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回想 ――祈り――

作者: 神山 備

 あれから16年、またお父ちゃんを思い出すことが起きてしもた。お父ちゃんはあっちの方で、そこに行ったられへんもどかしさを噛みしめてんのやろうか……



 私は、父が嫌いだった。いや、正確に言えば父の職業が嫌いだった。父は葬祭会社、俗に言う葬儀屋に勤務していた。私は友人たちにそれを知られるのが嫌で、「お父さんの仕事は?」と聞かれると「会社員」だと答えていた。まぁ、父がその会社を経営しているのでない以上、それは間違った返答ではないのだが。たいていの場合話はそこで終わってしまうのだが、しつこく業種を聞かれた場合、私は

「接客業」と答えていた。お客様を送り出す仕事だ。それに間違いはないと思う。そのお客様がご遺体と言うだけだ。

 そうじゃなくても、思春期の女の子と父親には会話なんてなかった。

 それも、私が専門学校を卒業して、社会に出てからは少しは話す様にはなっていたと思う。

 平成7年1月17日に兵庫県を震源として起こった阪神大震災。大阪の我が家は食器がいくつか割れただけで、怖い思いをしたけれど、特にそれ以外は何もなかった。私たちは夜が明けてから、刻々と伝わってくる悲惨極まりない映像をそれこそ映画みたいに眺めるだけだった。申し訳ないなぁと思いつつも、傍観者になるしかなかった。

 しかし、震災から一週間、帰宅した父は葬祭ボランティアとして被災地に行くと言った。生きている方へのボランティアは多いけれど、なくなった方のためのそれは少ない。大体、ご遺体に触れない方も多くいる。

「これはあん時のお礼や、そう思て行ってくる」

その時父は最後にそう言った。父は戦時中、有馬に疎開していたのだという。まだ幼かったので細かいことは覚えていないらしいが、祖母は繰り返しそのときのことを子供たちに話して聞かせていた。多くの人の善意がなければ、母子5人生きてはいけなかった。だから、困っている人があれば自分から手を差し伸べなさい。『情けは人の為ならず』あなたたちは既にそれを受けているのだからと。

 被災地にいる父からは当然だが何の連絡もない。母はそれを『便りのないのは良い知らせって言うやんか』と笑い飛ばしていた。

 そして、父はそれから20日後突然帰ってきた。

「風邪引きや。身元確認の方もそろそろ一段落してきたし、避難所の中は狭い、一人引いたらみんな移ってまうからな」

父はガラガラの声で私にそう言いながら、風呂のスイッチに手をかける。

「お父ちゃん、風邪引いてんやったら風呂入ったらあかんやんか」

「わし、ずっと入ってへんのやぞ」

「風呂入らんかっても、人間死なんわ」

「アホな、死ぬわ。帰ってきて風呂入るのが一番楽しみやったのに」

被災地の入浴事情は分からなかったが、全くゼロではなかったにせよ、それは20日間の中で数えるほどしかなかったろう。風呂好きの父にはそれが一番辛かったのかもしれない。

 しばらくして、父の調子っぱずれの歌が風呂の中から聞こえた。

 案の定、翌日父は38度5分の熱。

「オトン、薬だけやったらあかんぞ、医者行けよ」

弟のむつきが学校に行く用意をしながらそう言うのに、

「分かっとる、分かっとる」

と返事はしているが、医者嫌いの父が素直にそれに従うとは思えなかった。

 そうだ、父のそんな性分が解っていたのだから、父に黙って従ってきた母が言えなくても、私たち子供たちがムリにでも病院に引きずって行けば良かった。何より私たちは、父が被災地でどんなに心身共に疲れていたのかを理解していなかった。母も私たち子供も父一人を残したまま仕事や学校に出かけて行き……


「姉ちゃん、すぐ市民病院に来い!」

 夕方、睦が切羽詰まった声で仕事場に電話をしてきた。睦が学校から帰ってきた時、父は台所に倒れており、既に昏睡状態。慌てて救急車で病院に運んだという。若い頃肝臓を病んだことのある父は、極度の疲労と相まって、ただの風邪が重症化したのだ。

 父は次の日、手当の甲斐もなく、55歳の生涯を閉じた。あまりに突然のことで、何だか悪い夢でも見ているようだった。

 会社の要請で葬儀ボランティアに出かけた父は、支店次長に格上げされ、社葬として送り出された。

「大変な場所やからて若い俺らが後込みしてる中、向井さんが率先して手挙げたんです。『わしは戦争を経験してる。こんなん空襲に比べたらマシや』そう言うて」

30代らしき父の同僚が真っ赤な目をして、そう教えてくれた。でも終戦時、父はまだ3~4歳。戦時中のことはあまり覚えていないと言っていたのに。

「向井さん、あの○○のことも引っかかってたんちゃうかなぁ」

そう思っていると、別な人がぽつりとそう言った。

「ああ、アレは俺もな」

それに対して、先ほどの人も頷く。

 ○○とは大阪にもたくさん店舗のある大手外食チェーンの名前だ。本社が神戸にあり、そこの会長のお孫さんが震災で命を落としたという。わずか6歳での死に、家族ができるだけのことをしたいというお気持ちはよく解るけれど、会長は震災からわずか二日後に自力で船をチャーターして大阪にお孫さんを連れ、大阪の父の会社の会館で葬儀を行ったという。

『金があるもんはそれができる。けど、金も力もないもんはあの場所におるしかない』

ご遺族が帰った後、父はその人にそう洩らしたそうだ。父は、一人でも多くの方が少しでも心安らかに旅立ってほしいと願っていたのだろうと思う。

 お通夜の夜、祖母は、

「今夜で憲三の顔は見納めやからな、よう見とかんと顔忘れてまうがな」

と、愛おしそうに父の顔をじっと見つめていた。

「お父ちゃんは親不孝やな、お祖母ちゃん」

そんな祖母に私がそう言うと、祖母は首を振った。

「そんなことあらへん。あの子は覚えてなかったと思うけどな、大阪の大空襲の時に、もうホンマに死んでてもおかしない状況やったんや。命拾たと言うてもええ。嫁も孫も見してもろたしな。私は50年分親孝行してもうたと思とるよ」

「私はお父ちゃんが嫌いや」

息子に誇らしげな表情を向ける祖母から父に目を向けて私はそう言った。

「何でなん」

祖母が首を傾げる。

「さんざんかっこええこと言うて、さっさとおらへんようになって。まだ、私や睦の子供も見てへんのに」

「そやな、憲三は親不孝やのうて子不幸やな」

祖母がそう言って笑った。


 そして、17回忌のすぐ後に起こった未曾有の大災害。一介の主婦の私にはできることなんて本当にないけれど、助かった方が少しでも笑顔でいられるように、そして亡くなった方がどうか安らかでありますようにと、私はコンビニの募金箱に釣り銭を入れて祈りを捧げた。



 




 

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