第三十八話 「月姫」
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Tea time.38
The Moon Princess shall not return,
for my heart cannot bear to lose her now.
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「珍しいわね。こんな所で一人で居るなんて」
夜風に当たりに来たメイドの彼女が、テラスを一望できる大窓へと続くバルコニーへと出てみると、そこに執事の青年が佇んでいるのを見つけて、少しばかり驚いた様子で彼に声をかけた。
「…そうですね。少しばかり、時間が残ってしまいまして」
「……なにか…あったの?」
主人たる少女が、珍しく定時よりも早く床に着いた今、彼の今日の仕事は、最後の見回りだけだろう。
しかし彼のことだ。
きっとそれも、もう終わらせているに違いない。
つまり本当に珍しく、やるべきことがが全て終わった上で、仕事としての規約までの時間があまったのだ
しかし、その僅かとはいえ確かな『仕事の時間』を、彼が仕事着の執事服を着たまま『自分の時間』にしているのは、極めて珍しいことだった。
「いえ……特に悩みや問題があるわけではありませんよ。ただ……」
「ただ?」と彼女が問いかける前に、執事は手袋に覆われた指先を空に向ける。
「あ――!」
その先にあるのは――
「綺麗な……月」
「ええ……最近は忙しくて、こうしてじっくり見る機会がなかったものですから」
「あなたに、こういう感傷的なところがあったんだ」
「酷いですね…。私の国では、こういうちょっとした風情を尊ぶのは、美徳なんですよ?」
冗談よ、と返す彼女。
執事の元へ近づく彼女が、館の光から外れる。
そのまま、館の影に入ると、メイド服が漆黒に染まった。
だが、すぐに淡い月光に晒されて――彼女の姿が、やわらかく浮かび上がる。
「でも、本当に、素敵…」
執事の隣に並び、首を上に傾ける。
月と彼を両方視界に入れて、一枚の絵に見立てようとしてみると、彼より一回り小さい彼女は、ちょうど彼を見上げるような形になる。
接吻けを交わす度、何度となく見た視線だったが、燐光のような月の光に照らされる彼女に――
「?…どうしたの?」
彼は、見とれていた。
ボーンと。
呆けていた思考を裂くように、柱時計が鳴った。
これで青年の――『館の者』としての時間が終る。
「あ、ああ。なんでもない。……ただ……君が、綺麗だったから」
「えっへへ。お姫様に見えた?」
「いや、君はお姫様にはなって欲しくないな」
「……やっぱり、あたしじゃ似合わない、かな……」
「違うよ」
うつむいた彼女を、そのまま抱きしめる。
「お姫様は、月に帰ってしまうから」
そういう昔の御伽噺が、故郷にあるから、と。
彼女の耳元で、囁くように。
彼女が、少しだけ執事に寄り添ってくる。
「じゃあ……今夜、その物語を、聞かせてくれる?」
本日17時次話予約投下済み




