第二十九話 「奇跡」
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Tea time.29
A small miracle enriched my life.
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「お嬢様……お疲れですか?」
ぼうっとした様子で、机の上の暦表を見ていた少女に、少し不安げに執事が問いかけた。
「ううん、そうじゃないの。今日は、貴方と初めて会った日なんだなって。……あの時のことを思い返してたの」
言われて青年は、はっとしながら壁にかけられたカレンダーを見た。
そして、館の中で初めて少女と出会い、そして「約束」をしたあのときのことを思い出す。
「……確かに、今日ですね。あの時は、まだ雇われていないとはいえ、随分と無礼な事をしてしまいました」
「わたしは、ああいう貴方も気に入っていたのだけれど。……というより、そういう貴方を見せてくれなくなったことが、とても不満」
あからさまに冗談だと判る拗ねた口調。
でも、それには少しだけ確かな本気が混じっている。
「でも、不思議よね」
少女のそんな唐突な言葉に、執事は興味深そうに顔を上げて続きを待った。
「だって、貴方とわたし、あんなことがあったのに。今、こうして貴方はわたしのそばに居てくれる」
これって、奇跡だと思わない?
そう言って微笑む少女。
仕えるものとして、本当はここで頷くべきなのだろうが――
「すみません、お嬢様。私は、どうも運命、奇跡といった言葉はあまり好きにはなれないのですよ」
「え?」
嘘という裏切りは、できない。
「私にとっては、あくまでも偶然……そして必然です。お嬢様と出会えたこと。あの頃のお嬢様と私の関係。私が雇われるに至った様々な出来事。それら全てが――」
一度、言葉を切り、
「偶然によるきっかけ。そして、私の決意とお嬢様の決意によって生まれた必然です。もちろん、その結果、貴方に仕えられることを、心から感謝はしていますが」
奇跡や運命を、認めない。
でなければ、奇跡が起こらなかった者たちが報われない。
でなければ、運命で苦しんだ者たちは報われない。
でなければ、『あの子』が――
ぎりっ、と。
胸元に在るロケットを握り締めるイメージで、彼はほんの僅かに拳に力を込める。
ほんの一瞬の、青年の闇――
だがそれは、瞬時に霧散する。
「……全てが公平に不平等な偶然で成り立つからこそ、人は、自分の意思で選択した必然の結果を背負える。……私は、そう思うのです」
そして、僅かな無言の間。
「……きっと、貴方の言っていることは正しいと思う。わたしがどんなに運命だったと望んでも、きっとそれは偶然」
少女の返答に、執事は少しばかり驚く。
てっきり、同意を得られずに、いつものように拗ねた、そして不満そうな顔をすると青年は思っていたのだが。
少女は、その年のころの持つ、特有の柔らかい笑顔で言葉を続ける。
「でもね、運命や奇跡が本当にあるかなんてどうでもよくて――」
くすり、と。
ほんのわずかに、恥ずかしそうに頬を染めて。
「その偶然を、『奇跡』って言った方が美しく思えるなら、たったそれだけの理由で、『奇跡だった』と言っていいと思うの」
別に、不治の病が治ったり、生き別れの肉親に再開したり、天文学的な確率な幸運なんて必要は無いの。と、彼女は前付けて――
「例えば、誰かを好きになっただけでも、世界中の異性からその人を選んだ事は、とても素晴らしい奇跡だと、わたしは思うの」
少女の言葉は、意地にも似た青年の確執を、なんでもないかのようにすり抜けた。
ぽかん、と。
彼は、表情を変えないまま、確かに放心していた。
だって、もしそうだというのならば。
あれほど望んで手に入らないと嘆いた『奇跡』は。
ずっと、当たり前のように、自分と『あの子』に起こり続けていたのだから。
ああ――そういえば、驚きで放心するなど、何年ぶりだろう、と。
青年はどうでもいいことを思い出して――
「それは……素敵なことですね」
そんな、正直な言葉が、執事から漏れる。
心の底からあふれ出たような、微笑と共に。
執事の答えに、少女は嬉しそうに彼の手を取り、そのまま自らの頬に添える。
「うん。……だから、貴方が今こうしているのは、小さな奇跡のおかげ――そういうことにしましょ?」




