婚約候補から外されそうな私たちは、月例診療の薬箱を開くと息が合うようです
「沈黙が包帯よりきついです」
思っただけだった。
少なくとも、クリスティーネとしてはそういう診断だった。
「どの包帯だ」
老医師ハインリヒが診療台の脇から顔を上げた。診療助手のインゲも薬瓶を並べる手を止める。向かいに立つベルトルトまで、ぴくりとも動かない顔でこちらを見た。
声に出ていた。
「い、いえ、今のは患者さんの包帯ではなく、こちらの空気に対する所見と申しますか」
「空気に包帯を巻くな。挨拶を続けろ」
無茶をおっしゃる。
クリスティーネは診察室の中央で両手を握り直した。大勢ならまだしも、見ているのは三人だけ。三人だけなのに、喉が消毒綿を詰めた瓶みたいにきっちり塞がっている。
「本日より、お世話に、なります。ベルトルト様」
「こちらこそ」
伯爵家の次男ベルトルトは、それだけ言って口を閉じた。
終わった。
挨拶も。会話も。おそらく婚約候補としてのクリスティーネも。
彼は目鼻立ちの整った人だったが、その端正さは飾り棚の医療器具に近い。磨かれている。よく切れそう。そして近寄りがたい。
「冬の終わりまで月に一度、二人で領民を診ろ」
ハインリヒは二人の間に薬箱を置いた。
「任せられん組み合わせなら、元の縁談へ戻す。以上だ。開けろ」
子爵令嬢のクリスティーネと伯爵家次男のベルトルトが婚約候補として釣り合うか。その確認を舞踏会でも晩餐でもなく、領民診療で行うと言い出したのは両家ではなく、この老医師だった。
人柄は、弱った者の前で最もよく出る。
なるほど正論である。正論はいつだって逃げ道をきれいに塞ぐ。
二人で同時に薬箱へ手を伸ばした。
指先が触れる前に、ベルトルトが手を引いた。
はい、接触拒否。初見の診断結果が出ました。
「クリスティーネ嬢が」
「は、はい」
譲られただけかもしれない。けれど顔が動かない。声も平ら。嫌われている人間には、このくらいの解釈力しか残されないのだ。
最初の患者は、転んで膝を切った少年だった。
傷を洗い、クリスティーネが布を当て、ベルトルトが包帯を巻く。彼の指は大きいのに、動きは妙に慎重だった。
少年がほんの少し眉を寄せた。
「包帯よりきつい……」
「何がですか」
ベルトルトの指が止まる。
「ち、違います。今のはその、私の胸中が漏れただけで」
何を正直に告白しているの、私!
ベルトルトは答えず、少年の膝へ巻いた包帯を解いた。一巻き戻し、指一本分の余裕を作り、結び目を皮膚へ当たらない位置へ移す。
「これなら」
「うん。痛くない」
少年が足を揺らした。
ベルトルトは一度うなずき、次の包帯へ手を伸ばした。
冗談ですらなかった胸中を、患者への指示として処理された。無視より実務的で、実務的だからこそ逃げ場がない。
「次」
ハインリヒが名簿を叩く。
「長い話は患者が治ってからにしろ」
していません。できていません。
クリスティーネは返事の代わりに次の患者を呼んだ。声は少し裏返った。
ベルトルトは笑わなかった。
* * *
二度目の月例診療で、ベルトルトは薬札の前に止まった。
咳止めの薬瓶に結ばれた札には、服用量のほか、煎じ方、保存方法、注意事項が細かな字でびっしり書かれている。これを書いたハインリヒは、短い命令しか口にしないくせに、札の上では突然雄弁になる。
ベルトルトは一行目を追い、同じ場所へ視線を戻し、また追った。
後ろには患者が待っている。
クリスティーネが声をかける前に、彼は札を外した。
何も言わず、こちらへ差し出す。
雑用を押しつけられた。
そう理解すると腹も立つし、腹が立てば声は出る。便利だ。怒りは喉に効く薬らしい。
「食後に一包、湯で。眠気が出ることがあるので、服用後の遠出は避けてください」
クリスティーネは一息で読み、患者へ瓶を渡した。
「助かる」
ベルトルトはもう次の患者の歩き方を見ていた。
「左足ですか」
「昨日から膝がねえ」
「椅子を」
「こちらへどうぞ。インゲ、温めた布を」
「はいはい。お二人とも、私の仕事まで先に決めないでくださいな」
診療は進んだ。
長い薬札は必ずクリスティーネの手へ来た。ベルトルトは言い訳も、取り繕いもしない。読めるほうが読めということだろう。ずいぶん合理的な方である。婚約相手というより、薬棚の一段として評価されている気がする。
けれど、棚でも役に立てるなら落第ではない。たぶん。
診療が終わったとき、机には二つの食事盆が置かれた。
クリスティーネの皿は空になった。ベルトルトのスープには薄い膜が張っている。
彼は診療記録を一文字ずつ追い、まだ半分にも届いていなかった。眉間にだけ、細い線がある。
クリスティーネは立ち上がり、彼の書類の上へ盆を押し出した。
「先に食べてください」
ベルトルトが顔を上げる。
「記録が」
「スープは記録が終わるまで温かく待ってくれません。患者より聞き分けが悪いんです」
また診療道具に寄せた。いや、スープは道具ではない。いよいよ分類まで危うい。
「……わかった」
彼は匙を取った。
ただそれだけなのに、冷えていたスープが少しだけ勝った気がした。
* * *
三度目の月例診療が終わると、今度はクリスティーネが薬草の在庫表に捕まった。
乾燥させた葉の数が合わない。あと一束。たった一束が、机の下か棚の裏か、数字のあの世へ旅立っている。
目の前へスープが置かれた。
「先に食べてください」
ベルトルトだった。
前月と同じ言葉。同じ平らな声。
礼儀を借りたなら、そのまま返す方なのだろう。帳簿が合う。貸し借りなし。なんと健全で隙のない社交。
「ありがとうございます」
クリスティーネはスープを飲んだ。温かさが妙に悔しい。
四度目には、診療を始める前からベルトルトが彼女の顔を見ていた。
今日は髪も乱れていない。襟も留まっている。薬草染みは袖口の内側へ隠した。婚約候補として最低限の外観は保っているはずだ。
「昨夜、眠っていないのですか」
「なぜそれを」
「目の下が暗い。瞬きも遅い」
観察が鋭すぎる。診察対象は領民です。婚約候補を勝手に患者へ分類してはいけない。
「少し、薬草を仕分けていただけです」
「少しではない」
ベルトルトは診療台の横から椅子を引いた。
「座ってください」
「私は働けます」
「転びそうだ」
役立たず判定!
しかも反論しようとした瞬間、椅子の脚に踵をぶつけた。身体が敵へ回った。裏切り者め。
クリスティーネが座ると、ベルトルトは満足した様子もなく薬箱を開いた。きっと戦力外を安全な場所へ片づけただけだ。
ところが昼近く、彼が包帯を切る鋏を持ったとき、刃先がかすかに鳴った。
震えている。
顔色も朝より白い。頬が少しこけて見える。これは空腹。間違いない。
心配していると思われるのは困る。相手は自分を椅子へ収納した人だ。ここはあくまで診療を滞らせないための燃料補給という体裁でいこう。
クリスティーネは自分の籠から固いパンを出し、無言で差し出した。
ベルトルトはパンと彼女の顔を交互に見た。
「これは」
「余りました」
「歯形がありますが」
「余る前に一度、私のものだったので」
苦しい。言い訳が固いパンより固い。
彼はしばらく黙ってから、歯形のない側を割った。半分を口にし、残り半分を紙に包んで懐へ入れる。
「助かる」
その言葉も、二度目だった。
礼儀の在庫が少ないのかもしれない。それなのにクリスティーネは、翌月もパンを一つ多く籠へ入れた。
* * *
「水」
「はい」
「押さえて」
「ここですね」
「次の方」
「どうぞ」
五度目の月例診療では、会話がそれだけになった。
ベルトルトが手を出せば、クリスティーネは必要な布を置く。クリスティーネが薬札へ指を添えれば、彼は患者の歩調を落として待つ。包帯の結び目は肌に当たらず、昼までに二つの食器が空になる。
社交としては壊滅的。
診療としては、怖いほど速い。
「今月も同じお二人でよかった」
腰を温めた老女が、帰り際に笑った。
「ベルトルト様は具合の悪いところをすぐ見つけてくださいますから」
クリスティーネは答えた。
「クリスティーネ嬢が薬のことをよく知っているからです」
ベルトルトも答えた。
老女は二人を順番に見て、何か言いたげに口を開いたが、インゲに肩掛けを直され、そのまま帰っていった。
結局、評価されたのはベルトルトだ。
クリスティーネは空になった彼の皿を片づけた。
隣では、ベルトルトが彼女の巻いた包帯の結び目を指先で確かめていた。
冬の終わりまで、あと二度。
* * *
六度目の診療を前に、別の縁談の話が届いた。
正式な決定ではない。二人の組み合わせは会話が少なすぎ、婚約後の暮らしに不向きではないか。冬の確認が終われば、それぞれ以前に打診されていた縁談へ戻すかもしれない——それだけの話だった。
なるほど。周囲の目は正しい。
診療室で「水」「押さえて」と通じても、食卓で「塩」「取って」だけでは夫婦生活が調味料より先に尽きる。
ベルトルトはクリスティーネといる間、ほとんど笑わなかった。目もあまり合わせない。長い札だけ寄越して、用が済めば離れる。
自由にして差し上げるべきだ。
診療後、クリスティーネは戸口で彼を呼び止めた。
「ベルトルト様。次の診療の前に、お話が」
「僕もあります」
「では、先に」
「クリスティーネ嬢から」
譲り合っているのに、道だけが開かない。どういう交通障害だ。
「私は、配置を替えていただこうかと」
ベルトルトの目元が強張った。
「そうですか」
「ベルトルト様には、そのほうが」
「僕も辞退を申し出るつもりでした」
胸の中で、薬瓶が棚から落ちた。
「辞退を」
「これ以上、失望させたくないので」
「私が?」
「僕では不都合でしょう」
なぜ。
その一言が出ない。喉まで上がって、また消毒綿の瓶へ戻っていく。
「ベルトルト様こそ、顔色がよくありません」
「クリスティーネ嬢も」
聞きたいことは一つなのに、二人そろって診察を始めた。
ベルトルトは一礼して去った。
クリスティーネは戸口に残った。彼へ渡すつもりだったパンが籠の底にあり、指で押すと、冷たくへこんだ。
* * *
最後の月例診療の日、雪解け水が軒から絶えず落ちていた。
待合にはいつもより多くの領民がいる。冬の間に痛めた腰、咳の残る子ども、荷車から落ちた男。視線が集まるだけで、クリスティーネの喉は律儀に狭くなった。
机の上には薬箱。
向かいにはベルトルト。
彼の目の下にも薄い影がある。クリスティーネを見て、すぐ長い薬札へ視線を落とした。
今日が終われば、別々になるかもしれない。
「あの、ベルトルト様」
「はい」
「先月の、配置の件ですが」
待っている領民の顔が一斉にこちらを向いた。
声が止まる。
ベルトルトは急かさなかった。薬札を読もうとするように、同じ行へ目を置いている。
「私は」
外で馬が嘶いた。
車輪の軋む音。
何かが石へ激しく当たり、待合の壁が震えた。
「伏せて!」
ベルトルトの声と同時に、診療所前の荷車が横倒しになった。積まれていた板材が庇の支柱を打つ。濡れて傷んでいた木が裂け、待合の端へ屋根材が落ちた。
音が続いた。
椅子が倒れる。器が割れる。誰かが叫ぶ。
白い粉塵の向こうで、小さな靴が見えた。
クリスティーネは薬箱を掴んだ。反対側の取っ手をベルトルトが持つ。
二人で蓋を開ける。
「インゲ、戸を開けて。動ける方を外へ」
「はい! 立てる方、私の声のほうへ!」
ベルトルトが待合を見回す。右。左。床。呼吸。血。足の向き。
「板の下に子ども一人。呼吸あり。先に梁を支える。そちらの男性は腕から出血。布で押さえて座らせて。老女は歩かせない」
「わ、わかりました」
声が震えた。だから何だ。倒れている人の名まで揺らぐわけではない。
インゲが患者名簿をクリスティーネの震える手へ置いた。
「名前を。みんな、あなたの声を知っています」
クリスティーネは名簿を開いた。
「マルクさん!」
「いる! 腕を切っただけだ!」
「布を傷へ押し当てて、そのまま座ってください。離さないで!」
「わかった!」
「エナさん!」
「ここだよ。足が動かない」
「動かさないでください。今、ベルトルト様が行きます」
「坊や、返事をしてください。ノア!」
板の下から咳が返った。
「いるよ」
「すぐ出します。目を閉じないで、私の声を聞いていてください」
ベルトルトは二人の男に支柱の持ち上げ方を指で示した。長い説明はない。
「ここを持つ。僕が数える。一、二、上げて」
板が浮く。
「クリスティーネ嬢、今だ」
クリスティーネは床へ膝をつき、隙間から少年の腕を取った。ベルトルトが肩を支え、二人で引き出す。
「息は」
「速いですが、話せます。額に傷。右脚は動きます。左は——」
少年が顔をしかめた。
「触れないで固定する。インゲ、毛布」
「持ってきます!」
「マルクさんの布が赤いです!」
領民の声が飛ぶ。
クリスティーネは立とうとして、足がもつれた。ベルトルトの手が肘を支える。
「ゆっくりでいい。次は何が要る」
「止血用の布と、細い包帯。薬箱の、右側です」
ベルトルトは長い薬札のついた瓶を取った。札へ目を落とし、止まる。
一拍。
彼は札を剥がし、クリスティーネへ渡した。
「読んでください」
「はい。これは傷を洗った後。今は布を」
ベルトルトは札を手放すと、次の負傷者へ視線を戻した。
クリスティーネの言葉が詰まると、彼女は薬箱の中を指した。ベルトルトは指先を追い、必要な包帯を取る。ベルトルトが患者の位置を指せば、クリスティーネは名前を呼ぶ。
「押さえて」
「はい」
「次」
「エナさんを先に」
「わかった」
マルクの腕へ巻いた包帯を、ベルトルトが一巻きだけ戻した。
きつすぎたのだ。
結び目をずらし、指一本分の余裕を作る。
初めの月と同じ手だった。
違うのは、クリスティーネがもう、それを無視とは呼べないことだけだ。
ベルトルトには、クリスティーネの声が震えているのがわかった。
初めて会った日もそうだった。彼が長い挨拶を返せず黙るほど、彼女の指は強く組まれていった。失望させたと思った。薬札を差し出した月には、きっと呆れられると身構えた。けれど彼女は一度も笑わず、必要な箇所を読み、患者へわかる言葉で渡した。
冷えたスープを押しつけた手。
歯形のついた固いパン。
眠っていない目で、それでも彼の震える指を見つけた視線。
どれも礼儀ではなかった。
彼がきつい包帯を結び直したのと同じだった。痛みが減るように。倒れず、次の朝へ行けるように。
「ベルトルト様」
名を呼ばれ、彼は振り向いた。
クリスティーネが布を持っている。声はまだ揺れている。
「この方を先に。呼吸が浅くなっています」
「寝台を空ける。二人、手を貸して」
ベルトルトは迷わなかった。
彼女が読める。
彼が見つける。
どちらかだけでは、薬箱は半分しか開かない。
最後の負傷者が寝台へ移されるまで、二人の手は何度も薬箱の上で重なった。
* * *
日が傾く頃、診療所はようやく静かになった。
重傷者はいない。額を切ったノアは毛布の中で眠り、マルクは腕を吊ったまま「腹が減った」と言い、エナは固定した足を見て帰りの夕食を心配している。
ハインリヒが一人ずつ診て回り、最後の寝台から顔を上げた。
「よし。全員、明日もう一度来い」
「先生、二人は」
インゲが机のほうを顎で示す。
「放っておけ。倒れたら患者が二人増えるだけだ」
クリスティーネは椅子に座っていた。
立とうとしたが、指が細かく震えて机を掴めない。
向かいにいたベルトルトが片膝をつき、その手を取った。
「食事を抜いた震えです」
「ち、違います。事故のせいで」
「朝も食べていない」
「なぜわかるんですか」
「顔色と、手。それから昼に何も減っていなかった」
彼の親指が、クリスティーネの手の甲へ軽く触れた。包帯を巻くときより、ずっとためらいがちだ。
「ベルトルト様も食べていません」
「僕は」
「指が震えています。頬も白いです。診察対象です」
「婚約候補を勝手に患者へ分類してはいけないのでは」
クリスティーネは息を止めた。
「聞こえていたんですか」
「四度目に」
「忘れてください!」
「無理です」
即答だった。表情はほとんど変わらないのに、耳だけが赤い。そんな症状は教本にない。ないけれど、とてもよろしい傾向です。何にとってかは、今は追及しない。
ベルトルトは手を離さなかった。
「配置を替えたいという話ですが」
浮かれかけた胸へ、針が刺さる。
「はい」
「僕が嫌われていると思いました」
「誰にですか」
「クリスティーネ嬢に」
診断不能。
患者が自分からまったく予想外の症状を申告してきた。
「どうしてですか」
「僕が黙るたび、あなたは苦しそうだった。薬札を渡したときも、怒っているように見えました」
「怒っていました。雑用を押しつけられたのだと思って」
「押しつけたかったのではありません。読むのが遅いと知られて、軽蔑されると思った」
「私が?」
「あなたはすぐ読めるから」
「ベルトルト様は、私が声を詰まらせても待ってくださったではありませんか」
「言葉が出ない人を急かす理由はないでしょう」
「長い札が読めない人を笑う理由もありません」
ベルトルトの指が、彼女の手を少し強く包んだ。
「椅子へ座らされたときは、役に立たないと思われたのだと」
「倒れそうだったからです」
「パンは余りものを処分したのだと」
「一つ多く持ってきました。あなたが食べないから」
「毎月?」
「毎月です」
言ってしまった。
これはもう薬箱の蓋では閉まらない。
「僕も、スープを二人分頼んでいました」
「礼儀を返されたのかと」
「あなたが食べないからです」
二人の間に、言葉がなくなった。
けれど初めて会った日の沈黙とは違う。喉を締める包帯ではない。次に置く言葉の場所を、空けて待っている。
「私たち、ずっと誤診していたんですね」
診療道具の比喩が、また口から漏れた。
今度は訂正しなかった。
「はい。かなり長く」
ベルトルトの目元が濡れて光った。瞬きをしても、隠れない。
「別の縁談へ行きたくありません」
クリスティーネの息が止まる。
彼は一度うつむいた。長い薬札を読むときのように時間をかけ、けれど今度は誰にも言葉を渡さなかった。
「あなたと働きたい。食べたか確かめたい。眠っていなければ椅子へ座らせたい。僕が読めないときは、札を渡したい」
握られた手の震えが、どちらのものかわからなくなる。
「翌日も、会いたい。クリスティーネ」
そこで初めて、彼は「クリスティーネ」と呼んだ。
様も嬢もない、たった四音。
そこへ突っ込めない。喉が今度こそ完全に働かない。診療道具にたとえる余裕まで消し飛んだ。これは重症。いや、たぶん、とても幸せなほうの。
正式な返事をしなくては。
婚約候補として。子爵令嬢として。二十歳の女性として。
口を開いたところで、扉が勢いよく開いた。
「食べてください。二人とも」
インゲが二つの食事盆を運び込み、一つの机へ並べた。
「返事より先です。今度倒れたら、私が床へ縛りつけますからね」
クリスティーネの前には豆のスープと柔らかなパン。ベルトルトの前にも同じもの。
二つの盆が、同じ机にある。
ベルトルトがクリスティーネの盆を押した。
クリスティーネもベルトルトの盆を押した。
「先に食べてください」
「先に食べてください」
ぴたりと重なった。
治療方針が初めて真正面から衝突した。
ベルトルトが目を上げる。クリスティーネも見る。彼の口元がわずかに崩れたと思った次の瞬間、どちらからともなく声がこぼれた。
クリスティーネは机へ額をつけそうになりながら笑った。ベルトルトも肩を揺らしている。こんな声を出せる人だったのか。お互いさまだ。初回診療から半年、診断結果は笑いすぎによる腹痛。
戸口からハインリヒが覗いた。
「そちらも共同診療かね」
「先生、今は患者が食べるほうが先です」
インゲが扉を閉めた。
二人はまだ笑いながら、それぞれ匙を取った。
二つの食事盆は、最後まで同じ机の上にあった。




