と少しだけ納得したように頷くと、彼女は呆れたような表情で肩をすくめた。
「どうして、ってことだと、むしろ私もキミに聞きたいんだけど……キミ、何があったか話せ――」
ぐうううう!
雨音の聞こえる静かな部屋に、自身の腹の虫がけたたましく鳴った。
「え、えっと……こ、これはその……」
「やっぱり、ほとんど食べてなかったんだ。」
彼女は、そんなぼくを見て、呆れたように笑う。
「でも、それだけ自己主張が強いんなら、命は心配しなくてよさそうね」
それだけ言うと、彼女は立ち上がり、机の上にあるパンの入ったバスケットを持ち上げる。
「なんにせよ――まずはご飯、食べましょうか」
「は、はい……」
この出会いが、自分の運命を決めることになるなんて、そのときは、まったく思っていなかった。
でも、その風変わりな館での、忙しくて、慌ただしくて、楽しくて、そして、胸が締め付けられるような毎日は――ボクと彼女との物語は、この瞬間から、始まったんだ。
この物語は、執事さんとお嬢様本編の裏側で起きていた出来事を描いたサイドストーリーです。
少年は本編のエピローグ時点ではすでに館を辞めています。代わりに雇われたのがエピローグに出てきた少女です。
メイドさんの矢印は作中では完全に執事さんに向いており、少年はメイドさんには助けられたことで特別な感情こそあっても、恋愛感情かどうかはべつであり、少年とメイドさんが恋愛関係になることはありません。そもそも少年の矢印がメイドさんに向くかどうかも謎。
仮に向いても失恋は確定しています。
この話はメイドさんと少年がプラトニックな親愛でいちゃつくだけの話です。
たまにほかの館の人、お嬢様や執事とも少年はいちゃつきます。




